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西研・著“NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ”を読んで

カントに引き続き西研・著“NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ”を読んだので紹介したい。ここで投稿したが、これは実は私の哲学帳でもあり、これを公開して勝手にブログ・ネタとした。表題が“ツァラトゥストラ”となってはいるが、事実上ニーチェ哲学全般の初学者のための分かり易い紹介本である。まぁ、とにかく浅学の私はこうした入門書から手始めとしなければならない。 従来ニーチェはその風貌から、また思想も異様な部分があり意識的に忌避していた。その哲学の主要概念が“ルサンチマン(うらみ)”や“ニヒリズム”,“超人”,“永遠回帰”であったり、“ツァラトゥストラ”という怪しい人物を主人公に怪しい台詞を言わせて哲学書を著したことや、“その哲学はナチスに利用された”というエピソードを聞いていたからだ。しかし、著者・西研教授がこの本の冒頭に言った“「私たちはどうやって生きていけばよいのか」という問いについて、これほどまっすぐに記した哲学書はほとんどない”との言葉に驚かされて、読み始めたのだった。 この本を読んで、それなりにほぼ理解できたつもりになれたが、どうしても今の私には“永遠回帰”には理解できない部分が残る。ニーチェの言いたいことは実は人間愛に満ちた暖かい本質だと頭では分かったような気がするが、スコンと腑に落ちない部分がどうしても残るのだ。この“スコンと腑に落とす”ために、いつか近い将来、他の信頼できる本も読んでみたいと思っている。 . . . 本文を読む
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京都文化博物館・特別展の“池大雅−文人たちの交流−”等を楽しんで

先週末の午後は京都での審査員研修会だった。今回は京都文化博物館で開催されている池大雅展を鑑賞することにした。以前、西京の西芳寺近くに池大雅美術館があるというので、観覧しようと現地に赴いたが既に閉館していて、そのリベンジという気持ちで京都文博に向かった。その文博の一部として旧日銀支店のレンガ造りの建物があるが、その北側のビル4階が“池大雅−文人たちの交流−”の会場だ。 池大雅は江戸中期の著名な文化人にその才能を認められ、良妻を得、多くの文人と自由に交わり、旅をし、経済的困窮を経験することもなく、生涯を終えた。世にも稀なほど仕合せな人生だったのではなかろうか。それは、その絵の伸びやかさ、絵に描かれた人々の楽し気な様子や屈託のなさを見れば分かる。そんな人生で、その思想や、後世への影響という点が気になった。ところがその交友関係がいずれ、明治維新につながっているとはつゆ知らず、不明を恥じるばかり。自由な文化の醸成は国の奥行きの深さを示すのであろうか。そう考えると、現代は国全体の政治的・経済的エネルギーが改革に向かっているとは、到底思えないのが大変残念だ。 . . . 本文を読む
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これまで9月開催の“ひょうご講座”を受講して

今回は9月から始まった“ひょうご講座”のこれまでを報告したい。私は今回“国際理解”と“地域創生”のコースを受講している。場所は兵庫県民会館。これまでは、次の講演があった。 【国際理解-米中対立と世界情勢の行方】 ○第1回〔9月4日(金)〕“米中対立がなぜ起きたのか” 講師:関山 健・京都大学大学院 総合生存学館 准教授 ○第2回〔9月8日(火)〕“ポストコロナの世界と米中関係の行方 -日本はいかに対応すべきか-” 講師:簑原 俊洋・神戸大学大学院 法学研究科 教授 【地域創生-人口減少・高齢化社会における健康で豊かな地域づくり】 ○第1回〔9月9日(水)〕“人口減少と社会の構造変化” 講師:筒井 淳也・立命館大学 産業社会学部 教授 . . . 本文を読む
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“討論 三島由紀夫vs.東大全共闘”の映画を見て、その文庫本を読んで

今回は“討論 三島由紀夫vs.東大全共闘”の映画を見て、その文庫本を読んで“くたびれた結果”を報告したい。 映画と本で表題が若干異なるが、内容は同じものを取り上げている。映画は、討論当時のTBSチームが終始撮影したものを最近部分的に採用して関係者のインタビューを追加してこの春リリースされたものだが、本は討論開催の1969年に新潮社より単行本が刊行され、それを再び2000年に文庫本として刊行したもの、という。映画は2時間半の全討論ではないが、本には討論の内容全てと“討論を終えて”の双方の感想が寄稿されている。 結局のところ、これらイベントは三島のスター性を補強・強化しているものに外ならない。生硬で暴力的な学生の議論の中に、三島は単身で乗り込んで、議論に天皇を介在させて、大人として立派に堂々と退去した。仕掛けたのは全共闘であったが、結果として注目されたのはあくまでも“三島由紀夫”だったのだ。この討論の内容を精査したところで、三島の論が注目されこそすれ、学生側の議論にはそれほどの意義は見出せないのではないか。 しかし、こうした二二六事件の将校達にも比肩されうる全共闘の活動は未熟ではあったが、エネルギーに満ちていた。いずれも圧殺され、それがその後の国家的不幸の源になったような気がする。圧殺されてもなお立ち上がるという、そんなエネルギーが現代の若者に感じられないのが寂しくもあり、悲しくもある現実だ。そこに我々世代の罪があるのか、よく分からない。 . . . 本文を読む
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