最近、ボンヤリと“あること”を考えていたら、こんな言葉が頭の中に浮かんできました。
“折り合いを付ける”・・・・・・です。
これまで、この言葉とはまったく無縁であり、今頃、今更、何故? どうして? そんな不思議な思いがするのです。
折り合うことは“妥協”であり、何となく、これまで「マイナスイメージ」を抱いていました。
それと、これまでの人生で、折り合うことを必要とした場面は、これまでにあったのか? なかったのか? 無意識に折り合っていたのか? それとも避けていたのか?
折り合うことは、それなりに、気を使い、頭を使い、時間を使い、面倒で、かなり疲れる事だと思います。
面倒でも、疲れても、それなりに、悩んだり、考えたり、怒ったり、笑ったり、泣いたり・・・・・・、そんなことを繰り返して、それなりに、折り合いを付け、そして、何かが変わる・・・・・・、そんなことなのでしょう。
兎に角、みんな、折り合いを付けて、「オーキク」なるのでしょう。
“み~んなぁ悩んでぇ! オ~キクなったぁ!”
と、昔、テレビCMで“野坂昭如?”がそう叫んでいました。
話は、折り合いについて進めます。
先ずは、そもそも、相手は折り合うに「あたいする」対象かを考えなければいけません。
相手が自分と同じ思い、同じ方向に向いているのか、判断する必要があります。
例えば、“イスラム教原理主義”と“キリスト教原理主義”では、互いに一つの神しか認めないのですから、折り合いは付きません。
でも、まぁ。これも、付かない分けでは無い・・・・・と、思うのですが、いつの日かは、きっと、そんな日も来ることでしょう
例えが、かなり、遠くへ飛んでしまいましたが、遠くではなく、普通の人の、普通の身辺的な「もめ事」での折り合いは、それなりに付く気がします。
お互いに折り合いを付けようとする、意志と気持があれば、それなりに折り合いは付きそうです。
一時の“感情のぶつけ合い”では、折り合いは付かないでしょう。
その為には、
自分の考え思いに、何処か辻褄の合わない所はないか? 単なるその場の一時の感情か?それなりに分析し、
それなりに、辻褄が合い、これまで持ち続けてきた思いであったなら、次に、落ち着いて、冷静に、相手の立場に立って、判り易い伝え方を考え、
また、折り合いですから、相手の考え、思いを、落ち着いて、冷静に聞き、それなりに、分析し、自分の考え思いと、摺り合わせ、
それなりに、一致点、相違点を整理し、冷静に、話し合い、聞き合い、そんなこんなを繰り返す、
大変に疲れる事が“折り合いを付ける”ってこと、かも知れません。
広辞苑を引くと、
【折り合う】 対立した同士が譲り合って解決をつける。おれあう。
“折り合う”は、折れ合うこと、互いに「折れる」ことのようです。
折れることは、部分的敗北ではなく、互いに、自分を思い、相手を思いやること、そんな積極的、前向きの意味がある・・・・・・、そんな気がしてきました。
互いに折れる合うことにより、お互いに思う方向に、一歩でも、1㎜でも、近づく事のようです。
生きていると、いろいろな場面で、それなりに「折り合い」を付けなければ、いけないのかも知れません。
折り合いを付けてきた人、付けなかった人、それなりに何らかの違いがでてきそうです。
折り合った人は、面倒で疲れる事をくり返して来たので、それなりに、複雑で、味があり、面白い人になっている可能性が高くなりそうです。
私も、若い頃に「折り合う事」に気付いていれば、もっと違った人生だったかも?知れません。
いい歳して、今更ですが、誰かと、何かに、折り合って見たくなりました。
人生は、折り合いの“繰り返し?” 折り合いの“積み重ね?”
意識的に折り合って“きた人”
無意識のうちに折り合って“いた人”
まったく折り合わなかった人、
それなりの違いが現れてきそうな気がします。
折り合いを付けることは、面倒でも、前向きで、それなりに楽しい事のような、そんな思いがしてきました。
どうですか?
誰かと、何かで“いろいろ折り合って”
“いろいろな折り合いを付けて”みませんか?
“折り合いを付ける” 何か、とても良い響きの言葉に聞こえてきました。
それでは、また明日。
“折り合いを付ける”・・・・・・です。
これまで、この言葉とはまったく無縁であり、今頃、今更、何故? どうして? そんな不思議な思いがするのです。
折り合うことは“妥協”であり、何となく、これまで「マイナスイメージ」を抱いていました。
それと、これまでの人生で、折り合うことを必要とした場面は、これまでにあったのか? なかったのか? 無意識に折り合っていたのか? それとも避けていたのか?
折り合うことは、それなりに、気を使い、頭を使い、時間を使い、面倒で、かなり疲れる事だと思います。
面倒でも、疲れても、それなりに、悩んだり、考えたり、怒ったり、笑ったり、泣いたり・・・・・・、そんなことを繰り返して、それなりに、折り合いを付け、そして、何かが変わる・・・・・・、そんなことなのでしょう。
兎に角、みんな、折り合いを付けて、「オーキク」なるのでしょう。
“み~んなぁ悩んでぇ! オ~キクなったぁ!”
と、昔、テレビCMで“野坂昭如?”がそう叫んでいました。
話は、折り合いについて進めます。
先ずは、そもそも、相手は折り合うに「あたいする」対象かを考えなければいけません。
相手が自分と同じ思い、同じ方向に向いているのか、判断する必要があります。
例えば、“イスラム教原理主義”と“キリスト教原理主義”では、互いに一つの神しか認めないのですから、折り合いは付きません。
でも、まぁ。これも、付かない分けでは無い・・・・・と、思うのですが、いつの日かは、きっと、そんな日も来ることでしょう
例えが、かなり、遠くへ飛んでしまいましたが、遠くではなく、普通の人の、普通の身辺的な「もめ事」での折り合いは、それなりに付く気がします。
お互いに折り合いを付けようとする、意志と気持があれば、それなりに折り合いは付きそうです。
一時の“感情のぶつけ合い”では、折り合いは付かないでしょう。
その為には、
自分の考え思いに、何処か辻褄の合わない所はないか? 単なるその場の一時の感情か?それなりに分析し、
それなりに、辻褄が合い、これまで持ち続けてきた思いであったなら、次に、落ち着いて、冷静に、相手の立場に立って、判り易い伝え方を考え、
また、折り合いですから、相手の考え、思いを、落ち着いて、冷静に聞き、それなりに、分析し、自分の考え思いと、摺り合わせ、
それなりに、一致点、相違点を整理し、冷静に、話し合い、聞き合い、そんなこんなを繰り返す、
大変に疲れる事が“折り合いを付ける”ってこと、かも知れません。
広辞苑を引くと、
【折り合う】 対立した同士が譲り合って解決をつける。おれあう。
“折り合う”は、折れ合うこと、互いに「折れる」ことのようです。
折れることは、部分的敗北ではなく、互いに、自分を思い、相手を思いやること、そんな積極的、前向きの意味がある・・・・・・、そんな気がしてきました。
互いに折れる合うことにより、お互いに思う方向に、一歩でも、1㎜でも、近づく事のようです。
生きていると、いろいろな場面で、それなりに「折り合い」を付けなければ、いけないのかも知れません。
折り合いを付けてきた人、付けなかった人、それなりに何らかの違いがでてきそうです。
折り合った人は、面倒で疲れる事をくり返して来たので、それなりに、複雑で、味があり、面白い人になっている可能性が高くなりそうです。
私も、若い頃に「折り合う事」に気付いていれば、もっと違った人生だったかも?知れません。
いい歳して、今更ですが、誰かと、何かに、折り合って見たくなりました。
人生は、折り合いの“繰り返し?” 折り合いの“積み重ね?”
意識的に折り合って“きた人”
無意識のうちに折り合って“いた人”
まったく折り合わなかった人、
それなりの違いが現れてきそうな気がします。
折り合いを付けることは、面倒でも、前向きで、それなりに楽しい事のような、そんな思いがしてきました。
どうですか?
誰かと、何かで“いろいろ折り合って”
“いろいろな折り合いを付けて”みませんか?
“折り合いを付ける” 何か、とても良い響きの言葉に聞こえてきました。
それでは、また明日。