もの足りないのです。
インパクトが無いのです。
地震、津波、原発がメルトダウン、放射能の拡散、植物を、動物を、田畑を、家畜を、人間を、汚染したのです。元には戻れない、戻らない、逃れられない・・・・・・のです。
それでも、希望ですか? タイトルの希望は、それでも希望なのか? それとも逆説なのか?良く判らないのです。
見終わって、何故か、とても、苛立つのです。
原発の爆発はそう云う事なのか? 放射能汚染はそういう事なのか?
そんな事で良いのか?
それで良いのか?
どんなに最悪な状況でも、希望を抱く事は可能です。いつでも、どんな時でも、希望を抱く事が出来るヒトがいます。
前回の戦争でも、開戦前も、戦時中も、敗戦直後も、希望を抱いたヒトは居ました。
原発が爆発しても、それも、二度も爆発しても、それでも、希望を抱くことが可能なヒトは居るの?
放射能で汚染されて、自然が破壊されても、家族を失っても、家族がバラバラになっても、それでも希望を抱く事が可能なヒトは居ますか?
そして、また、希望を失い、絶望し、自ら命を絶つヒトも居ます。
戦争、自然災害、事故、いろいろな脅威がくり返し、生存を否定されても、でも、でも、それでも、希望を抱くヒトは居ますか?
人類の歴史は、希望を失う事と、希望を抱く事の、繰り返しなのかも?
原発も宿命、戦争も宿命、希望と失望の繰り返し?が、人類の歴史?・・・・・・・・・・
それで、ここからが、今日です。
ですから、上記は映画を見終わって、家に帰り、焼酎で頭が少し痺れながら、昨晩、綴ったものです。何故か、とても、苛立っていたのです。
そして、一夜が明け、朝飯を食い、一時間ほど散歩して、コーヒーを飲んで、今、画面に向かって綴っています。
昨日、希望の国を観てきました。午後1時頃の上映、平日です、120余り客席には観客は9名、こんなモノなのです。
開演待ちの時、入り口のホールに腰掛け様子を見ていたのですが、入場券売り場は閑散、上映が終了して出て来る客もチラホラと片手で数えるほど、8スクリーンあるのですが、何処も、こんな感じのようでした。
それで、“希望の国”です。先ずは、やっぱり、“貧乏映画?”なので、予算が無いのです。
すべての“スケール”が大画面には物足りないのです。かなり映像が制約されているのです。きっと、きっと、脚本も、時間と予算に制約された気がします。
家の庭から先が避難区域に指定され、警察と自衛隊が登場し、鉄柵を設置するのですが、このシーンも大画面に対応し、緊迫感を演出するには、もっと、もっと、人と車両があったなら・・・・・・と思うのです。
それは、それで、しようがないのですが、でも、息子夫婦を避難をさせ、自分達は家に残ると云う父、この二人の会話が、とても、緊迫感が無いのです。
嘘っぽいのです。単なる台詞ぽっいのです。取って付けた芝居ぽっいのです。あまりにも、息子の口から出る言葉が頼り無く、幼く、薄っぺらに見えるのです。
園子温監督は制作にあたって、それなりに、いろいろな処で、いろいろな被災者に、いろいろと取材し、それを基に脚本を書かれたと思います。
何故、こんな描き方をしたのか、
30過ぎの男が、父親と抱き合って、フツウに泣くか?と思うのです。
自分は避難せず、息子夫婦にだけ避難を勧め、対立する父と息子。
もう少し、深刻で、緊迫感のある言葉のやり取りがあったならば?・・・・・・。
もう少し、映画として、完成度が高くなったような・・・・・・・。
タイトルの“希望の国”は、最後の画面に映し出されます。
老夫婦は悲惨な結末を向かえますが、若い息子と、身ごもった妻、この二人、いや、この三人のドラマは、ここから始まるのです。終わりではないとのメッセージなのでしょう。
希望である子供を、放射能で汚染された不安な環境で、これから育てていく二人、映画も、現実の放射能汚染も、これからなのです。
過去の出来事ではありません。
放射能汚染の被害が顕在化するのは、これからなのです。
それでも、希望を抱き、前に向かって、“一歩、一歩、一歩”と、ゆっくりと、すこしずつ、歩むしかないのです。
幻の少年と少女が登場し、“一歩、一歩、一歩”と呟きつつ歩むシーンは、とても、とても、感動的でした。ヨカッタです。
でも、怒り、悲しさ、虚しさ、儚さ、情けなさとか、何か、中途半端で、消化不良で、苛立つのです。
パンフレットを購入したのですが、まだ、読んでいません。
これから読んで、それなりに監督の意図を知ってから、老いた両親の結末と、二組の息子カップルの思いの変化を、それなりに考えたいと思います。
それにしても、もう少し時間を掛けたら・・・、との思いがあるのですが、でも、いま、この時にこそ、重要だったのでしよう。それは、理解できます。
それでは、また。
インパクトが無いのです。
地震、津波、原発がメルトダウン、放射能の拡散、植物を、動物を、田畑を、家畜を、人間を、汚染したのです。元には戻れない、戻らない、逃れられない・・・・・・のです。
それでも、希望ですか? タイトルの希望は、それでも希望なのか? それとも逆説なのか?良く判らないのです。
見終わって、何故か、とても、苛立つのです。
原発の爆発はそう云う事なのか? 放射能汚染はそういう事なのか?
そんな事で良いのか?
それで良いのか?
どんなに最悪な状況でも、希望を抱く事は可能です。いつでも、どんな時でも、希望を抱く事が出来るヒトがいます。
前回の戦争でも、開戦前も、戦時中も、敗戦直後も、希望を抱いたヒトは居ました。
原発が爆発しても、それも、二度も爆発しても、それでも、希望を抱くことが可能なヒトは居るの?
放射能で汚染されて、自然が破壊されても、家族を失っても、家族がバラバラになっても、それでも希望を抱く事が可能なヒトは居ますか?
そして、また、希望を失い、絶望し、自ら命を絶つヒトも居ます。
戦争、自然災害、事故、いろいろな脅威がくり返し、生存を否定されても、でも、でも、それでも、希望を抱くヒトは居ますか?
人類の歴史は、希望を失う事と、希望を抱く事の、繰り返しなのかも?
原発も宿命、戦争も宿命、希望と失望の繰り返し?が、人類の歴史?・・・・・・・・・・
それで、ここからが、今日です。
ですから、上記は映画を見終わって、家に帰り、焼酎で頭が少し痺れながら、昨晩、綴ったものです。何故か、とても、苛立っていたのです。
そして、一夜が明け、朝飯を食い、一時間ほど散歩して、コーヒーを飲んで、今、画面に向かって綴っています。
昨日、希望の国を観てきました。午後1時頃の上映、平日です、120余り客席には観客は9名、こんなモノなのです。
開演待ちの時、入り口のホールに腰掛け様子を見ていたのですが、入場券売り場は閑散、上映が終了して出て来る客もチラホラと片手で数えるほど、8スクリーンあるのですが、何処も、こんな感じのようでした。
それで、“希望の国”です。先ずは、やっぱり、“貧乏映画?”なので、予算が無いのです。
すべての“スケール”が大画面には物足りないのです。かなり映像が制約されているのです。きっと、きっと、脚本も、時間と予算に制約された気がします。
家の庭から先が避難区域に指定され、警察と自衛隊が登場し、鉄柵を設置するのですが、このシーンも大画面に対応し、緊迫感を演出するには、もっと、もっと、人と車両があったなら・・・・・・と思うのです。
それは、それで、しようがないのですが、でも、息子夫婦を避難をさせ、自分達は家に残ると云う父、この二人の会話が、とても、緊迫感が無いのです。
嘘っぽいのです。単なる台詞ぽっいのです。取って付けた芝居ぽっいのです。あまりにも、息子の口から出る言葉が頼り無く、幼く、薄っぺらに見えるのです。
園子温監督は制作にあたって、それなりに、いろいろな処で、いろいろな被災者に、いろいろと取材し、それを基に脚本を書かれたと思います。
何故、こんな描き方をしたのか、
30過ぎの男が、父親と抱き合って、フツウに泣くか?と思うのです。
自分は避難せず、息子夫婦にだけ避難を勧め、対立する父と息子。
もう少し、深刻で、緊迫感のある言葉のやり取りがあったならば?・・・・・・。
もう少し、映画として、完成度が高くなったような・・・・・・・。
タイトルの“希望の国”は、最後の画面に映し出されます。
老夫婦は悲惨な結末を向かえますが、若い息子と、身ごもった妻、この二人、いや、この三人のドラマは、ここから始まるのです。終わりではないとのメッセージなのでしょう。
希望である子供を、放射能で汚染された不安な環境で、これから育てていく二人、映画も、現実の放射能汚染も、これからなのです。
過去の出来事ではありません。
放射能汚染の被害が顕在化するのは、これからなのです。
それでも、希望を抱き、前に向かって、“一歩、一歩、一歩”と、ゆっくりと、すこしずつ、歩むしかないのです。
幻の少年と少女が登場し、“一歩、一歩、一歩”と呟きつつ歩むシーンは、とても、とても、感動的でした。ヨカッタです。
でも、怒り、悲しさ、虚しさ、儚さ、情けなさとか、何か、中途半端で、消化不良で、苛立つのです。
パンフレットを購入したのですが、まだ、読んでいません。
これから読んで、それなりに監督の意図を知ってから、老いた両親の結末と、二組の息子カップルの思いの変化を、それなりに考えたいと思います。
それにしても、もう少し時間を掛けたら・・・、との思いがあるのですが、でも、いま、この時にこそ、重要だったのでしよう。それは、理解できます。
それでは、また。