昨日の続きです。
何となく、他人の庭先を黙ってこっそり通り抜けるような、後ろめたい心境を抱きつつ、駐車場の片隅にある石碑に到着。
脱線転覆事故の犠牲者なのです。一列24名が4段ですから合計で96名。大惨事だったのです。
氏名の後に、
【ここに刻まれているものは事故裁判記録に掲載されている96名の方々の氏名であるが、この他にも事故がもととなって亡くなられた方も数多く居られるものと想像される。ここに併せてその冥福を哀心よりお祈りするものである】と刻まれています。
こちらは裏側なのでしょうか? 事故の内容は反対側に?
こちらが正面のようです。“慰霊碑”と刻まれています。すこし枯れ始めて居ますが、菊の花が手向けられています。遺族なのか、鉄道関係者なのか、いまでも訪れる方がいるのです。
手前に写っている“木の杭”が、事故から22年後の昭和40年に建てられた慰霊碑で、この御影石の慰霊碑は昭和61年に建立されたそうです。
こちら側に、事故の内容が刻まれていました。光線の関係で文面を鮮明に撮すことができませんでした。
それで事故なのですが、昭和18年の10月26日の午後6時40分頃に発生したようです。昭和18年と云う事は、敗戦の2年前になります。
石碑に刻まれている内容を要約すると、
【事故は、午後6時40分に貨物“294列車”が土浦駅に到着。構内で入れ換え作業中に誤って上り本線に進入して立ち往生、そこへ上り“254貨物列車”が進入し両車両は脱線暴走し、254貨物列車は桜川沿いの下り本線上に転覆。
この時、多数の乗客をのせた下り“241旅客列車”が接近しつつあり、急停車するが間に合わず、254貨物列車に激突。
旅客列車は脱線転覆。1、2両目は大破、3両目は鉄橋から斜めに傾き、4両目は桜川に方完全に水没した】
今から66年前、列車の“二重衝突事故”が発生し、この鉄橋から列車が転落したのです。死傷者100余名、死者96名の大惨事だったのです。
“この鉄橋”から転落と書きましたが、現在の鉄橋は事故から16年後に架け替えられていました。
それで、この脱線転覆事故が、あの“下山事件”とどう繋がるのか?です。
それが、この事件をネットで調べていたら、下山総裁を轢いた機関車が、この時に事故を起こした機関車“D51-651”だったとの記述を見つけたのです。
でも、しかし、複数の関連サイトを見ても、「貨物列車294」の機関車なのか、「貨物列車254」の機関車なのか、「旅客列車241」の機関車なのか、その記述はないのです。
「D51」は、主に貨物用に開発されたようなので、294列車か254列車のどちらかなのでしょう。
そうすると、「294列車」が本線上に立ち往生し、そこに254列車が激突したのですから、可能性としては「254列車」の先頭機関車は大破したもの思われます。
そうすると、事故後に修理され、その後に下山総裁を轢いた機関車は、事故の発端となった、「294列車」を引いていた機関車ではないかと、そう、思うのです。
この機関車「D51-651」は、2度も悲惨な事故に関係していたのです。ある人は、生産番号が「651」なので「ムゴイ」なんて、こじつける方も・・・・・・。
兎に角、これまでも、何度も脇を通りかかり、まったく気付かなかった石碑、その事故から“下山事件”に繋がるなんて、何かの縁かも?
そして、また、いつも覗くあるブログで最近“下山事件”の本が紹介されていたりして・・・・・・・、そろそろ、中断していた“下山事件”の話しを再開したくなったりして・・・・・・。
秋の夜長には“持ってこい”の推理ドラマなのです。さぁ、これから、本を注文します。再開は本を読んだその後です。
それでは、また明日。
何となく、他人の庭先を黙ってこっそり通り抜けるような、後ろめたい心境を抱きつつ、駐車場の片隅にある石碑に到着。
脱線転覆事故の犠牲者なのです。一列24名が4段ですから合計で96名。大惨事だったのです。
氏名の後に、
【ここに刻まれているものは事故裁判記録に掲載されている96名の方々の氏名であるが、この他にも事故がもととなって亡くなられた方も数多く居られるものと想像される。ここに併せてその冥福を哀心よりお祈りするものである】と刻まれています。
こちらは裏側なのでしょうか? 事故の内容は反対側に?
こちらが正面のようです。“慰霊碑”と刻まれています。すこし枯れ始めて居ますが、菊の花が手向けられています。遺族なのか、鉄道関係者なのか、いまでも訪れる方がいるのです。
手前に写っている“木の杭”が、事故から22年後の昭和40年に建てられた慰霊碑で、この御影石の慰霊碑は昭和61年に建立されたそうです。
こちら側に、事故の内容が刻まれていました。光線の関係で文面を鮮明に撮すことができませんでした。
それで事故なのですが、昭和18年の10月26日の午後6時40分頃に発生したようです。昭和18年と云う事は、敗戦の2年前になります。
石碑に刻まれている内容を要約すると、
【事故は、午後6時40分に貨物“294列車”が土浦駅に到着。構内で入れ換え作業中に誤って上り本線に進入して立ち往生、そこへ上り“254貨物列車”が進入し両車両は脱線暴走し、254貨物列車は桜川沿いの下り本線上に転覆。
この時、多数の乗客をのせた下り“241旅客列車”が接近しつつあり、急停車するが間に合わず、254貨物列車に激突。
旅客列車は脱線転覆。1、2両目は大破、3両目は鉄橋から斜めに傾き、4両目は桜川に方完全に水没した】
今から66年前、列車の“二重衝突事故”が発生し、この鉄橋から列車が転落したのです。死傷者100余名、死者96名の大惨事だったのです。
“この鉄橋”から転落と書きましたが、現在の鉄橋は事故から16年後に架け替えられていました。
それで、この脱線転覆事故が、あの“下山事件”とどう繋がるのか?です。
それが、この事件をネットで調べていたら、下山総裁を轢いた機関車が、この時に事故を起こした機関車“D51-651”だったとの記述を見つけたのです。
でも、しかし、複数の関連サイトを見ても、「貨物列車294」の機関車なのか、「貨物列車254」の機関車なのか、「旅客列車241」の機関車なのか、その記述はないのです。
「D51」は、主に貨物用に開発されたようなので、294列車か254列車のどちらかなのでしょう。
そうすると、「294列車」が本線上に立ち往生し、そこに254列車が激突したのですから、可能性としては「254列車」の先頭機関車は大破したもの思われます。
そうすると、事故後に修理され、その後に下山総裁を轢いた機関車は、事故の発端となった、「294列車」を引いていた機関車ではないかと、そう、思うのです。
この機関車「D51-651」は、2度も悲惨な事故に関係していたのです。ある人は、生産番号が「651」なので「ムゴイ」なんて、こじつける方も・・・・・・。
兎に角、これまでも、何度も脇を通りかかり、まったく気付かなかった石碑、その事故から“下山事件”に繋がるなんて、何かの縁かも?
そして、また、いつも覗くあるブログで最近“下山事件”の本が紹介されていたりして・・・・・・・、そろそろ、中断していた“下山事件”の話しを再開したくなったりして・・・・・・。
秋の夜長には“持ってこい”の推理ドラマなのです。さぁ、これから、本を注文します。再開は本を読んだその後です。
それでは、また明日。
内容に失礼しますが
下記サイトによれば
651号機は
254列車を牽引していたとのことです
http://joban651shitachi.web.fc2.com/joban/joban.html