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本郷和人・著“日本史を疑え”を読んで

自民党安倍派(清和政策研究会)などが政治資金パーティー券の販売収入を所属議員に還流し裏金になったとされる問題を巡り、騒ぎが拡大している。特捜が検事の全国動員をかけたというので、国会が閉じればどう動くか、事情聴取に誰が応じるのかが今後の焦点になるという。検察トップ人事にあのアホアホが手を突っ込んだので、検察側はその怨念を晴らすかのようだ。
疑惑はその後政権ナンバー2にも及んでいる。これで政権崩壊も視野に入ったと認められるようだ。

最早、解散もままならず、このままでは自民はジリヒン自滅か。選挙をしても公明も衰退の気配。
これはあのアホアホ流お仲間政治の成れの果て!五輪を汚し、政治資金疑惑まで引き起こした。自らに近い人物だけが甘い汁を吸って、日本をダメにしたのではないか?

となれば万博はどうなるのか。ところが、頼りの二階氏疑惑にまみれ万博どころではなくなった。このままでは万博は上手く運ぶ可能性は低くくなり、無様な失敗だけは避けたいところ。自民にとっては、なんとかこの問題は“維新”に押し付けて逃げ切ろうとの思惑どころですらもない。



さて、今回は本郷和人氏の“日本史を疑え”を読んだので紹介したい。日本史の何を疑うのか?何故、“日本史”に限るのか、若干不思議を感じながら読み始めた。まぁ日本史に限るのは、一般人には馴染みが深いからだろう・・・その程度の興味であった。だが読み始めて下記の「出版社内容説明」の宣伝文句には見事にはまったのだ。

紀伊國屋書店Webサイトには次のように紹介している。

出版社内容情報
歴史を一から押さえたい。うろ覚えの年号や用語をすっきり理解したい。キホンのキから歴史の醍醐味まで、本郷日本史の決定版。
内容説明
日本史は何の役に立つのか?丸暗記を脱却し、「時代の変化はなぜ起きたのか?」を考えることで、歴史は何倍も面白くなる。人気の歴史学者が明快に語る「史料」の読み方、「史実」の確かめ方、そして「定説」「最新学説」の疑い方。自分の頭で歴史を考えたい人への絶好の水先案内。
目次
第1章 日本史を疑ってみよう
第2章 古代
第3章 平安時代
第4章 鎌倉時代
第5章 室町時代
第6章 戦国時代
第7章 江戸時代
著者等紹介
本郷和人[ホンゴウカズト]
1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。東京大学文学部卒、同大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。鎌倉時代を中心とした日本中世史が専門。

では、本書では何をどう言っているのか、その紹介としたい。

第1章の最初では“日本史は、まだわかっていないことだらけの「未知を相手にする学問」です。”と言って、例えば“秀吉が自分の死後、どんな体制を考えていたのか”というような“「意味」についてはわからないことばかり”だという。さらに具体的に“もし秀吉が豊臣家の支配を永続させたいのであれば、朝鮮出兵などせず、最大のライバルである徳川家康を潰すことに全力を傾けるべきだった”。“しかし、そうしなかった”のは何故か。それを「残された史料をもとに考える」ほかない。
“ある出来事はなぜ起きたのか?それは後世にどのような影響を与えたのか?これは「史実を知る」だけではわかりません。「歴史の流れを考える」必要”があり、“「考える」ためには「疑う」必要”がある。
しかし、こうした問いに対する答えが日本史には「定説」として多数存在する。“しかし、「定説=正解」ではなく”しばしば変わる。“新しい史料や遺跡など「定説を覆す証拠」が発見される”ばかりではなく、“「歴史の見方=解釈」”も変わるのだ。戦前は「皇国史観」が「定説」だったが、戦後は「唯物史観」が大きな影響力があった。そして人は多少ともその時代の「史観」の影響を受けて歴史を見る傾向がありがちである。だから「定説」を疑う一方で「定説を覆す最新の研究」も疑う必要がある。
“こうした「歴史の流れ」を考えることは、実は、私たちがいま生きている世界を考えることにもつながる”という。“事実という「点」をもとに、変化の流れを描き、それがどのような影響を及ぼすかを考える。”それが重要なのだ、という。

これは私見だが事実という「点」の見落としがあっては決してならないのだが・・・。その見落とさないことも難しい。
だが、“歴史語りの歴史知らず”が結構いるような気がする。つまり歴史上有名な「点」を知らないことで、「歴史の流れ」を見誤ってしまうことだ。
例えば、“元治元年(1864年)9月11日、勝海舟と西郷隆盛が(大阪の)専稱寺で会談”している。これは歴史的事実だ。“この専稱寺においての二人の出会いが、勝海舟と西郷隆盛の初顔合わせとなった。西郷は、『禁門(蛤御門〕の変』後の長州藩の処置及び『兵庫港開港の延期』に対して幕府の後ろ向きで弱腰の姿勢を責めるつもりで訪問したと言われている。しかし、勝海舟の口から発せられたのは、力を失っていく徳川幕府の政策の話ではなく、広い世界の中の日本国家のあり方という壮大な話であったためさすがの西郷隆盛も度肝を抜かれた。”という。
この時、坂本龍馬は勝の下で海軍塾の塾頭をしていて、西郷とも顔を合わせていて、“鐘にたとえると、小さく叩(たた)けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大馬鹿で、利口なら大利口だ。”という有名な台詞を残した。一方、西郷も勝を“どれだけ智略が有るやら知しれぬ塩梅に見受けた。現状ではこの勝先生以外にはないと、ひどく惚れました。”と大久保に報告したという。
要は、西郷は長州を目の敵にしていて、長州を占領し長州藩を解体し天皇の御領とするべきとわめいていたのを勝がなだめて、幕府はもう日本を統治する能力を持たない、にもかかわらず反幕府勢力は薩長分裂していて外国勢力の介入の隙をも与えかねない状態だ。これではいけないので長州と仲良くすることを考えろ。と説いたという。
ここから容易に想像できるとこは、その後、西郷が長州と知己のあった竜馬を庇護し、薩長連合の根回しの周旋を依頼しただろうということではないか。竜馬が薩長同盟の先頭に立ったというより、その方が「歴史の流れ」を考えれば妥当だ、ということではないか。
つまり、西郷・勝会談と言えば“江戸城無血開城会談”が有名だが、歴史的には大坂専稱寺会談の方がもっと重要な会談だったことになる。だから専門家と称していても、この事実を知らないとあれば、オバカ専門家となりかねないのだ。司馬遼太郎の適当に選んだ「点」をもとに作った架空の“竜馬像”があまりにも大きく現代日本人の意識に乗り移ってしまっているのではないか。
このように歴史上有名な「点」を知らなければ、「歴史の流れ」を見誤ってしまうことになる。世間には“歴史語りの歴史知らず”が結構いるのではないか。

著者は、日本史の時代画期を押さえるための4つの視点を提案している。
①どこまでが日本か―――地理的枠組みの変化
②外圧とグローバル性―――国際環境と安全保障上の脅威
③メインプレイヤーは誰か―――天皇、貴族、武士、そして農民、町人へ。経済の発展と統治の広がり
④実力か世襲か―――実力重視の時代と世襲優位の時代。それぞれのメリットとデメリット

ここで、問題と見るべきは④の“実力か世襲か”だろう。日本では“世襲”が有力なのは最近よく言われることではないか。だが実力主義では実はコスパが悪いというのだ。“やられた方は下手をすると命を失い、・・・勝ったほうも無傷ではいられない・・・報復の可能性がいつまでも消えないから。(常に)臨戦態勢では、疲弊するばかり”となるからだ。“さらに問題は、実力のある者は周りから恐れられる”、そしてついには次々と周囲から裏切られる。織田信長がその好例。
一方、秩序を必要とするとき、実力以外の序列が世襲となり、権威となる。そのメリットは予測可能性が高いということ。“誰が出世するか、誰に働きかければ事が動くかがわかりやすい。”
だから、実力の裏付けのある権威が求められる。

これ以降、古代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代と著者の持論を交えての日本史概説となる。その持論が面白い。

古代史については、日本の権力中央は先進大陸の文化の受け入れとそれを背景にした権威を武器にしていたと推測している。だから西国地域が力を持った。筑紫、出雲、大和、場合によっては前回取り上げた吉備。その中で勝ち抜いたのが大和。だが、この古代日本では大軍勢が相手を一方的に滅ぼすことは少なかったのではないかと推測している。
大和は巧みに地域のボスを懐柔し、権威を伝達して統治を進めた。その権威の象徴が銅鏡であり剣であり、大きくは古墳だったのではないか。特に、古墳の造営方法の伝達は権威の伝達の象徴として大きかったのではないか、と指摘している。

面白いのは室町時代の“応仁の乱は尊氏派vs.直義派の最終決戦だった”という見解である。ここで著者の傑出した持論が分かる。
室町幕府の底流には、元々尊氏と直義の非常に仲の良い兄弟の考え方の違いがあった。その始まりは幕府の本拠地を鎌倉に置くか、天皇の居る京都で問題ないかであった。両者は軍事部門を押さえた尊氏と行政部門を統括した直義であり、その直義に異を唱えられるのは尊氏だけで、直義は鎌倉を本拠地にしようとしたが、尊氏は京都を選んで問題ないとしてそれを実行した。尊氏は貨幣経済の発達とともにある京都の経済力を選んだという。
そこへ、朝廷側が南北朝に分裂して争い始めた。北朝は尊氏が支持して起こしたが、直義は尊氏と戦うために南朝に降伏した。そして両統迭立が50年余り続く。これを統一したのは足利義満であった。義満は事実上の貴族として内大臣、右大臣、左大臣、太政大臣と出世しの頂点に立つことによって、武家と公家の頂点となり、統一を果たした。貴族社会では左大臣経験者が尊敬され、左大臣は伝統的儀式についての知識教養がなければ果たせない役職であった。義満はこの左大臣経験者であった。また義満は足利氏の最大のライバル・六分の一殿の山名氏清を討つことができて、幕府の軍事基盤を盤石にできた。そして、京都の商家への課税権も朝廷側から奪うことができて室町政権の頂点に至った。
ところが義満死後、義持が後継し、その背景は直義派の斯波義将であり、父である義満に愛されていなかった義持は義満の全てをひっくり返して行った。
その結果幕府は弱体し、権力抗争となる。そこでマクロに捉えれば“東軍のリーダーとなったのは(尊氏派の)細川勝元、対する西軍のリーダーは(直義派の)山名宗全”、“そして東軍に集まったのが細川氏とは長年の盟友である赤松氏をはじめ、ずっと細川グループにいた守護大名たち”。“他の西軍の主力は土岐氏、大内氏”となっていた。
応仁の乱はダラダラ続いたが、幕府衰退の結果であり、将軍家の後継争いが和睦で終わり、結局細川政元の専制政治が始まり一旦東軍が勝利したが、細川政権内での抗争が生じ、結局は戦う目的をも見失うという結果に終わったのだ、という解説である。
室町幕府はいつまでも抗争の歴史だったことになる。恐らく著者はここで、呉座勇一氏の説を是正したかったのだと思われる。本の表題を“日本史を疑え”として、焦点をずらしての批判であろう。ついでに各時代のトピックを付記したのだろう。

ところで、“秀吉が自分の死後、どんな体制を考えていたのか”について、著者はある程度の解答を“秀吉はなぜ家康を潰さなかったのか”で示している。
秀吉の朝鮮出兵は、当時のヨーロッパのアジア進出のグローバル化に負けまいとしたと考えれば、ある程度当然のこととも考えられる、としている。特に、当時満州地域の女真族(後の清朝の母体)が明にたいし勢力を拡大させようと動いていることを考慮すれば、頷けることで、一概に突飛とは言えない、と言っている。“ただ誤算は、朝鮮の民衆や明軍の力を過小評価していたこと”だという。
秀吉はやはり、家康の権威と実力を認めていた。だから自らの死後の秀頼のことを今際の際に家康を呼んで頼んだのではないか。自分の王国の後継者でなくても良いから、そこそこの大名として処遇してほしいと頼んだと思われるという。何故か。秀吉自身、信長の後継者として実力と権威を持っていたが、信長の親族には誰もそれがなかった。天下統一の覇者は自分しかいないという自負から成ったのだが、その同じ論から、天下を家康に禅譲せざるを得なかった。つまり“家康しかいない。だから家康を潰さなかった・・・。”というのだ。
私は、本当は秀頼は自分の子ではないと知っていた(本人だからわかるはず。北政所ねねも同じ。)、ということもそうさせた理由があったのではないか。ただ“豊臣”の名を残すことで自分たちを歴史に残すことを考えたのではないか、と思っている。

まぁこういった調子で、本郷和人節はその後の各時代も続くのだが、皆面白いので是非、読んで頂きたい。

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