歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

東京物語 ② 堀切駅は荒川駅でした

2013年02月07日 | 映画の話し
昨日の続きです。

今日も飽きずに『東京物語』です。天気が良くて、暖かでも、映画の話しです。

それで、尾道から東京に場面が転換して、モクモクと煙突から煙が立ち上るシーンが映し出されます。東京を、それも端っこの東京を表現しているのです。

※奥の4本と云うか、左から4本までが、“お化け煙突”です。菱形に配置されているのです。

『東京物語』と云うタイトルから、イメージしていた東京に、突然煙突が現れ、次は、もんぺと絣の着物の一見農婦風の“担ぎ屋さん”の姿が映し出されるのです。


1953年の東京、それでも、東京と云えば、ヒトは着飾り、賑やかで、華やかで、ビルが建ち並び、ネオン輝く大都会・・・と、地方の方達は思い描く筈です。

東京人以外の観客も、東京人の観客も、先ずは冒頭でイメージを打ち砕かれるのです。

煌びやかな東京の表舞台を支える、裏方的、端っこ的、そんな東京の象徴が“火力発電所”の煙突だと思います。

地味で、慎ましく、平凡に暮らす、地方の町と、変わらない人達が、変わらない暮らしをしている、そんな東京の物語なのです。

でも、この町は何処なのか、“ハッキリ”とは判らないように描いています。でも、しかし、少しだけ判るようになっています。

煙突は、東京電力の千住火力発電所で、隅田川沿いの南千住にありました。1953年当時は石炭を燃料にしていたそうです。1963年(昭和38年)に稼働を停止し、翌年に取り壊されました。

この煙突は見る方角により、1本から4本に変化して見えたので“お化け煙突”と呼ばれていました。常磐線の窓から眺めると、確かに本数が変化していくのです。わたしは、何と、リアルタイムで、この眼で、見て知っているのです。

ですから、映し出された瞬間、すぐに、お化け煙突と判りました。

それと、ホームのこの案内板、文字の上がきれていますが、“鐘ヶ淵と牛田”とあり、その間ですから、東武伊勢崎線の堀切駅となります。現在は愛称を“東京スカイツリー線”と云うそうです。


当時も、現在も、この辺りの、鐘ヶ淵とか、堀切とか、牛田は、東京人でも、あまり知らない、話題に出てこない、駅名、地名なのです。

堀切駅は、現在でも、たぶん、東京で一番寂しい駅だと思います。駅前には広場もなく、商店もなく、バス停もなく、交番もなく、何も有りません。“土手の下”でひっそりと佇んで、今でも、周囲は、そのまま『東京物語』の世界です。

作品では、駅は“土手上”にあり、土手の道路を車が走り、駅の先には“踏切”があります。

そうなのです!本当の堀切駅は“土手下の駅”で、土手と“平行”に線路が走っていて、ホームの先には踏切はありません。と、云うことで、ここに出て来る駅は、堀切駅ではありません。

この駅は、土手上にあり、土手と直角に線路が走り、ホームの先に踏み切りがある、そんな条件を満たす駅は、堀切駅から荒川土手に沿って2㎞ほど下った先にある、京成押上線の八広駅なのです。

1953年当時の駅名は“荒川駅”でした。現在は高架になり踏切はありません。でも、しかし、わたくし、『東京物語』の景色のままの“旧荒川駅”をこの眼で、しっかり見て、記憶にしっかりと刻まれているのです。

『東京物語』の関係者が綴った、ロケの記録にも、京成押上線の荒川駅で撮影をしたことが書かれています。

それで、ですから、この看板の“すぐこの土手の下”の表示も変なのです。すぐこの下と云う事は、この看板は土手の上に立てられている訳です。でも、堀切駅は土手の下ですし、道路も、電柱も、“土手の下”にあります。


何か、重箱の隅的なことを、ダラダラと綴ってしまいました。こういう作為は映画の演出としては、当然にありなのです。

でも、何故に? こんな事を、小津監督は?と云う疑問が生じて来るのです。

ハイ!その疑問につきましては、以前、私が、勝手な推測をしています。それについては、

『2006年の11月15日に、“小津の「東京物語」と堀切駅の真実”』
    http://blog.goo.ne.jp/cocoro110/d/20061115

として、しつこく、だらだらと、そして、面白おかしく綴っておりますので、そちらをお読み下さい。

今日は、この辺で。


それでは、また。


コメント (4)
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