突き出る二つのおっぱいのような
京葉瓦斯のタンク。
良く知る人が入院したとの知らせがあり
国府台国立病院に行ってきました。
以前は市川に行こうとすると色々乗換と時間がかかったのですが、今は
武蔵小杉で10分程歩くと
横須賀線に乗り換えられ結構スピィーディな展開です。
2003/12/28に結婚してから住んでいた
北国分のアパートから
日吉に引っ越して以来
市川駅に来るのは何年ぶりでしょうか。
思い出深い南口のアーケードはどうなってるんだろうなぁ?
10Holesを始めるきっかけとなったケンちゃんが遊びにきていた時給145円とバーボンの現物支給で働いていたあのお店。。
見たことも無い相手と互いのハイスコアを塗り替えあう無言の戦いを繰り広げていた20円ゲームセンター「エコー」。
お金が無いのに「寿司を食べて酒飲みたい」と友人とでゲームソフトを売りにいったお店。
不覚にも「するめ」と間違えて食べてしまった「すずめ」。でも焼き鳥は無茶苦茶うまかった飲み屋さん。
下水や化合物や堆積物で独特の匂いがあり「あそこは通りたくない」という人も何人か知っていますが。。
社会人になってから「
武蔵野台」「
蘇我」「
常陸多賀」と移り住み、結婚後は再び市川市北国分に住むようになってから自転車置き場と駅を結ぶこのアーケードを抜けながら色々と思いを巡らせたものです。
もちろん自分が横浜に引っ越していたこともありますが、連続していた「時空」が跡形もなく消え去り、初めて立ち寄る場所のように変貌していました。
「
南口が再開発されるらしいよ。アーケードも無くなるらしい」
「あのアーケードが無くなるわけないよ。昔からあるし想像できない」
物事は自分の想像力以上に進むようです。
こちらは北口。。おぉ時計屋さんもあるな。
「
ヤマハ音楽教室」に通っていた頃、右側にあるダイエーのビルが建つ前は小さいお店立ち並ぶようなところでした。
今でも巨大な餃子で有名な「
ひさご亭」の周辺が当時の雰囲気を残しているようです。
バスに載ると時々誰かのお土産なのか「あっ、ひさごの餃子!」と分かるくらい独特のものでした。
特に空腹時にあの香りがすると「頼むから今喰わせてくれ!」と頭を下げたくなる程のものでした。昔は6個逝けましたが、今はどうなんだろう?
#今調べたら閉店して
市川大野に遷ったんですね。。
丁度、国府台病院を通る
松戸駅行きのバスが停車していましたので、Pasmoをピッと当てて乗り込みます。このバスは距離に応じて運賃が変わるタイプなので乗った時に整理券を取り刻々と変わる運賃表をみながら運賃を払っていました。
もちろん今はそんな事はしません。
でも昔ながらの整理券も一緒にでていました。
「ひさごの餃子」の匂いはせず、大きな渋滞も無くバスは国府台病院に着きます。
森のなかまは国府台で生まれ、5歳の時に盲腸から
腹膜炎を起こして「あと12時間遅かったら。。」というところを助けてもらったという病院です。
「お腹いたいよーっ」
「
赤玉飲んどきなさい!」
と言われて3日くらいが過ぎ、さすがに「これはおかしい」と掛かり付けのお医者さんに連れて行かれ、即国府台病院を紹介されました。
「現在残っている手術室は工事中で手術ができません」と説明する看護婦さん。
「今手術が必要なんだからなんとかするんだ」と言ってくれた執刀の先生。。
後に両親から聞いた話ですが、本当に相当危なかったそうです。
毎日、お腹に埋め込まれたパイプのようなものを抜くのが死ぬ程痛かったのは覚えています。
2ヶ月くらいは入院していたのでしょうか、退院して1年後、親父に連れられて執刀してくれた先生にお礼をしにいきました。
入院中は見たことが無かった入り口からの通路は既に照明が消え暗くなっていました。灯の漏れている部屋に入ると先生はいました。
かなり疲れていた様子ですが、親子の顔をみるとニッコリとしてくれました。
おかげさまで今も生きています(笑)。。
各病棟にある食堂スペース。お見舞いに来た人達がここでお話をしたりします。古い病院ですが、独特の匂いはあまり感じませんでした。
そういえば食堂で土曜日は「
侍ジャイアンツ」とか「
宇宙戦艦ヤマト」を
見たよなぁ。
2012.02.13 追記:ヤマトは1974年開始なので森のなかまが5歳の時はやっていないですね。シナプスの勢いは時に時空を曲げてしまうようです。
程なく本人が車いすで登場。
脳梗塞が原因で足が動かなくなったのですが、意識はあったのか自分で救急車を呼んで入院したそうです。
随分足も動かせるようにはなったようですがリハビリに後2週間は入院が必要。。
「インフルエンザとかあって思った程リハビリ室が使えないだよ」
インフルエンザが流行しているため院内でもその対応が色々あるようです。
そういえば、
私がインフルエンザになったとき「We're all alone」が頭の鳴りまくっていたのですが、今年はワイフが復活後何故か「We're all alone」に取り憑かれてしまいました。
やはりインフルエンザと「We're all alone」には何か関係があるのでしょうか(笑)。
暑い位に日差しが差し込む食堂で、暫く話をしたり、頼まれものを受けたりと時間を過ごしました。
早く元気になってまた美味いもんでも食べにいこう!
国府台病院から「
じゅん菜池」へと向かう坂道。中学の通学路でもありました。
時々今の実家がある北国分には行きますが、生まれ育った国府台にはなかなか行く機会がなかったので周辺を歩きます。
坂を下りながら「もしかしたら。。」とカンピュータのデータベースがある映像をはじき出します。。ありました!
「なぜヘビさんが?」とワイフはキョトンとしていました。。
「
国府台辻切り」と呼ばれる
国府台天満宮の大蛇です。
悪いものが入ってこないように集落の出入り口四隅の辻を霊力で遮断してしまうというものです。
ウネェ~。夜見ると怖いかも。。でもそれぐらい霊力はいっているという事ですね。
小学生の頃テレビ取材が来て「テレビに映れ~」とみんなで押し合いへし合いしていたのを思い出しました。
今でもこうして毎年行われているんですね。ワイフも興味津々で見ていました。
じゅん菜池公園につきました。この時期は鴨が大量に来ています。
ワイフと結婚した頃はお金もなく、よくこの公園に来ました。
鴨にネコ達、鯉なんかと遊びながら散歩をしました。
梅が僅かに咲き始めました。
何時もより早い時間なので空の色が違いますね(笑)
なんかくれ~ぷか~。
ワイフのお目当てだった「金色のデカイやつ」には会えませんでした。
通称「特急坂」。。みんなそう呼んでいました。
坂の多い横浜に住んでからは緩くみえてしまいますが。。
そのむかし「あっくん」が森のなかまの自転車で上から走り降りようとしましたが、途中で怖くなったのか転んでしまいました。
大泣きの「あっくん」。。血も出ている。。
「大丈夫」と聞いても泣きまくる「あっくん」。。
そのまま泣きながら帰ってしまいました。森のなかまも
「あっくんが転んでケガした~、血がでた~」と泣きながら家に帰った覚えがあります(笑)。
翌日あっくんは「ケロリ」としていました。
道幅が狭く蛇行できないので、この坂を足を着けずに自転車で登りきるのはマシン性能と脚力の調和が必要であり、それなりに自慢できるステータスでありました。
高校生の頃バイトをして購入した「
Optimus スベア」をどうしても屋外で使ってみたくて雨の日友人を連れ出して、この土管の中でラーメンを作くりました(笑)。
ハタから見ても、友人も私も「馬鹿」だなぁと思った事でしょう。。
ちなみに、この近くにお手製の木造屋上を備えた小さな家があり、そこで森のなかまは生まれました。
一家6人で、よくまぁ住んでいたもんです。
今跡地を見ても「車を入れるのも大変だよなぁ」と思うくらい狭い敷地が車庫になっていました。
信じられない事ですが私の生まれる前から「
Steinway & Sons」の
アップライトピアノがあり、当時周囲に何もないのに付近を通りかかった調律師が。。
「そのスタインウェイを調律させて下さい!」
と言わせしめた伝説がありました。アップライトと言えど相当高価なはずです。一体どうしたんだろうと今でも不思議です。
ピアノ。。。兄弟は全て母親(ピアノは弾けない)の超スパルタ教育を受け、実に多くの涙と血が流れました。。本当に血と涙なんです!
私が弾いて間違えると急に目の前が真っ暗かになったかと思うと目から☆が飛びます。本当に☆です。顔面を正面から叩かられたわけです。
椅子の後ろ足を支点に円弧を描きながら倒れる私。。怯える妹。。。
階段を這って逃げる私。
足を掴んでそのまま階段を引きずり下ろす母親。。
泣き叫ぶ妹。。。
多分今では虐待になるかと思いますが、昔はそんな話をよく聞きました。
そういう時代だったんですね。
当時の母親の写真をみると「悪魔がいる!!」と身震いするのであります(笑)。そんな母も随分まるくなりました。沢山の逸話がありますがこの辺で。。
森のなかまが通っていた「
市川市立国府台小学校」第1鉄筋校舎。
日が傾いて来たのか太陽が校舎の影に入ってしまい寒々しい感じになってしまいました。
入学当時は第3鉄筋がなく最後の木造校舎がありました。トイレはボットンで「コワイよ~」と入れず漏らしちゃったりする子とか色々ありました。
私も小さい時に何回か漏らした事があります。。子供ながらに哀しいんですよね。。
丘に建っているので構内は結構アップダウンが激しく、各校舎を繋ぐ通路等もワクワクする造りで沢山
遊んだ学んだものであります。
今は周囲の林と馴染んでいる「じゅん菜池公園」も最初はありませんでした。
田んぼや、調整池、そして小学校を遮るが如く流れる「ドブ川」があり、ショートカットする愚か者を何人となく捉えては不快かつ惨めな思いをさせていたのであります。
「ジャーンプ!!!」
「あっ!」
この写真の場所は随分後に整備されたところで、水生植物等が別途栽培されていたりします。
水面に林が映っているのが楽しいのです。
穏やかですね。水面。。
鴨達がやってきました。鴨がスピードを上げようとすると見た目にも前傾姿勢になるのも楽しいです。
ぐにゃぁー。彼らはちょっとした芸術家ですね。
さて、以前なら「じゅん菜池公園」を3周はするのですが、お腹も空いて来たので「
矢切駅」から北総鉄道で日暮里か浅草方面に出てみようか思っていたのですがワイフが「
江戸川」の川原を歩きたいと言います。
ならばという事で学校横のお寺をまわりバス停を目指します。
ついでなので校庭を覗いてきます。
校庭では子供達が楽しそうに野球をやっていました。
実は大人も楽しそうなんですが。。しかし当時は広いと思っていた校庭も今見ると小さく感じます。
講堂も新しく立て直したようです。当時は確か木造だったと思います。雨の日の渡り廊下とか思い出します。
「押すなよー」
「あはは!」
小学校前からバスに乗り
京成国府台駅で降ります。
真間川が江戸川に流れ込む位置でもあり、周囲にはちょっと哀しい伝説のある「
手児奈」さんを祀る「
手児奈霊神堂」等があります。
高校時代の先生のアパートで食べさせてもらったカレーがチャチャクチャ美味くて、レシピを聞いた時に「目指しているカレーがある!」と教えてもらった喫茶店があります。
一度も入った事が無かったので今回初めて入ってみました。
うん。とても美味しかったです!
でも、先生のカレーと随分方向が違うようでした(笑)。
本人は悩んでるかもしれませんが、森のなかま的には先生のカレーの方がより好みでした。。なかなか人生思い通りにはいきませんね。
一級河川では見慣れた風景ですが、ここも思い出深い場所です。
この位置は川が蛇行していて市川側の川岸は狭く、よく対岸の広い川岸に行って「
二宮康明」さんの紙飛行機を飛ばしていました。
確か紙ヒコーキに出会ったのも腹膜炎で長引いた入院生活の時に、親父が「
良く飛ぶ紙飛行機」買って来てくれたのが始まりでした。退院後はもう夢中で作って飛ばしまくりました。
しばらく休みが続いた後に大学生の頃、腹膜炎の後遺症か腸が折れ曲がり易く「腸閉塞」で入院した後、思いだしたように再開し、大正生まれの師匠に出会ったのもこの川原でした。
腹を切ると紙ヒコーキを始めるシナプス結合なのでしょうか(笑)。
JPAAの大会での成績は最高で8位だったような記憶があります。。時間があればまたやりたいよなぁ。。
もちろん腹を切る事無くですよ(笑)。
JR, 京成,
国道14号と沢山の橋があり、ちょっとした橋銀座状態です(笑)。
右側に小さいながらも
東京スカイツリーが写っています。
「よーし、電車撮るぞーっ」と意気込むワイフにならい無謀にも31mmで京成電車を撮ってみます。。
ちょっと奇景なので撮ってみました。
どうやら国府台駅から市川駅まで歩いてしまったようです。
新しく立てられた立派なマンションは可愛らしい外観をしていました。
マンションの敷地内には池があり、この窓を通じて中を覗く事ができるようです。
色々な背の高さの人が見られる配慮なんですが、絵が飾られているようにも見えて楽しげです。
帰りに駅ショッピング街「
Shapo市川」に立ち寄ります。
可愛らしいカーディガンを見つけワイフに教えるとレベルメータが上がり出すワイフ。最近森のなかまが見つけるアイテムは結構ヒットします。
「どうせなら、吊るしみたいにこういったシャツと組み合わせたら?」
「可愛いすぎると思うんだけど。。」
「そちらでしたら半額でカーディガンと2点なのでさらに10%オフになります」
「ビビビビーン!」
暖かくなったらそれを着て散歩をしようね。
昔を思い出しながらツラララと書いていたらかなりのボリュームになってしまいました。
推敲するとか、そういった類いのものでもありませんので整理もせず増改築みたいな文章で申し訳ありませんでした。
さて、随分と長い間、生まれ育った町を見ていなかったせいか「連続していない時空」が故の変化に戸惑ってしまう週末でした。
ドブ川が走る手つかずの不整地に重機が入り、綺麗な公園になった時、それはとても大きな変化だったに違いありません。
衝撃の度合いや戸惑いこそあれ、変化のまっただ中に身を置いていたので、それなりに自分が順応していったのかと思います。
人間は現金なもので、自分が無関心なものがいくら変化しようと驚きこそすれ、心を痛めたり喜んだりしたりはしないのかと思います。
一方で、この変化が自分の思い出に深く関わっていたりすると「連続していない」事は辛く感じてしまうのだと思います。これまた現金なもんです。
でも、でも、きっと自分が見ていなかっただけで「連続していた」に違いありません。ちゃんとそこには嬉しい事や、哀しい事が沢山渦巻いていたに違いないと思います。
それは今の自分が住む場所や立ち位置についても同様なのかと思います。身をおいて、ちゃんと見て、感じて、何かしらの判断をしていけないんだと思います。
きっと全ての変化に順応していくのは難しいので、そこには優先順位や注意の集中が出てくるのだと思います。もしかしたら「生まれ育った土地」はその中に入らない事もあるかもしれません。。
でも。。可能なら沢山の時間を過ごした場所を時々ふりかえり「連続しなくなった時空」を自分なりに埋めてみるのも悪くはないのかなと思うようになりました。
だって生まれ育った場所って人それぞれであって、ちょっと特別ですから。
少なくとも森のなかまは特別と思うようになりました。
震災から11ヶ月が過ぎた2月の土曜日。重い腰さえあげれば立ち戻れる場所があるだけ森のなかまは幸せなのかもしれないです。
それでは!