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ウリケ・シェーデ・著“シン・日本の経営―悲観バイアスを排す” を読んで

日本経済はジャパン・アズ・ナンバー・ワンの時代と比べると情けないものではあるまいか。私達中堅社員の所得レベルは、米国の自宅にプールを持っているような層と大差ないと言われていたほどのものだった。今や雲泥の差なのだ。それも円安のせい。円安は何が原因か・・・・・。 そんな中で、日本経済・日本企業の経営が再浮上して来ている?という本を読んだ。それが、ウリケ・シェーデ:著 “シン・日本の経営―悲観バイアスを排す”であるので、紹介したい。この本を読むと涙がでるほど日本の企業に対するイメージが変わってくる。静かにそして意図せず密かに日本経済・企業は変革・進化しているようなのだ。 . . . 本文を読む
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釈 徹宗・著“法然親鸞一遍”を読んで

今回は偶然にBook Offで見つけた本の紹介だ。題名が凄い。法然と親鸞、人物が異なるので違いがあるのだろうが、宗教上の違いはどこにあるの?と言いたくなる話だ。この本では、それに一遍が加わった。まぁ一遍なら先の御二人からは大きく違うイメージはある。まっ、いずれにしても、こと浄土教に足を突っ込み始めた者としては、とにかく一度は読むべき本だろう。 それに一遍って、知っていた?日本史の教科書にわずかに出てくる日本仏教界での上人様くらいしか記憶にない。何だか知らないが踊る念仏僧だったか、くらい。どういう人か知らぬ間にこの本によって少しは分かるか、くらいの気持ちで読み進めた。 意外にと言えば著者に大変失礼ではあるが、浄土仏教を歴史的に広範囲にしかも深く三祖を丁寧に解説しながらしかも比較して、示してくれていると感じる。中身が濃いから思わず長文になってしまった。必要以上と思われた向きには申し訳ない。日本浄土教の入門編として何度か読み返すべき大変な良書であると感じた。 . . . 本文を読む
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森永 卓郎・著“年収200万円でもたのしく暮らせます―コロナ恐慌を生き抜く経済学” を読んで

前々々回、森永卓郎氏の“書いてはいけない―日本経済墜落の真相” を読んでの感想を投稿していたが、そこで気になったのがアベノミクスを同氏はどう評価しているのかだった。それを知りたくて、この本を読んでみた訳だ。 本書では、“新型コロナウイルスは世界経済に甚大な影響を与えた。しかし、それは「終わりの始まり」にすぎない。資本主義経済とグローバル化がもたらした「バブル」が限界を迎え、まもなく大恐慌が訪れる。もちろん、日本も対岸の火事ではいられない。”というのが主旨だった。 だが実際は、どうやら表面的に経済が悪くても、日本経済はバブル崩壊で強靭な財務に改変され内部留保を積み増したことによって、実体経済がそれほど悪くはならなかった。不良債権が増えたのは、ゼロゼロ融資を受けた体質の悪い零細企業ばかりだったのではないか。そしてこの零細企業の不良債権は日本経済を脅かすほどの規模にはなっていなかった。だから日本の株価は上昇し始めているのではないか。 過度な円安は日本経済をインフレに持ち込んだ。賃金も上昇し始めた。だがこの円安は、米国との金利差がいずれ縮まって修正されるものと見ている。経常黒字がある限り、これ以上の円安が一方的に昂進するとは考え難い。足下の日本経済が活況を呈し始めている可能性は大いにあると甘く考えている。 . . . 本文を読む
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ひろさちや・著“法然を読む”を読んで

一旦親鸞の師匠の法然を飛ばして『ひろさちやの「親鸞」を読む』 を読んでしまった。何やら焦って先走ったのである。だが、誰しもが言うのは、“法然があっての親鸞であり、法然なしには親鸞は語れない”。やっぱり、その身勝手はまずいとばかり、今回は同じ“ひろさちや”氏の同じシリーズの『ひろさちやの「法然」を読む』を読んだので、報告したい。 この本の“まえがき”で著者は日本に当初入ってきた仏教は大乗仏教のはずだったが、基本を忘れた“一種のエリート主義の仏教”であったと指摘している。“そのような特権階級のための仏教を、仏教が本来あるべき姿、すなわち、――民衆のための仏教――に戻した思想家が、平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した法然です”と紹介している。したがって、“偉大なる宗教改革者”であるとも言っている。この本を読んでみて、それをしっかり確認させてもらった。 . . . 本文を読む
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森永卓郎・著“書いてはいけない―日本経済墜落の真相”を読んで

今、大いに売れている暴露本ということで森永卓郎・著“書いてはいけない――日本経済墜落の真相”を、読んでみた。 実は、これまで森永卓郎の著作はあまり読んだことがない。本の表題の多くが悪ふざけに過ぎるような気がしていたからだ。だが、本書は同氏の“遺書だ!”というので、慌てて買って読んだ次第だ。それは、著者がステージ4のがん告知を受け“生きている内に言っておきたいこと”があるからで、それは日本のメディアが触れていけないとしている3つのタブーを暴露することだった。3つのタブーとは、“ジャニーズ事務所問題”と“ザイム真理教”、“日航123便の墜落した理由”である。そのタブー化に関しては、“まえがき”で既に言い尽くされている。それは、次の4つ。 ①絶対的権力者が、人権や人命財産に関して深刻な侵害を行う。 ②その事実をメディアが報道せず、被害が拡大、長期化していく。 ③そうした事態について、警察も検察も見て見ぬふりをする。[場合によっては裁判所もそれに加担する] ④残酷な事態が社会に構造的に組み込まれていく。 こうして、日本全体が沈滞していく、と著者は言いたいのである。それは筆者も大いに同感である。日本のメディアつまり大手マスコミに従事している人々の正義感を大いに疑うのだ。報道しない、或いは歪んだ報道を意図的に行う傾向が強いのではないのか、ということだ。これは戦前の報道姿勢に戦後も無反省だったという、長く引き続く伝統に因るのであろう。まぁ日本のマスコミはアホアホであることに尽きるのかもしれない。 . . . 本文を読む
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五木寛之・著“はじめての親鸞”を読んで

今回も親鸞についての本の紹介としたい。但し、著者はひろさちや氏から抜け出して五木寛之氏に替えてみたのだ。五木氏は小説家として著名であるが、“1990年代以降は特に浄土思想に関心を寄せた著作も多い”。とりわけ親鸞についてはその生涯を小説にしていて、大変造詣が深いことでつとに有名である。そして本編はその親鸞について新潮社から依頼された講演を新書本にして発行されたものなので、五木氏の抱く概括的な親鸞像を余すところなく語っているものとして欠くべからざるものとして読んでみた。 この本の紹介として、何をどのように紹介しようかと思いつものように、本書の中でのキィ・ワードを取り出して、それを切り口にして少しばかりの私なりの感想を添えて、終わろうとするのだが、この作家の講演はあたかもどれもがキィ・ワードばかりでそれが連綿と続くかのような印象である。そのせいか、読み始めて引き込まれてしまい、気付くと読み終えてしまっていたような気さえする。著者は“雑談が好きである”と語っているがなるほどそうか、と思える。なのでフンワリ・ボンヤリとした感想を抱いて読み終えてしまっている。 取り分けてのキィ・ワードを取り出そうとしても上手くやれそうにもないのだが、それを言ってしまうと投稿できないので何とかしなければならない。そんな気分で実は読み直している。だから“書く”のにいつおより倍以上時間がかかっている。 . . . 本文を読む
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ひろさちや・著“親鸞を読む”を読んで

今回は空海から進み出て、親鸞へと仏教理解を深めていこうと読んだのが、おなじみ“ひろさちや”氏の『親鸞を読む』である。いわば“空海”を一旦“卒業”してみようとの試みだ。 空海の“密教では、「身・口・意の三密」”というが、“鎌倉時代の高僧たちは、身・口・意の三密をバラバラにしてしまった。バラバラの一密にして、各自がめいめいの一密に専心した”とあった。そして、“親鸞は意密を採った”ことになるが、その“意密”が三密の中でも高度で容易に実行できそうな気がする。そしてその高度の“意密”を理解できればしめたもの、との下衆の思いから、“親鸞”に飛びついた訳である。そして、身密の道元、口密の法然との違いも知ることが出来て良かった。 親鸞の徹底した“他力”は結局、“あるがまま”となる。それは“人のはからいではない。それは如来の誓いなので、法爾という”。――自然法爾――“もうあるがまま、そのままでいいんだ。そこにはすべての人間のはからいが消えてしまっている”。 . . . 本文を読む
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ひろさちや・著“空海入門”を読んで

これまで、空海に関する本は、面白半分で読んだ島田裕巳著“空海と最澄はどっちが偉いのか?―日本仏教史7つの謎を解く”をはじめいろいろ読んできた。だが、残念ながら“空海”、特にその“密教”についての理解はさっぱりのままなのだ。ここらで、決定版を読んでみようと、或いは読み落としも含めてもう一度“ひろさちや”氏の著作で確認するべくこの本を読んでみた。この本の内容に非常に近いのは同じ著者の“空海と密教”(黄金文庫)である。目次・章立てもよく似通っている。 だが、私にはこの本の“第6章 鎌倉仏教の高僧たちは、なぜ最澄の門下から生まれたか”に書かれていることが、著者の独創であり、私の日本仏教への理解を決定的にした。これは“ひろさちや”氏による見事な整理だといってよい。座禅も、念仏も「南無妙法蓮華経」も『歎異抄』も現代に活きている。空海の否、弘法大師の“三密”はこういうかたちで現代に活きているのだ。何だか、日本仏教の本質が解き明かされたような気がした。だから本書は“ひろさちや”氏による“空海入門”決定版であると言えるのではないだろうか。 . . . 本文を読む
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田岡俊次・著“台湾有事 日本の選択”を読んで

近所の書店でブログに紹介するべき本を探していたら、田岡俊次氏の本が目に入った。田岡氏は64年早大政経卒、朝日新聞記者でまた相当な家系の出身。湾岸戦争時に再び朝日新聞編集委員も兼ねるようになり、テレビ朝日の“朝まで生テレビ”に登場し、米軍の配置を掌を指すように詳しく説明し、居並ぶ出席者を驚かせた。その後CS放送 朝日ニュースターにおいても解説委員、看板番組であったパックインジャーナルのレギュラー・コメンテーターなどを務めていて、的確な解説でこの放送が終わるまで当時は必ず見て当時の軍事知識を仕入れていた。現在はフリーの軍事ジャーナリスト。ネットでは“田岡元帥”というあだ名があったと言われている。 そんな田岡氏の近著なので、しかも要警戒の要警戒事項“台湾有事”にコメントしているとあれば、大いに気懸り、ということで読むことにした。だが、多少の期待外れ・・・ . . . 本文を読む
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ひろさちや・著“ひろさちやの「最澄」を読む” を読んで

今回は“ひろさちや氏”に戻って最澄に関する本を読んだので紹介したい。これも書店の宗教セクションで見つけて、空海のライバル最澄を知るべく読むことにして、買った次第だ。申し訳ないが、空海を知るために読もうとした訳だ。読んでみてやっぱり、最澄はただものではない偉人であると理解できた。但し、教理は結構ややこしくて錯綜して理解が部分的に不十分なままではある。 最澄が空海の密教に飛び込め、との誘いに応じていれば、日本の仏教はどうなったのか、興味は尽きない。 . . . 本文を読む
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