前回の続きです。
それで、城北公園の隣にある「志村第6小学校」なのです。
校門の表札?の「板橋区立」の文字はほぼ消えていますが、まだまだしっかり現役なのでした。この小学校には3年生?~4年生?頃まで在籍し、引っ越しのため転校。
ところで、引っ越し、転校した先の、北区の「北園小学校」も、「北中」も、いまでは廃校となっています。どちらも団地の中の学校で、あのころは1クラスに生徒が50数人も居たのに、ホントに少子化です。
でも、しかし、ここ志村第六小学校は少子化のなか現役で頑張っているのです。
ちょっと調べて見たところ、現在の生徒数は715人で、1年~5年までは3組み、6年生だけが4組まであり、1クラスは30数名なのでした。ホント!少子化なのです。
それと、創立は昭和23年でした。私は25年生まれですから、ほぼ同じような歳月を辿っているのです。ちらっと校歌をみたのですが、まったく記憶にありません。
沿革をみたら、校歌の制定は昭和34年となっていました。これって私の在籍中には、ギリギリで校歌は無かったと云うこと? 入学式でも、卒業式でも、運動会でも、校歌斉唱は無かった? 私に記憶が無いと云うことは、これが原因だった?
でも、まあ、中学の校歌も、高校の校歌も、まったく記憶には残っていません。たぶん、斉唱のときは、他のことを考え「口パク」だった、と、思うのです。わたくし、何を隠そう、ハッキリ云って、歌はへたっぴで、音楽は大嫌いで、通信簿は、ずっと、ずっと「2」でした。
そう云えば、中学3年のとき一度だけ「3」になったことがあるのです。高校受験で内申書に「2」があっては拙いと、お情けで「3」を頂いたのでした。
それで、志村第6小学校ですが、私が居た頃は公園側が正門でしたが、いまは、どう見ても裏門のようです。公園側から広い校庭が見渡せたのですが、いまでは校舎が視界を遮っています。
学校の東側約100メートル先には都営三田線の蓮根町駅があるのです。ホント!信じられないのです。昔は原っぱだった!あんな処にです!電車の駅ができてしまったのですよ!まさに!まさに!これぞ正しく隔世の感!なのです。
ホント!城北公園も、人工芝に夜間照明灯ですよ。この日は、何かのイベントとで子供達にお餅が配られていました。
照明灯の下、白い建物が志村3中の校舎だと思います。
こちらの場所には昔、テニスコートがありました。たぶん3中のだったと思います。
今考えると、テニス等と云うスポーツ、私の生活実態とは、遠く、遠く、かけ離れていたスポーツでした。
あの頃は、みんな、みんな、貧乏でした。まわりが全部貧乏だと云う事は、とても、とても、有り難いことです。そもそも豊かな生活など、見たことも、聞いたことも、無かったのです。
ですから、今思うと貧乏だったと云えるのであって、あの頃は、家が貧しい等と、まったくもって、考えてもいなかったのです。
あの頃、母に頼まれて夕食に使う油を、お豆腐屋さんに買いに行ったことを思い出します。10円玉を握りしめ走ってお豆腐屋さんに行き、明るく元気に「油10円分下さい!と叫んだ記憶が残っています。
お豆腐屋のお兄さんも考え込みながら、油を量っていたことを何故か鮮明に覚えているのです。油を10円分だけなんて買う人はいません。
お兄さんとは時々消防署の前で、キャッチボールをする仲でした。今思い出すと何故か「森進一」のような雰囲気の人だった?そんな気がしてきました。
本日の想い出探しは、第6小学校とお豆腐屋さんでお終い。
次回は渡辺製菓裏の“どぶ川”と、神社の脇の“どぶ川”を探します。
それでは、また。