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源氏物語 宇治十帖の古跡への訪問記 on 2024-12-1&12-2 その9 手習(てならい)

2024年12月26日 05時06分20秒 | 京都情報
2024年12月1日及び12月2日に源氏物語 宇治十帖の古跡を訪問しました。
10回に分けてシリーズとして紹介していきます。
シリーズも第9回となり最終回の第10回まであと1歩のところまで来ています。
年内には完結させたいと考えています。

源氏物語の「宇治十帖(45帖~54帖)は紫式部が41歳の寛弘7年(1010) に執筆が開始されました。
源氏物語は寛弘9年(1012)に全巻、完成しています。
宇治十帖は第45帖の橋姫に始まり第54帖の夢浮橋で終わる下記の10帖を指します。
 第45帖   橋姫(はしひめ)
 第46帖   椎本(しいがもと)
 第47帖   総角(あげまき)
 第48帖   早蕨(さわらび)
 第49帖   宿木(やどりぎ)
 第50帖   東屋(あずまや)
 第51帖   浮舟(うきふね)
 第52帖   蜻蛉(かげろう)
 第53帖   手習(てならい)
 第54帖   夢浮橋(ゆめのうきはし) 異名:法の師
宇治十帖は光源氏が亡くなった後の話で、主役は光源氏の子供である薫と孫の匂宮です。

第9回は第53帖の手習(てならい)です。
宇治市は私の生まれ故郷で小学校5年生の2学期まで11年間を過ごしました。

シリーズのIndex
第1回

第2回

第3回

第4回

第5回

第6回

第7回

第8回


上の地図は宇治十帖の古跡の位置 を示すものです。
出典:宇治川歴史散歩 Page104

源氏物語の宇治十帖での主要人物である光源氏の異母弟宇治八宮の庵は
宇治上神社の周辺と設定されています。 

前置きが長くなりましたが手習の古跡を紹介していきます。
手習の所在地はJR奈良線の三室戸踏切近くの幹線道路、宇治淀線沿いにあります 。




上の2枚の写真は手習の杜と書かれた石碑と手習の杜の遠景
撮影:2024年12月2日



上の写真は平成18年(2006)10月、宇治市文化財愛護協会によって建てられた現地説明板
撮影:2024年12月2日


上の写真は源氏物語ミュージアムの展示「手習」
撮影:2024年12月1日


手習の名前の由来
浮舟は宇治川河畔で倒れていたところを横川の僧都に助けられ洛北の小野で介抱された。
元気を取り戻した浮舟は出家し手習いをして次のような和歌を詠んでいます。
身を投げし 涙の川の 早き瀬を しがらみかけて 誰かとどめし  - 浮舟 - 」

手習の概略あらすじ
薫薫27歳から28歳の夏にかけての話。

浮舟の姿が見えなくなっていたが、実は浮舟は宇治川河畔で気を失っていたところを

吉川の僧都に助けられ、洛北の小野の庵で介抱されていた。
そして出家をとげた浮舟はようやく心の安らぎを得る。
勤行と手習いに和歌などを書き散らす日々であった。
こうした事情はやがて、浮舟のことが忘れられず、悲しい思いで沈んでいる薫君の耳に入ります。 
この帖から登場する比叡山の高僧・横川の僧都(よかわのそうづ)は、当時の
平安貴族に人気の高かった恵心僧都(源信)がモデルと言われています。

恵心僧都(源信)に関連する事項として恵心院があります。
恵心院は弘仁十三年(822)弘法大師(空海)の創建になるという。初め寺名は唐の 青龍寺に似ていることから龍泉寺と呼ばれたが平安中期(1004-1011)に恵心僧都が再興して、以後寺号を恵心院と称するようになった

 

上の2枚の写真は恵心院の銀杏と本堂
撮影:2024年12月1日

参考サイト

 


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