歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

映画『希望の国』 ③ 原発は背景?

2012年12月11日 | 映画の話し
昨日の続きです。

それで、『希望の国』の話しです。

園子温監督は、

『原発がいいか悪いかという映画を撮っても、それは映画としてあまり有効ではない・・・。映画は巨大な質問状を叩きつける装置・・・。そこで起きていることを認識して、ただ映画にするだけで充分・・・。取材した場所の中には、もちろん壮絶な被害を被ったところもありましたが、一方ででとても落ち着いた場所もある。だから、センセーショナルなものとして描きたくありませんでした』

と、パンフレットで語っています。

それで、前半の「映画はいいが悪いか・・・あまり有効・・・巨大な質問状・・起きていることを・・・映画にするだけで充分・・・」は、まあ、そうかも知れないと思います。

後半の「・・・壮絶な・・・、一方でとても落ち着いた・・・、だから、センセーショナルなものとして描きたくありません・・・」は、どうも、理解出来ないのです。

何で?“だから”、落ち着いた場所を選んで、センセーショナルな場所を切ったのか? “だから”の理由がイマイチ理解できません。答えは映画のなかにある?

質問者の「作品を観ると、原発の映画であると同時に、家族の映画であると実感します」何て、つまらない感想に対して、監督は、

『そこを立脚点にしないと、原発も放射能も見えてきません。人間関係が成立していなければ、3.11を経ても、悲しみや怒りを感じることなく振る舞えてしまうんです。結果的には、家族の映画であり、生まれた大地に住む人の話になりました』

でも、これって、こういう言い方は、かなり当たり前で、かなり一般論で、かなり抽象論です。人間関係抜きでは、当然、単なる、科学技術の記録映画になってしまいます。

映画でも、芝居でも、文学でも、その時代の大きな事故とか、戦争とか、革命とか、一人の意志では逃れられない状況の中で、生存を脅かされた時に、人間が、どうのように苦しみ、どのように生き、どのように闘い、どのように死んでいったのか、それらをテーマに採り上げ、物語を作るのはフツウで一般的な事です。

監督は『原発は誰にとっても重要な課題・・・誰もが知っている事柄を深く掘り下げたかったのです』と云っているのですが、何故?何処が?どうして?は、まったく描いていません。

『原発は重要な課題』 何処が? どのように?

『誰もが知っている?』とは? 放射能汚染名の実態? 放射能による健康被害の実態?避難区域に指定され今も悲惨な仮設住宅で暮らす人々の実態? 

『そこを立脚点にしないと、原発も放射能も見えてきません。人間関係が成立していなければ、3.11を経ても、悲しみや怒りを感じることなく振る舞えてしまうんです』との監督の言葉ですが、映画を観ると、う~ん?なのです。

映画は、とても、美しく、人間の愛を謳い上げていますが、原発も放射能も、それほど深く掘り下げたとは見えないのです。

やっぱり、人間はすばらしい、愛はうつくしい、と、そんな世界に向かってしまうのです。その為に、悲惨で、記憶に新しい、原発事故を背景にしているだけだ、と、感じてしまうのです。

園子温監督は、やはり、原発よりも人間に興味があるのでしょう。

まあ、ある意味で当然な事です。すべては人間の物語。人間の作り出した試練の中で、どのように愛して、どのように生きて、どのように死ぬのか、と、云う、ことですから・・・。

と、ここまで書いて来て、アレレ、何か、この映画に、もの凄いことを期待したみたい? 『希望の国』は原発関連の、最初の、1本の、単なる映画でした。

パンフレットの冒頭にあるように、原発事故によって踏みにじられ、破壊され、否定される?『ある家族の生き様と尊厳の物語』なのです。

文明史的にも大事件である原発事故を、小さな、片隅の、平凡な男女の、希望と絶望を描くことで、原発とは人間にとって何なのか?を問うている・・・と。

『希望の国』は映画館に行ってお金を払って観る価値はあります。

 
まだ、もうすこし、『希望の国』の話しは続きます。


それでは、また。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする