先週からの続きです。
山田監督は「東京家族」は、「東京物語」の“かたちをなぞって”3・11以降の家族の姿を描いたそうです。
「東京物語」の“かたちをなぞって”、ストーリーも、家族構成も、シーンも、セリフも、カメラアングルも、いろいろと、なぞった訳ですが、無理があったと思います。
やはり、「東京物語」の“かたち”は、1953年だったのです。
「東京家族」で、新幹線を品川で降りた両親、ここは2012年の東京でしたが、長男の診療所にシーンが移ると、そこは「1953年」の匂いが漂う世界でした。
両親と長男夫婦との会話、嫁と子供達の会話、両親と孫との会話、孫の兄の方が帰宅するシーンのカメラ位置、それぞれが「東京物語」でした。
長男の医師が両親を連れて、東京見物に出掛けようとしたとき、患者からの電話で急遽往診に行くことになり、東京見物は中止となります。
このシーンも「東京物語」なのです。1953年の東京なのです。2012年の東京は、休日診療は当番制ですし、自宅と診療所は分離しているのがフツウです。よほど、重篤な急患ならば救急医療センターです。
これは、やはり、「東京物語」ありきの無理な展開です。「東京物語」のかたちに拘束され過ぎたと云うか、拘りすぎたと云うか・・・、そうなのです。
ここのシーンが、両親の思いと、子供達の現実との、行き違い、思い違いがい、すれ違いの起点ですから、どうしても、無理でも、無理してでも、ここは外せなかったのでしょう。
それで、長男の医師は母親が68歳ですから、20と、2、3歳の時に生んだとして、45歳か6歳ぐらいです。医師になり、それなりの経験を積んで独立開業は、37、8歳でしょう。
38歳とすると、開業後してから未だ7~8年と云ったところです。自宅と診療所を兼ねているので、それなりの設計となり、中古物件では無理だと思います。
そうすると、築7~8年の自宅兼診療所となります。でも、描かれている室内の間取り、デザイン、そして、部屋の襖の“引き手”周りの汚れ具合、擦れ具合、襖紙全体の色褪せ具合、どう見ても、築後20~30年の匂いが漂っているのです
セットとしては実に良く造られているのですが、でも、しかし、残念ながら、それが因り、スクリーン全体を1953年の匂いに染めていました。
そうなのです。作品全体が懐かしいのです。懐かしくて、落ち着いていて、温かくて、穏やかで、とても気持ちの良い映像で、観ていて安心なのです。
どうしてもと云うか、当然と云うか、「東京物語」が見えてくるのです。これって、監督の意図であって、そういうことは、狙いどうり?
2012年が見えるのは、妻夫木聡と蒼井優が出て来るシーンだけでした。どうしても、2012年と1953年が行ったり来たりするのです。
兎に角、確かに、涙あり、笑いあり、希望ありで、こころ温まる良い映画でした。
でも、2012年の、大震災を、大津波を、原発を、無理やり、ストーリーに入れ込まなくても、もっと、さり気なく、チラットと映し出すだけで、良かったような気がしました。
それで、ですから、母親が担ぎ込まれた病院の廊下に貼られた、小さな“反原発のポスター”が、移動するカメラの片隅に、ピントを外して、さり気なく映し出されるシーンだけで、良かったと思います。
あのポスターのデザインで、判るヒトは判り、判らないヒトは判らなくとも、それは、それで、イイと思います。
現実の、今は、大震災が起き、大津波が起き、原発が今も放射能を撒き散らしても、それ以前と、それ以降と、世の中も、フツウのヒトの思いと暮らしも、残念ながら、それほど変わってはいない、と、思うのです。
世の中も、家族も、絶望と、

希望をくり返し、

家族は変遷するのでしょう。

※配役なんですが、監督の構想では、母親は市原悦子で、父親が菅原文太で、長女は室井滋だったそうです。でも、吉行和子と橋爪で観た後では、市原悦子と文太では、まったく異なる作品になってしまった、との思いがします。悦子と文太では、あまりにも灰汁が強すぎます。長女は室井滋でも、ヨカッタかな?と、云う気はしないでも無し。スケジュールの都合とか、体調不良とか、いゃ、もっと根深く、云うに、云えない事情があった、とか、巷では囁かれているそうです。
で、『東京家族』でした。
兎に角、観ていない方は、直ぐに、映画館に、ゆっくり、駆けつけましょう。
泣いて、笑って、感動します。間違いありません。
それでは、また。
山田監督は「東京家族」は、「東京物語」の“かたちをなぞって”3・11以降の家族の姿を描いたそうです。
「東京物語」の“かたちをなぞって”、ストーリーも、家族構成も、シーンも、セリフも、カメラアングルも、いろいろと、なぞった訳ですが、無理があったと思います。
やはり、「東京物語」の“かたち”は、1953年だったのです。
「東京家族」で、新幹線を品川で降りた両親、ここは2012年の東京でしたが、長男の診療所にシーンが移ると、そこは「1953年」の匂いが漂う世界でした。
両親と長男夫婦との会話、嫁と子供達の会話、両親と孫との会話、孫の兄の方が帰宅するシーンのカメラ位置、それぞれが「東京物語」でした。
長男の医師が両親を連れて、東京見物に出掛けようとしたとき、患者からの電話で急遽往診に行くことになり、東京見物は中止となります。
このシーンも「東京物語」なのです。1953年の東京なのです。2012年の東京は、休日診療は当番制ですし、自宅と診療所は分離しているのがフツウです。よほど、重篤な急患ならば救急医療センターです。
これは、やはり、「東京物語」ありきの無理な展開です。「東京物語」のかたちに拘束され過ぎたと云うか、拘りすぎたと云うか・・・、そうなのです。
ここのシーンが、両親の思いと、子供達の現実との、行き違い、思い違いがい、すれ違いの起点ですから、どうしても、無理でも、無理してでも、ここは外せなかったのでしょう。
それで、長男の医師は母親が68歳ですから、20と、2、3歳の時に生んだとして、45歳か6歳ぐらいです。医師になり、それなりの経験を積んで独立開業は、37、8歳でしょう。
38歳とすると、開業後してから未だ7~8年と云ったところです。自宅と診療所を兼ねているので、それなりの設計となり、中古物件では無理だと思います。
そうすると、築7~8年の自宅兼診療所となります。でも、描かれている室内の間取り、デザイン、そして、部屋の襖の“引き手”周りの汚れ具合、擦れ具合、襖紙全体の色褪せ具合、どう見ても、築後20~30年の匂いが漂っているのです
セットとしては実に良く造られているのですが、でも、しかし、残念ながら、それが因り、スクリーン全体を1953年の匂いに染めていました。
そうなのです。作品全体が懐かしいのです。懐かしくて、落ち着いていて、温かくて、穏やかで、とても気持ちの良い映像で、観ていて安心なのです。
どうしてもと云うか、当然と云うか、「東京物語」が見えてくるのです。これって、監督の意図であって、そういうことは、狙いどうり?
2012年が見えるのは、妻夫木聡と蒼井優が出て来るシーンだけでした。どうしても、2012年と1953年が行ったり来たりするのです。
兎に角、確かに、涙あり、笑いあり、希望ありで、こころ温まる良い映画でした。
でも、2012年の、大震災を、大津波を、原発を、無理やり、ストーリーに入れ込まなくても、もっと、さり気なく、チラットと映し出すだけで、良かったような気がしました。
それで、ですから、母親が担ぎ込まれた病院の廊下に貼られた、小さな“反原発のポスター”が、移動するカメラの片隅に、ピントを外して、さり気なく映し出されるシーンだけで、良かったと思います。
あのポスターのデザインで、判るヒトは判り、判らないヒトは判らなくとも、それは、それで、イイと思います。
現実の、今は、大震災が起き、大津波が起き、原発が今も放射能を撒き散らしても、それ以前と、それ以降と、世の中も、フツウのヒトの思いと暮らしも、残念ながら、それほど変わってはいない、と、思うのです。
世の中も、家族も、絶望と、

希望をくり返し、

家族は変遷するのでしょう。

※配役なんですが、監督の構想では、母親は市原悦子で、父親が菅原文太で、長女は室井滋だったそうです。でも、吉行和子と橋爪で観た後では、市原悦子と文太では、まったく異なる作品になってしまった、との思いがします。悦子と文太では、あまりにも灰汁が強すぎます。長女は室井滋でも、ヨカッタかな?と、云う気はしないでも無し。スケジュールの都合とか、体調不良とか、いゃ、もっと根深く、云うに、云えない事情があった、とか、巷では囁かれているそうです。
で、『東京家族』でした。
兎に角、観ていない方は、直ぐに、映画館に、ゆっくり、駆けつけましょう。
泣いて、笑って、感動します。間違いありません。
それでは、また。