CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その8 生け簀料理 卑弥呼での夕食

2021年12月10日 04時44分10秒 | 京都情報

本日は舞鶴への訪問記シリーズの第8回で11月17日に頂いたいけす料理・卑弥呼

での夕食について紹介します。

 

過去の訪問記

 第1回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 202-11-17~11-19 その1 舞鶴市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第2回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その2 舞鶴引揚記念館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第3回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その3 海軍割烹術食堂 羅針盤でのランチ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第4回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その4 復元引揚桟橋 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第5回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その5 松尾寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第6回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その6 金剛院 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第7回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その7 だるま堂のだるま様 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

いけす料理 卑弥呼 舞鶴の基本情報

住所:舞鶴市浜166  TEL:0773-64-4488、050-5457-1909

料理ジャンル:和食  定休日:無休(大晦日と元旦は休み) 臨時定休日あり

営業時間:ランチ11:00~15:00 ディナー17:00~23:00

公式サイト:いけす料理|卑弥呼 舞鶴 (himiko-maizuru.com)

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

当日、私はお造り和膳 1,980円(税込)奥様は寿司天ぷら和膳1,980円(税込)を注文

上の写真は私が注文したお造り和膳 1,980円(税込)

上の写真はお造り和膳のお造りのアップ

上の写真は奥様が注文した寿司天ぷら和膳1,980円(税込)

上の写真は寿司天ぷら和膳の天婦羅のアップ

 

 

最初にビール570円を注文 自動的にお通し330円がついてきます

2人合計で5,190円(税込)ですみました。刺身も天ぷらも満足な味でした。

 

ランチョンマットには次の言葉が書かれています。

物づくりする手前どもの心

 ・お客様のご愛顧に精一杯真心で報いたい。

 ・自然・本物の為なら、どんな手間も惜しまない。

 ・単に物を売るだけでない、食の文化を提供したい。

 ・良い物は必ず残る。この心にこだわり続けたい。

上の写真は定食物のメニュー表。

今度、もし食べるとしたら釜飯を食べてみたいと思いました。

上の写真はお店の外観。

上の写真は帰り道、当日の宿舎(ホテルベルマーレ)の前のイルミネーション

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舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その7 だるま堂のだるま様

2021年12月09日 03時39分16秒 | 京都情報

本日は舞鶴への訪問記シリーズの第7回で11月17日に訪問のだるま堂のだるま様

について紹介します。

 

過去の訪問記

 第1回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 202-11-17~11-19 その1 舞鶴市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第2回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その2 舞鶴引揚記念館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第3回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その3 海軍割烹術食堂 羅針盤でのランチ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第4回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その4 復元引揚桟橋 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第5回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その5 松尾寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第6回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その6 金剛院 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

だるま堂(舞鶴実業界事務所)の基本情報

住所:舞鶴市字浜624 TEL:0773-62-0217

公式サイト:舞鶴実業会事業協同組合 (maizurujitsugyokai.com)

Goo地図を添付しておきます。

 

だるま堂は毎年秋に催されるだるま祭を主催しておられる舞鶴実業会の事務所となっています。

戦後、舞鶴東実業協会として発足した時の地元商店の繁栄策として、七転八起のだるま大師の

故事に習って昭和23年に諸団体と共にだるま祭が始められました

舞鶴東実業協会は舞鶴実業会と名前を変更し現在、舞鶴実業会事業協同組合という名称になってます。

だるま様の数だけだるま祭が行われたそうです。

 

上の写真は当日の宿舎のホテルベルマーレが作製した地図にだるま堂の位置を示したものです。

三条通と敷島通の交点の北側にあります。

東舞鶴の市街地は京都市と同じように碁盤の目になっており判り易い。

京都流の表現では三条敷島上がるにだるま堂があります。

東舞鶴の東西の通りには旧海軍の軍艦の名前がついています。

東舞鶴駅側から順番に三笠通、初瀬通、朝日通、敷島通、八島通、大門通、富士通、潮路通

と名付けられています。

上の写真は三条通に掲示されていた初瀬通りの看板

上の写真は三条通に掲示されていた朝日通りの看板

だるま祭はインターネットの情報では「はまっこだるま祭」が正式名称で八島通商店街を

メイン会場として開催されています。2021年は10月31日(日)に開催されました。

はまっこだるま祭としてFacebookのサイトを開設されています。(下記サイト)

 はまっこだるま祭 - ホーム | Facebook

 

だるま祭の様子を撮ったYoutube動画がみつかりましたのでGooで共有させていただきました。

第67回舞鶴だるま祭

この動画は2015年に行われた舞鶴だるま祭の様子です。

 

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舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その6 金剛院

2021年12月08日 04時45分55秒 | 京都情報

本日は舞鶴への訪問記シリーズの第6回で11月17日に訪問の金剛院について

紹介します。金剛院は紅葉の名所、そして快慶作と伝わる深沙大将立像・執金剛神立像

などが有名です。

過去の訪問記

 第1回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 202-11-17~11-19 その1 舞鶴市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第2回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その2 舞鶴引揚記念館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第3回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その3 海軍割烹術食堂 羅針盤でのランチ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第4回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その4 復元引揚桟橋 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第5回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その5 松尾寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

金剛院の基本情報

住所:舞鶴市鹿原595 TEL: 0773-62-1180  正式名:鹿原山 慈恩寺 金剛院

山号:鹿原山 宗派:真言宗東寺派  御本尊:波切不動明王

拝観時間:9:00~16:00 入山料:300円 宝物館の拝観は500円(要予約)

開山:天長6年(829)52代平城天皇の第3皇子、高岳親王(法名は眞如)によって創建

公式サイト:ようこそ金剛院へ (fc2.com)

 

三重塔(重要文化財)

柿葺(こけらぶき)の三間三重塔で総高24m。正式には 金剛院塔婆という。

英保2年(1082)高岳親王(法名は真如)の菩提のため白河天皇が建立。

久安2年(1146)美福門院によって平忠盛(平清盛の父)が奉行し本堂の建立とともに修飾。

上の写真は三重塔内に鎮座されている高岳親王の像

上の写真はリーフレットの表紙よりカエデの紅葉が素晴らしい三重塔

本堂(京都府指定有形文化財)

階段がきつく実際には登らなかった

上の写真は冊子「舞鶴の文化財」Page11に掲載のものです。

天保3年(1832)に起工し天保11年(1840)3月に棟上げ行われた。

大工小工は栃尾村など地元出身者が担い、正面・向背の龍の彫り物は江戸時代後半に

丹後一円で活躍した中井正貞の作である。

上の写真は階段下から撮った本堂 以下公式サイトより引用

御本尊の波切不動明王英保2年(1082)、白河天皇のご病気平癒祈願の為に若狭の国
から勧請されたもので、天皇のご病気が不動明王の力で平癒したことに白河天皇は満悦
され、当時荒廃していた金剛院を復興し三重の塔を建立して真如法親王を追善供養され、 

勅願寺として「慈恩寺」の寺号を下賜されました。普段は秘蔵され、
毎年2月3日の節分会の法要の間だけご開帳されます。

 

山門

京都 花の寺第三番の看板があります。

花の寺の写真が美しいサイトにリンクさせていただきました。

 第3番 金剛院 | 近畿二府四県の花寺めぐり|関西花の寺二十五カ所 (hana25.jp)


雲山閣

階段下から撮った雲山閣。清水寺の舞台を思わせるような建物である。

本堂と渡り廊下で繋がっている。拝殿。


宝物殿

国の重要文化財に指定されている宝物が多く、価値があると思うが観覧せずに帰ってきました。

事務所

常盤簪

上の写真は事務所の前の常盤簪(ときわかんざし) ピラカンサ

赤色の実が多く実っており、素晴らしく美しかった。

手水舎

石仏

境内の紅葉



庭園「鶴亀の庭」

実際にはみることが出来なかったが有名な庭ということで取り上げました

小池庭ともいう。細川幽斎の作庭。

 詳しいサイトにリンクさせていただきました。

  金剛院庭園 ― 細川幽斎作庭…京都府舞鶴市の庭園。 | 庭園情報メディア[おにわさん] (oniwa.garden)
千年ガヤ(舞鶴市指定天然記念物)
山門
高岳親王の墓

 

境内配置図

 

金剛院の国指定重要文化財

以下は冊子「舞鶴の文化財」の写真を利用させていただきました。


木造 深沙大将立像(快慶作)

上の写真は深沙大将の縁起 金剛寺のリーフレットより

木造執金剛神立像(快慶作)


木造増長天・多聞天立像

 


木造金剛力士像 2躯


木造阿弥陀如来坐像


絹本着色薬師十二神将像

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舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その5 松尾寺

2021年12月07日 04時50分40秒 | 京都情報

本日は舞鶴への訪問記シリーズの第5回で11月17日に訪問の松尾寺について

紹介します。松尾寺は西国三十三観音巡礼第二十九番札所として有名です。

過去の訪問記

 第1回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 202-11-17~11-19 その1 舞鶴市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第2回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その2 舞鶴引揚記念館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第3回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その3 海軍割烹術食堂 羅針盤でのランチ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第4回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その4 復元引揚桟橋 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

松尾寺の基本情報

住所:舞鶴市松尾532 TEL:0773-62-2900

宗派:真言宗醍醐派  山号:青葉山 御本尊:馬頭観世音菩薩(馬頭観音)

拝観時間:8:00~17:00

御詠歌:そのかみはいくよへぬらん便りをば 千歳もここに松の尾の寺

開山:8世紀初頭 唐の僧、威光上人  中興:惟尊(ゆいそん)

公式サイト:京都府舞鶴市 西国第二十九番札所 青葉山 松尾寺 公式ホームページ (matsunoodera.com

 

本堂

上の写真は本堂の遠景 建物は京都府指定文化財(建造物)

鳥羽天皇の行幸があり、寺領四千石を給い、寺坊は65を数えて繁榮した。

鳥羽上皇は我が子(崇徳天皇)の出自(実は父・白河法皇の子ではないかという疑惑)に

悩むある日、煩悩を打ち砕く松尾寺の馬頭観音の存在を知り、上皇后の美福門院を

伴い参詣したと言われる。

正徳6年(1716)に類焼したのち牧野英成により享保15年(1730年)に修築されている。

建築にあたって、当時有力な大工集団「富田一族」に地元の大工が加わった。

当初、柿葺(こけらぶき)であったが昭和6年(1931)銅板葺に改められた。

上の写真は本堂の内部

上の写真は内陣で唐の僧威光が、松の木の下で感得した馬頭観音を胎内に収める

観音像(秘仏)が安置されている。

出典:NHK 趣味悠々 はじめての西国三十三所巡り 2008年10~11月 Page147

上の写真はお前立の馬頭観世音菩薩 

西国三十三霊場中、馬頭観音を本尊とするのは松尾寺だけ

出典:NHK 趣味悠々 はじめての西国三十三所巡り 2008年10~11月 Page147

上の写真は内陣の天井近くに祀ってある十三仏

出典:NHK 趣味悠々 はじめての西国三十三所巡り 2008年10~11月 Page147

上の写真は唐破風の彫刻

上の写真は本堂の壁の彫刻

経蔵

上の写真は経蔵 享和2年(1802)の建築 京都府指定文化財(建造物)

一切経が納められているそうです。

仁王門

上の写真は仁王門 建立時期は正徳年間(1711~1716)の建立、修復工事中であった。

京都府指定文化財(建造物)

上の写真は仁王門の扁額

大師堂

本堂から渡廊下で大師堂に繋がっています(上の写真)

上の写真は弘法大師像(手前)と背後の大師堂

庫裡

上の写真が庫裡。納経朱印はこちらで受付。

鐘楼とイチョウの木

寺伝では元永2年(1119)鳥羽天皇が美福門院と七堂伽藍再建の落慶式に参加された

時に手植えされたとされる。樹齢800年を超える巨樹である。

手水鉢

勅使門

皇室の菊の御紋が刻まれていました(上の写真)

勅使門の奥には方丈と思われる立派な建物がありました。(下の写真)

六所神社

厳島神社などと同じ両部鳥居の奥に鎮座しています。

銅葺屋根のお堂

回廊には六地蔵の石像が安置されています。

 

境内の歌碑

境内の石仏

 

トイレの中の張り紙

 和尚のおはなし (matsunoodera.com)

日露戦争記念碑

西国徒歩巡礼記念碑

 

鳥羽天皇の皇后「美福門院」も帰依

上の写真は西国二十九番霊場 松尾寺と書かれている石碑

横面に鳥羽天皇と皇后「美福門院」に関係する?字も刻まれています。

松尾寺の歴史

丹後と若狭の国境の青葉山にある。8世紀初頭の慶雲年間(704~708)、唐の僧威光が母国の霊峰「馬耳山」によく似た青葉山を訪れ、松の木の下で馬頭観音を感得。712年(和銅5年)、元明天皇の勅命で馬頭観音を安置する堂を造ったのが寺の起こりである。養老年間(717~724)、元正天皇の勅命で泰澄(白山を開山)が奥之院(妙理大権現)を開いた。

正暦年間(990~995)には春日為光が本尊馬頭観音を刻んだといわれています。

鳥羽法皇と美福門院が帰依し、鳥羽天皇の時代に時の住職惟尊に寺領と15の堂宇を授与。元永2年(1119)、惟尊が伽藍を中興整備。

行尊の三十三所巡礼手中記に16番松尾寺とあり、 1150年(久安6年)の長谷僧正の参詣次第に28番とある。のち29番となる。

織田信長の兵火で焼失。 1581年(天正9年)細川幽斎が本堂を再建。 1602年(慶長7年)京極高知が修復。1630年(寛永7年)焼失。正徳6年(1716)焼失。1730年(享保15年)修復。

円通寺の本初密門(1707-1788)に学んだ等空(1745-1816)が松尾寺を有部律の僧坊とした。

江戸時代は高野山円通寺、安芸・福王寺と共に「有部律の三僧坊」の一つとして知られた。

 

松尾寺の文化財

松尾寺の境内に入る入り口に上の写真のような指定文化財の一覧表の掲示がありました。

舞鶴の文化財という冊子より文化財の写真を添付しておきます。(宝物館に所蔵)

国宝

上の写真は丹後地方唯一の国宝絵画 絹本著色普賢延命像

昭和27年(1952)11月22日に国宝指定

12世紀作、美福門院の持念仏と伝えられる。大きさは縦139.4cm、幅67cm

普賢延命像には二臂と二十臂の二つの系統がある。前者は群象に支えられた金輪の上に

立つ一身三頭の白象に趺坐し、金剛薩〓と同形の五鈷杵(右)と五鈷鈴を執り、

後者は踏割蓮華に立つ四大白象に跌坐し、持物に金剛界十六大菩薩と四摂菩薩の

三摩耶形を執り、白象の頭頂に四天王が立つのを特色とする。


国指定の重要文化財

木造阿弥陀如来坐像 - 快慶作、鎌倉時代。(下の写真)


絹本著色孔雀明王像 - 鎌倉時代。(下の写真)


絹本著色法華曼荼羅図 - 鎌倉時代。(下の写真)


絹本著色如意輪観音像 - 徳治二年(1307年)一山一寧賛。(下の写真)


絹本著色終南山曼荼羅図 - 鎌倉時代。(下の写真)

 


重要無形民俗文化財
松尾寺の仏舞(松尾寺仏舞保存会)

上の写真は冊子「舞鶴の文化財」の表紙を飾っている松尾寺の仏舞

上の写真は松尾寺本堂で行われる仏舞の様子

舞儀音楽大会式として5月7日と5月8日に実施され、仏舞は5月8日に実施されます。

大日、釈迦、阿弥陀の各如来2人ずつの仏面をつけた舞手が典雅でゆるやかな舞を

繰り出す。

仏舞のYoutube動画をGooで共有させていただきました。

松尾寺の仏舞(京都府・舞鶴市)

【京都府舞鶴市】 松尾寺「仏舞」 2016.5.8

以下は文化庁のデータベースの解説文からの引用です。

松尾寺の仏舞は、仏の面をかぶった六人の舞手が、篳篥や龍笛など雅楽器の演奏にのせて舞うもので、今は行われなくなった舞楽の一演目をうかがわせるものである。
 京都府と福井県の境に、俗に若狭富士【わかさふじ】と呼ばれる青葉山【あおばやま】がある。その山の京都府側の中腹に松尾寺がある。同寺は八世紀初めの創建で、平安時代末期には観音霊場として信仰され、後に西国三十三所【さいごくさんじゅうさんしょ】観音霊場の第二十九番札所【ふだしょ】とされ、今も多くの参詣人を集めている。仏舞は、松尾寺の本堂の中で、毎年五月八日に披露されている。
 同寺本堂の内部は、正面約一五・三メートル、奥行き約一三・四メートルで、後方の約八・二メートルが、中央に須弥壇が置かれた内陣で、その手前側が参詣人が立ち入る場所になっている。内陣部分は手前側より五〇センチメートルほど高い。手前側の、右手前奥の壁際一隅に内陣と同様に一段高くなった場所がある。正面約二・五メートル、奥行き約二・八メートルで、内陣とは離れていて、その間は通路になっている。高くなった場所は、通常は寺の関係者が詰めていて、参詣人の求めに応じて朱印を押したり寺号などを記入したりしている。仏舞の公開当日になると、その一段高い場所を仏舞の舞台にするため、机などを片付けて、うすべりを敷く。通路部分には、内陣との間に板を渡し、その上に緋毛氈【ひもうせん】を敷いて楽人が座る場所にする。正面の須弥壇の向かって左側を白幕で仕切って、その奥を舞人が仏面を着け身支度をする場所にする。仏面は、舞人の顔の全面を覆うもので、頭には、光背を付けた宝冠をかぶる。六人の舞人のうち、二人は腰に鞨鼓を付け、両手にそれぞればちを持ち、二人は右手に振鼓【ふりつづみ】、左手にばちを持つ。舞人は、薄く青みがかった白い上衣に袴を着け、両手に手袋をして、左肩から袈裟をかける。
 仏面を着けた六人の舞人や楽人などが、須弥壇の前を行列して舞台に向かい、舞人は三人ずつの二列に並ぶ。緋毛氈を敷いた所には、一人ずつの楽太鼓、鞨鼓、篳篥の演奏者と三人の龍笛の演奏者の計六人の楽人が席に着く。楽太鼓の一打で仏舞が始まる。舞は、三人二列に並んだ舞人が、互いに内向きになっての舞、外向きになっての舞、六人が回りながら互いに居場所を入れ替わる舞がある。入れ替わる舞のときには、両手に何も持っていない舞人は、両手の指で阿弥陀如来や釈迦如来などの印【いん】を結ぶ。これらが繰り返されて、最後に入場のときと同じように列を作って退場して仏舞が終わる。
 この仏舞は、地元では六〇〇年ほど前に始まったと伝える。仏面の箱に書かれた享保十年(一七二五)の銘文や享保二十年(一七三五)、また宝暦十一年(一七六一)から天保十二年(一八四一)にかけて書かれた記録によって、一八世紀には、四月八日の仏誕会【ぶったんえ】に仏舞が行われていたことが確かめられる。現在、松尾寺では、毎年五月八日に仏誕会いわゆる花祭を行い、そのときに仏舞が演じられているが、四月から五月になったのは明治以降といわれている。
 六人の仏は、同様に一八世紀の寺の記録によると、二体ずつの釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来で、両手にばちを持つ仏が釈迦、振鼓とばちを持つ仏が大日、何も持たない仏が阿弥陀であるとされる。また音楽は、越天楽や五常楽とされるが、それらは現在の雅楽の同名曲とは異なっている。
 現在、この仏舞は、松尾地区を中心に周辺地域の人びとも参加して伝承・公開されているが、昭和四十年代ころまで、それぞれの仏や楽器ごとに伝承する家筋が決まっていて、まず、その家の長男に、また跡取りがいない場合は兄から弟に限って厳密に伝えられてきた。
 なお仏舞は、古代にインドから伝わった舞楽の「菩薩」と呼ばれた曲目に基づくものと考えられる。現在、「菩薩」は曲の一部が残るが、舞が、どのようなものであったか明らかではない。

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神戸市のふるさと納税を活用して神戸歴史遺産を次世代に残そう!

2021年12月06日 15時19分03秒 | 神戸情報

神戸市文化スポーツ局文化財課では神戸市のふるさと納税を活用して神戸歴史遺産を

次世代に残そう!というキャンペーンを実施されています。

上述の神戸市文化財課では下に添付のリーフレットを作成してPRされています。

1から8については12月31日が締め切りですので是非、神戸市の

ふるさと納税にご協力をお願い致します。

「神戸歴史遺産」は歴史ある伝統行事や建造物を後世に継承するため、神戸市が独自に

設けた制度で、支援はふるさと納税で受け付けている

詳細は神戸市の下記サイトをご参照ください。

 神戸市:神戸歴史遺産に応援を! (kobe.lg.jp)

神戸歴史遺産に関しては下記ブログで書いています。

 神戸歴史遺産に六甲ケーブル六甲山上駅など5件を選定 on 2021-7-28 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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神戸事件の犠牲者 瀧善三郎切腹に臨席した検証者

2021年12月06日 05時11分49秒 | 神奈川県情報

神戸市立名谷図書館から借りた本「内山正熊著の神戸事件~明治外交の出発点~」の

Page157に滝善三郎の切腹検証人の配置(下の写真)が掲載されていました。

このデータを基に切腹場面の図に検証人の名前を書き出してみました。

上の写真で立会人の名前を記載していますが読み難いので説明しておきます。

黄色で囲ったのが字を記載。

奥は外国の検証人、左よりハール、サベース(伊)、クレントジース(蘭)、

ハンデルフォー(仏)、サトー(英)、ミットフォード(英)、クリートン(米)

左手は伊藤博文と中島作太郎

中央は瀧善三郎と介錯人の佐藤佐源次?

 

慶応4年(1868)1月11日(1868.2.4):神戸事件、三宮神社前を東進中の備前藩の隊列を横切ろうとしたフランス水兵と藩兵の軽微な接触に端を発し、沖に停泊中の外国艦隊(米・英・仏計18隻)から陸戦隊が上陸し備前藩と交戦した(「神戸事件」)。外国軍は居留地を占拠し、東西に関門を設けて日本人の通行を制限し、維新政府に恫喝的書状を送った。両軍に死者は出ていない。維新政府は、勅使・東久世通禧を神戸に派遣した。

慶応4年(1868)1月15日(1868.2.8)
 勅使・東久世通禧、神戸で外国代表に政権交代を告げ事件処理。

  東久世は神戸運上所で6か国公使と会見し、天皇親政の国書を手渡して日本側の

 政権交代を告げ、衝突事件の日本側の責任を認め、責任者の処刑を約束した。

慶応4年(1868)2月9日(1868.3.2)

午後11時30分、備前藩小隊長瀧善三郎が、外国側と日本側立会いの下、兵庫永福寺で

切腹した。

神戸事件解決交渉において活躍した伊藤博文について初代兵庫県知事時代の事象を

記しておきます。

神戸の開港1ヶ月後に起きた神戸事件は明治新政府にとって初めての外交交渉となった。
この事件の穏便解決で活躍したのは明治元年(1868)5月23日兵庫県の初代知事と
なった伊藤博文(当時28歳の青年であった)である。
伊藤博文は偶然事件翌日の1月12日に神戸に立ち寄っていた。
伊藤博文まず大阪の外国事務取調掛の東久邇通禧(ひがしくにみちとみ)を勅使として神戸の
各国の公使を集めて「王政復古」を宣言した後、新政府の代表者として認めさせたうえで
事件解決の交渉に入っていった。

伊藤博文は初代の兵庫県知事で知事であった期間は下記のとおりです。
自:慶応4年5月23日  新暦換算では1868年7月12日
至:明治2年4月10日  新暦換算では1869年5月21日

伊藤博文の兵庫県知事時代は上記のように1年にも満たない短期であったが26歳
の伊藤博文は若輩ではあったが1863年に長州ファイブの一員として英国に留学
さらに英国から帰国後の1864年に高杉晋作、井上馨とともに下関戦争の戦後処理
1868年1月(旧暦)に起きた神戸事件の処理、さらに政府の要職参与にも
なっていた外交問題などに精通した大物の政治家であった。
尚、伊藤博文が兵庫県知事就任時は伊藤俊輔と称していました。

 

神戸事件関連、過去に書いたブログ

 瀧善三郎正信の顕彰碑 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 神戸事件と三宮神社 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 滝善三郎が切腹した永福寺(かって神戸市兵庫区にあった) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 堺事件犠牲者の墓とモニュメント in 神戸市立外国人墓地 on 2018-11-17 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その2 潮光山正覚寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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真珠湾攻撃から80年に関するニュース報道

2021年12月05日 06時41分53秒 | Weblog

1941年12月7日(日本時間8日)、旧日本軍のハワイ真珠湾奇襲攻撃から本年で80年と

なることから、種々の報道機関からいろんなニュースが伝えられています。

それらの中から主なものをピックアップしてみました。

 

1.旧日本軍が作成 真珠湾攻撃の状況描いた図面 米議会図書館公開

  旧日本軍が作成 真珠湾攻撃の状況描いた図面 米議会図書館公開 | NHKニュース

      Map of Pearl Harbor attack made public in US | NHK WORLD-JAPAN News

 淵田美津雄中佐が中心となって描いた図面で昭和天皇陛下にも説明された。

Hawai Kaisen tai suijō kansen senkazu, Shōwa 16-nen 12-gatsu 8-nichi = Estimated damage report against surface ships on the air attack of Pearl Harbor, December 8th, 1941 | Library of Congress (loc.gov)

 

2.バイデン大統領の声明

真珠湾攻撃に関するトピックス:朝日新聞デジタル (asahi.com) 

バイデン米大統領は12月3日、旧日本軍の真珠湾攻撃から80年を迎えるのを前に声明を発表した。バイデン氏は攻撃で犠牲になった兵士たちに哀悼の意を表し、「最も暗い時期に我々の国を導き、旧敵国を同盟国へと変えた国際システムの基礎を築いた偉大なる世代に感謝する」と記した。

 バイデン氏は声明で、1941年12月7日(日本時間8日)、旧日本軍の奇襲攻撃で、2403人の米軍兵士らが犠牲になったと振り返り、「80年たった今も不名誉な日だ」と記した。また、自身が10年前、米ハワイ・真珠湾の国立追悼施設アリゾナ記念館で亡くなった兵士たちを追悼した体験に触れたうえで、「我々は亡くなった人々を絶対に忘れることはない。そして我々はいつも米軍兵士らを思いやるという神聖な義務を名誉に感じている」と述べた。

 

3.原口さんの日記(12/4朝、NHKテレビでの報道)

日本の飛行機350機のうち未帰還機は29機 55人が死亡

一方、2403人の米軍兵士らが犠牲になった。

上の写真は航空隊時代の原口さん。

長崎・雲仙市に住む原口静彦さん・100歳は真珠湾攻撃に参加し今も存命の数少ない1人。

戦後は医者として地域医療に貢献されたとのこと。

 

4.Youtube動画

Pearl Harbor Day Memorial

 

5.NHKの特集番組

ニュース報道では無いがNHKが日中戦争(15年戦争)、太平洋戦争開戦に関して

下記の2つの番組が12月4日に放送されました。

1)NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争「1941 第1回 開戦(前編)」

 市民や指導者達の日記・手記などに出てくる言葉をAIで分析

上の写真は下のグラフが物資不足に関するワード 1940-1941の月別トレンドで

1941年12月頃、急上昇していることが判ります。

上のグラフは戦争に関するキーワードでこちらも1941年12月頃急上昇しています。

 

またこの頃、日米戦に関する書籍も多く出版されています。

上の写真はこの頃(1941年12月頃)雑誌社が行ったアンケート結果で約4割の人々が

日米戦は避けられないと回答しています。

2)ETV特集 昭和天皇が語る 開戦への道 前編 張作霖爆殺事件から日中戦争

昭和天皇に関する一級史料、初代宮内庁長官・田島道治の「拝謁記」に張作霖爆殺事件から

続く軍の下剋上を止められなかった反省が記載。

田島は満州放棄の考えを持っていた人物である。

さらに2021年9月東京大学に寄託された天皇の侍従長・百武三郎の日記(1936-1944)で、

和平工作に期待をかけながら全面戦争となり、苦悩する天皇の姿が克明に記載。

1937年1月、天皇が推薦した宇垣一成大将(軍縮を可とする穏健派)を首相に据えることに

対して陸軍の中堅幹部が強硬に反対し実現させなかった事象についても克明に記載。

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舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その4 復元引揚桟橋

2021年12月04日 05時27分05秒 | 神奈川県情報

本日は舞鶴への訪問記シリーズの第4回で11月17日に訪問の復元引揚桟橋について

紹介します。

過去の訪問記

 第1回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 202-11-17~11-19 その1 舞鶴市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第2回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その2 舞鶴引揚記念館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第3回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その3 海軍割烹術食堂 羅針盤でのランチ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

舞鶴引揚記念館の駐車場に上の写真の案内板がありこれに従い復元された引揚桟橋

に向かいました。

復元引揚桟橋は平成6年(1994)5月、引揚者が帰国の第一歩を踏みしめ、感動の

舞台となった「平引揚桟橋」が「引揚を記念する舞鶴・全国友の会」により展望台の

眼下にある平湾に復元されました。

 

上の写真が復元引揚桟橋の現場です。

当時の桟橋は今の3倍の長さだったそうです

上の写真は引揚桟橋の遠景です。

上の写真は現地説明板。

記載の内容をそのまま転記しておきます。

引揚桟橋(復元)

舞鶴港は昭和20年から昭和33年まで、延346隻の引揚船が入港しました。

特に昭和25年以降は、舞鶴港が日本唯一の引揚港でした。

引揚船の乗船人数は1隻あたり約2,000~3,000人で、引揚船に小型船が横づけされ、

引揚者はこれに乗り換えて桟橋に上陸していました

平成6年(1994)5月建立

北桟橋・・・昭和27年の大雪で壊れるまで、引揚桟橋の右手に見える白い三階建の

      建物(大浦小学校)付近の海岸にありました

南桟橋・・・昭和28年からは、北桟橋に代わり上陸桟橋として使用されており、

      復元桟橋より約20m北側にありました。

上の写真は説明板の写真の部分の拡大版

復元引揚桟橋は南桟橋があった場所の近くに建設されました。

北桟橋は現在、大浦小学校の近くにあったようです。

上の写真は引揚桟橋の復元に注力された引揚を記念する舞鶴・全国友の会のメンバーの

名前が記載のボードです。

引き揚げの母として有名な田端ハナさんの名前も見られました。

上の写真は招霊の碑

説明板には次のように書かれています。

昭和二十年八月八日、日ソ不可侵条約の一方的破棄による旧ソ連の参戦により発生した六十万兵士のシベリア抑留(強制労働)と、満州における一般邦人(婦女子)の悲劇。
この死没者の鎮魂のため、各収容所跡、墓地、自決地付近の小石を蒐集、納石し、断腸の思いも空しく異国の地に果てた同胞のため、引揚桟橋の傍に招霊の碑を建立する。

上の写真は復元引揚桟橋の場所あたりにあった南桟橋

上の方には舞鶴地方引揚援護局の建物群が写っています。

舞鶴地方引揚援護局の跡地は現在「平工業団地」となっています。

上の写真は興安丸

上の写真のような碑もありました。引揚者の方だと思います。

 

Wikipediaによる平桟橋の解説文は以下のとおりです。

平桟橋(たいらさんばし)は舞鶴港にある桟橋。中国からの帰還者や、ソ連に不法抑留された引揚者が夢にまでみた祖国の土を踏んだ地である。引揚桟橋とも。

太平洋戦争(大東亜戦争)が終結した当時、海外に残された日本人は660万人以上といわれ、その引揚げのために舞鶴港の他9港が指定され、引揚援護局を設置して業務を開始された。舞鶴港では当初は舞鶴西港が引揚げ港に指定されたが、ソ連地域からの引揚げが開始された1947年(昭和22年)には舞鶴東港の平桟橋へ変更され、その後13年にわたって多くの引揚者が祖国への一歩を平桟橋に記した。

 

youtube動画

舞鶴引揚桟橋(舞鶴市平)

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舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その3 海軍割烹術食堂 羅針盤でのランチ

2021年12月03日 04時24分15秒 | 京都情報

本日は舞鶴への訪問記シリーズの第3回で11月17日に訪問の舞鶴引揚記念館内の

カフェ 海軍割烹術食堂 羅針盤でのランチについて紹介します。

過去の訪問記

 第1回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 202-11-17~11-19 その1 舞鶴市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第2回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その2 舞鶴引揚記念館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

海軍割烹術食堂 羅針盤の基本情報

 住所:舞鶴市平1584 舞鶴引揚記念館内 TEL:0773-60-2216

 営業時間:11:00~15:00  休み:第三木曜日

 公式サイト:海軍割烹術食堂 羅針盤 - 洋食店 (business.site)

    公式FB:こんにちは☀️ 海軍割烹術食堂 羅針盤です . 本日、ご紹介するのは... - アルル アスクロ 浪漫譚 店舗情報 | Facebook

 

上の写真は私が選んだ海軍割烹術膳 1,100円(税込)

上の3枚の写真は海軍割烹膳の小鉢、主膳、お澄まし

こちらはどれも丁寧に調理されており美味しく頂きました。

Goodです。お奨めの選択です。

上の写真は奥様が選んだ元祖海軍カレイライス 1,500円(税込)

こちらは奥様の評が厳しく No Good。

写真が無いですが食後にコーヒー280円(税込)も頂きました

上の写真は海軍割烹術膳の説明看板

上の2枚の写真は元祖海軍カレイライスの説明看板

上の写真はお店の看板

参考サイト

 舞鶴引揚記念館で旧海軍料理を復刻 「海軍割烹術食堂」:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 海軍洋食文化 舞鶴から : ニュース : 京都 : 地域 : 読売新聞オンライン (yomiuri.co.jp)

 

 

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舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その2 舞鶴引揚記念館

2021年12月02日 03時44分24秒 | 京都情報

本日は舞鶴への訪問記シリーズの第2回で11月17日に訪問の舞鶴引揚記念館について紹介します。

過去の訪問記

 第1回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 202-11-17~11-19 その1 舞鶴市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

舞鶴引揚記念館の基本情報

住所:舞鶴市字平1584番地  TEL:0773-68-0836

開館時間:9:00~17:00 休館日:第3木曜日 年末年始(12/29~1/1)

入館料:大人400円(300円)、学生150円(100円)(  )内は団体(20名以上)料金

赤レンガ博物館との共通券:一般個人600円、学生200円

公式サイト:舞鶴引揚記念館 (m-hikiage-museum.jp)

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

展示内容の概要など(Youtube動画)

舞鶴引揚記念館~Maizuru Repatriation Memorial Museum~

京都府舞鶴市 引揚記念館 #京都 #KYOTO

【舞鶴市】舞鶴引揚記念館

舞鶴市、世界記憶遺産認定を目指す

 

建物外観と周辺のモニュメント

上の写真は舞鶴引揚記念館の建物外観

上の写真は舞鶴引揚記念館の周囲の引揚記念公園の案内板

上の写真は引揚記念公園内のカリヨンモニュメント

エントランスホールの展示

上の写真はエントランスホール 記念撮影の場所、時鐘、ビデオなどがあります

ユネスコ世界記憶遺産登録証明書などの展示

舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録

第2次世界大戦後旧ソ連に抑留された約60万人の人達の抑留生活と苦難に満ちた引き揚げ

の歴史を伝える資料です。

平成27年(2015)10月10日に舞鶴引揚記念館が所蔵する資料570点が人類が共有すべき

世界的に重要な世界の記憶と認められユネスコ世界記憶遺産に登録されました。

上の写真はユネスコ世界記憶遺産登録証明書 出典:舞鶴引揚記念館の展示

上の写真はユネスコ世界記憶遺産の内容の一部 出典:舞鶴引揚記念館の展示

上の写真は世界の主な記憶遺産と登録国の説明パネル

タイムトンネル

タイムトンネルの奥にメインの常設展示室があります

苦境の記憶世界恐慌からシベリア抑留まで

上の写真は出征兵士の展示

上の写真は赤紙の展示

赤紙の正式名称は「臨時招集命令書」といい、役場の兵事係の職員が届けることになっていた。

召集令状がくると3日~1週間以内に指定された部隊に入隊しなければならなかった。

上の写真は戦陣訓の展示

戦場に向かう兵士としての心得が書かれたもの。捕虜となることは恥であり、命の

尽きるまで戦い抜くことが美徳であるとの内容が書かれています。

満州の日本人と日本の敗戦と引き揚げの展示遠景(満州の日本人)

昭和7年(1932)の満州国建国以降、国策により155~200万人の日本人が満州へ渡った。

上の写真はソ連の侵攻に関する展示

ソ連は昭和20年(1945)8月8日に対日宣戦布告をした後、8月9日にはソ連軍が満州に

進攻してきた。8月16日以降は天皇陛下が大本営に即時停戦命令を下命されていたため

関東軍は静謐。8月18日 日本(関東軍司令官)・ソ連(極東軍司令官)停戦交渉開始

8月23日 ソ蓮の最高指導者スターリンは日本人のソ連移送・強制労働を決定

関東軍の将兵は57万5千人(70万人弱ともいわれる)がシベリアの他、ソ連領内に連行

され強制労働をさせられた。

上の写真はシベリア抑留(強制労働)に関する展示

強制労働の実態を描いたもので極寒の中、1日1食か2食で駅舎、飛行場

劇場、民間住宅などの建設工事などに従事した。背景としてソ連は第2次世界大戦で

軍人約1,450万人、民間人約700万人が亡くなっていたため、労働力不足の状態であった。

過酷な労働のため約6万人が死亡したと言われています。

上の写真はラーゲリ(収容所)内の様子 右端は見張りのソ連兵

上の2枚の写真はラーゲリ(収容施設)の模型と説明板

上の2枚の写真はラーゲリ(収容室)での抑留生活の体験室

上の写真は白樺日誌の展示

当初、日本政府はこの事実(抑留及び強制労働)を知らなかった。昭和20年(1945)11月に   

なってやっと政府が強制連行の情報を始めて得ることとなります。

政府がアメリカを通じソ連との交渉を開始したのは昭和21年(1946)5月   

昭和21年(1946)12月 「日本人抑留者の帰国に関する米ソ協定」が成立し

昭和21年(1946)12月8日 ソ連からの引揚第一船(大久丸、恵山丸)舞鶴に入港

引き揚げ船の第1船は昭和20年(1945)10月7日の雲仙丸

 

次からの記述と写真は10月2日に放送のBSTBS 関口宏のもう一度!近現代史よりの引用

(引用1と記述)

ソ連の日本領南樺太へ侵攻と千島列島への侵攻

昭和20年(1945)8月11日 ソ蓮、日本領の南樺太へ侵攻 出典:引用1

上の写真は南樺太を進軍するソ連軍 多くの民間日本人に悲劇が・・・・出典:引用1

上の2枚の写真は上述の番組で使用された説明パネル 出典:引用1

日本人の悲劇の例として8月20日、ソ連軍が西海岸の真岡に上陸を開始、混乱の中

業務のため疎開せずに残った真岡郵便局の電話交換手の女性9名が自決

8月22日、樺太から疎開・引揚船がソ連軍の潜水艦に攻撃され2隻が沈没、1隻が大破

1,708人以上が犠牲になったとされる

昭和20年(1945)8月18日 ソ蓮、日本領の千島列島へ侵攻、日本兵を武装解除

させながら南下 出典:引用1

昭和20年(1945)8月21日、日本軍は降伏し停戦が成立  出典:引用1

上の写真は上述の番組で使用された説明パネル 出典:引用1

8月28日以降、ソ連軍、さらに「北方領土」に侵攻

8月28日:択捉島に上陸、9月1日:国後島・色丹島に上陸 さらに降伏文書調印の

9月2日以降の9月3日:歯舞群島に上陸へと続いた

各島で日本兵の武装解除を行い9月5日までに無血占領

ソ連の共産党史には9月2日までに北方4島への侵攻は終了と記載されており、北方領土が

ロシアに帰属するとの主張の根拠としている。

現在も日本はロシアとの平和条約が締結されておらず、北方領土の線引きが終わっていない。

 

シベリア抑留関連年表

昭和20年(1945)4月5日 ソ蓮、日本に対し日ソ中立条約の廃棄を通告(通告から一年後に条約失効)

昭和20年(1945)8月8日 ソ蓮、対日宣戦布告(4月5日の通告から一年未満)

昭和20年(1945)8月11日 ソ蓮、日本領の南樺太へ侵攻

昭和20年(1945)8月16日 天皇陛下が大本営に即時停戦命令を下命

昭和20年(1945)8月18日 日本(関東軍司令官)・ソ連(極東軍司令官)停戦交渉開始

昭和20年(1945)8月18日 ソ蓮、日本領の千島列島へ侵攻

昭和20年(1945)8月23日 ソ蓮、日本人のソ連移送・強制労働を決定

昭和20年(1945)8月26日 日ソ間の戦闘がほぼ終結

昭和20年(1945)9月2日  ミズーリ号上で降伏文書の署名

昭和20年(1945)11月   政府が強制連行の情報を始めて得る

昭和21年(1946)5月   政府がアメリカを通じソ連との交渉を開始

昭和21年(1946)12月  「日本人抑留者の帰国に関する米ソ協定」が成立

昭和21年(1946)12月8日 ソ連からの引揚第一船(大久丸、恵山丸)舞鶴に入港

昭和23年(1948)12月5日  ソ連からの引揚が一時中断

昭和25年(1950)4月   国会で「在外抑留同胞引揚に関する決議」採択

昭和25(1950)4月    日本政府は国連へ提訴、国連は捕虜特別委員会を設置

昭和28(1953)11月19日 日ソ赤十字「日本人捕虜他、ソ連領土よりの送還関する共同コミュニケ」発表

昭和28(1953)11月30日 日、ソ連からの引揚再開、帰国第一船「興安丸」が舞鶴入港

昭和30(1955)6月1日  日ソ交渉開始、シベリア抑留者全員の即時帰国を要求

昭和31(1956)10月19日 日ソ共同宣言・通商議定書調印、抑留者全員の釈放決定

昭和31年(1956)12月26日 シベリア抑留者の最終梯団を乗せた「興安丸」が舞鶴入港

 

シベリア抑留の関連サイト 

戦没者慰霊事業:日本人死亡者慰霊碑(ロシア)|厚生労働省 (mhlw.go.jp)

シベリア抑留 平和学習|教育旅行のご提案 (m-hikiage-museum.jp)

98歳 シベリア抑留の体験を語り続ける|島根の戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK

 

戦後75年 いまなお続く「シベリア抑留」(2020年8月24日)テレビ東京

「忘れられた戦争~シベリア抑留の記憶」JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス

ドキュメント『行き先も、分からずに~20歳の初年兵、シベリア抑留の記憶~』〈福生市制作:記憶のアーカイブプロジェクトⅠ〉

 

帰還そして再会

上の写真は海外から日本への引揚者を整理したものである。

海外からの引き揚げ者は600万人以上とされています。

 中国:1,535414人 旧満州:1,271,473人 東南アジア:711,507人 ソ連:472,942人

 北朝鮮:322,585人 韓国:597,302人 台湾:479,544人 千島・樺太:293,491人

 ベトナム:32,303人 フイリピン:133,123人 太平洋諸島:130,968人 ハワイ:3,659人

 南東アジア:138,843人 インドネシア:15,593人 香港:19,347人 本土隣接諸島:62,389人

 ニュージーランド797人

読み難いので地域と人数を列記しておきます。

上の写真は帰還に使用された艦船の模型や舞鶴(地方)引揚援護局などの展示室遠景

上の写真は舞鶴(地方)引揚援護局、歓迎塔、DDTの説明パネル

上の写真は帰還を待つ人々の展示(岸壁の母)

上の写真は岸壁の母「端野いせ」さんの展示

上の写真は引揚の港舞鶴&舞鶴のおもてなしの展示

上の写真は引揚港舞鶴の関連施設の模型展示

上の写真は舞鶴の援護関係施設

 

平和への祈り

上の写真は舞鶴市と姉妹都市・友好都市であるナホトカ市(ロシア)、大連(中国)

などから贈呈された記念品などを展示

企画絵画展示室

上の写真は現在開催中の企画展の遠景

舞鶴引揚記念館『新収蔵品展~紡ぐ記憶~』≪令和2年度第4回企画展≫

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