一応、まだ、夏休みを、しています。
それにしても、リオのオリンピックはこれから終盤戦で、“終戦記念日”は無事?に過ぎ去り、プロ野球も終盤戦で、広島は何とか持ち直して、ほぼ優勝は決まり?
それにしても、いつも、いつも、何で?、どうして?、と思うのです。
戦争は、勝つか、負けるか、どちらか一つなのです。
負けたのに、“終わった”は、いくら何でも、いじましいと云うか、姑息と云うか、男?らしくないと云うか、女々しい?と云うか・・・・・・、ホントに困ったものです。
誰がどう考えても、どう見ても、勝利はしていないのです、がァ、でも、しかし、こころの片隅か?奥底?には、負けてはいなかった!まだまだ戦えた!と、当時も、今も、そう考える、“ある方々”の思いが、終戦の表現となっているのでしょう。
ポツダム宣言の受諾を決定させたは、広島、長崎への原爆投下か?、それとも、ソビエトの参戦か?の論争があります。
私としては、どちらかではなく、原爆も、ソビエト参戦も、そして、首都東京への、各地方都市への、非戦闘員に対する、無差別絨毯爆撃も、みんなひっくるめての受諾だと思います。
閣議では結論が出ず、御前会議での天皇の“聖断”で受諾が決定されました。
閣議では決められないのです。絶対に負ける筈がない神国日本ですから、天皇にしか戦争は終わらせる事は出来ないのです。
国民は納得しないのです、治まらないのです。
天皇陛下が終わりと云えば、混乱を招く事もなく終わらせる事ができるのです。国民は本音は終結を望んでいても、口には出せません。天皇の撃ち方止め!で、すべては治まるのです。
軍部は300万の精鋭部隊を本土決戦のために残していたと云われます。一般に守備側よりも、攻撃側は3倍の兵力を必要とするそうです。
そして、地上戦は空爆よりも、かなり、かなり、かなりの惨状が目の前に展開し、非戦闘員も多数巻き込まれるのです。
いろいろな数字がありますが、もし、本土決戦で地上戦が行われたら、非戦闘員を含めて少なく見ても数百万人の犠牲者が出たと思われます。
当時、軍部は本土決戦、一億玉砕、一億特攻、神州不滅などを叫んでいました。そんななかでの、天皇の聖断。
考えて見れば、そも、そも、何を目的として始めたのか?一億玉砕、一億特攻では、何が何だか判らなくなるのです。
もう、すべては終わった、負けるよりも、潔く、国民全員で、この世からおさらば!それでは、神州は滅亡してしまいます。
戦争は政治です。冷静な計算です、駆け引きです、精神論で戦いには勝てません。
勝てないと判ったら、休戦です、停戦です、降伏です。
誰が、どう考えて、どう見ても、戦える状態では無かったのです。軍部からは口が裂けても敗戦は言い出せません。
300万の精鋭部隊で連合軍を迎え撃ち、地上戦を展開すれば、かなりの長期戦となり、米軍だけでは戦えず、ソビエト軍も本土の地上戦に参戦したと思います。
御前会議では、陸軍の徹底抗戦の主張に、口に出せない本音の思いを、感じ取っての、そして、原爆投下を、本土空襲を、ソ連参戦を、本土決戦の惨たらしさを、すべてを考えての聖断だったと考えます。
それにしても、一億玉砕と、一億総活躍は、とても、とても、語呂が、似ているのです。
たぶん、安倍さんの頭なかでは、二つは繋がっている筈です。繋がっているところが、彼としては気に入っているのです。
支配したがる人々は、上からの“かけ声”が、“スローガン”が、とても、とても、大好きなのです。ここち良いのです。
と、まあ、夏休みですが、終戦記念に思いを馳せて、いろいろと考え、いろいろと思いを巡らしてみたりしました。
それでは、まだ、夏休みです。
そうだ! 天皇陛下の生前譲位?、生前退位?の件、一言あったのを思い出した。でも、夏休みですから、また、そのうち。
それでは、また。