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外憂内患

気付けば既にゴールデン・ウィークがスタート。休む世間に合わせてブログも休刊するのが合理的判断だが、先週は気付かずに、投稿ネタを求めて右往左往して失敗してしまいマヌケの極みだった。今週は休刊するかわりに、簡単に店仕舞いしたい。日本の現状は正確に言葉を選べば内患外憂ではないか。 外憂と言えば国際的注目の先週末の南北首脳会談はマスコミは盛り上がったが、会談の内容は殆ど無意味、セレモンーだけで終わった。実質は米朝首脳会談の前哨戦としての政治ショウだった。こういう分かり切った解説を得意気にするが、明らかな疑問点や問題点を説明できないいい加減な“専門家”が日本には多すぎる。 一方の内患。相変わらず安倍首相の絡むスキャンダルは消えずに、時を経るに従い逆に新たな事実が明らかになる傾向にある。しかし安倍政権は居直り、今や国会すら軽視し形骸化させ、野党を恫喝する。あまつさえ“地位に恋々”として問題を無駄に長引かせている。これを大した問題ではないとする議論が結構ある。しかし政治の基本ができずして、良い政治は不可能で、“美しい日本”どころか私益優先の“醜い日本”となるのだ。 . . . 本文を読む
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吉村昭・著“陸奥爆沈”を読んで

ブログ投稿ネタが無いので慌てて読もうと手近の書店で入手できたのが、吉村昭の“陸奥爆沈”だった。相変わらずの記録文学。日本ではぞんざいに扱われる記録、特に敗戦を機に多くの公文書が失われたため、肝心の記録が見つからないと言う場面は多い。その上、頼りになる証言者は既に亡くなっているということが殆どだが、吉村氏はいつもそういった障害を乗り越えて作品を完成させている。この作品は、昭和45年新潮社より刊行されたとあるから、戦後25年の作品だ。今やその刊行当時から48年経過しているので、このような作品制作はもはや不可能であろう。 吉村氏の意図するところは、少なくとも“兵器としての機能も発揮せず千名以上の乗組員とともに沈没した”と言う虚しさの視点ではこの“陸奥爆沈”の方が先の“戦艦武蔵”より目的を達しているように思える。しかし、こうした爆沈事件の背景には人間の貧困に根差したものがあり、この作品ではそれを克明にしようとしている。そうした戦前社会の脆弱さが背景にあったものと見ているのだろう。果たして現代日本では、最早このような事件は起こり得ないのであろうか。 . . . 本文を読む
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雑誌・“軍事研究’18年2月号記事・アメリカによる北ミサイル殲滅作戦”を読んで

一時は朝鮮半島有事が世界の衆目を集めたが、中朝首脳会談の開催により、半島での北非核化のための戦火勃発は殆ど可能性がなくなった、と見ている。このような現状で、数カ月前のシチュエーション下での米軍の北への軍事力行使をシミュレーションしても大した参考にはならないだろうが、具体的にどのような事態になるのか一旦想定しておくことは多少の意義はあるだろう。そういう意味で雑誌・“軍事研究’18年2月号記事・アメリカによる北ミサイル殲滅作戦”を読んでみた。 ところが、この件に触れた記事ではアメリカが掃討し損ねたミサイルがいくつか韓国や日本に飛んでくる可能性が高く、それが核弾頭搭載のミサイルばかりとは限らず、生物化学兵器搭載の飛来が考えられる、という程度のものだった。そんなことはわざわざ“専門家”に言われなくても、普通の人には既知のことだ。また、記事には肝心の攻撃態様の全体観が全く記述されていない。何のための投稿なのか意味不明なのが残念だった。 . . . 本文を読む
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スピルバーグ映画“リンカーン”を見て思うこと

このところエンタメ投稿で糊塗している印象だが、今回は物見遊山ではない。半月ほど前から気分的に映画を見たくなり、常とは違い結構見ていて、特にその内のスピルバーグ監督の“リンカーン”の感想を紹介したい。 南北戦争末期、奴隷制廃止を徹底するためには憲法の修正が必要で、そのためには悲惨な戦争の継続とそれに伴う犠牲は仕方ないとするリンカーンの政治的決断は凄い。その矛盾に対する葛藤が映画の冒頭で語られるリーンカーンの悪夢となっていたと思わせる。映画中の彼の台詞に“磁石は正確に北を示している。しかしその北には沼があるとき、君はそこに入っておぼれてしまうのか。”というような意味を言っているのが印象的だ。 また民主主義では様々な意見が自由に語られるべきだ。自由が保障するのは様々な議論百出は衆愚のるつぼだ。そうした混沌のるつぼの中で理想はここだと指し示し、どの程度どこまで何を実行するべきかを示すのが、理想的指導者なのだということが良くわかる。民主的な政治制度を作って、それで安心していてはいけないのだ。そこに理想を適切に指し示す指導者が居なければ、民主主義も次第に腐蝕し、ついに倒壊してしまうのではないか。スピルバーグ自身が映画の冒頭で、日本人に見て欲しいと言っているのは、そういうことなのだろう。またこの映画でスピルバーグはトランプ政権の登場をも予見していたのだろうか。 . . . 本文を読む
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京都文化博物館“ターナー・風景の詩”展と祇園・白川桜の花見

今度は京都に赴いた。午後からのIR(企業の広報)が開催されるのに参加するのだったが、午前に京都文化博物館で、“ターナー・風景の詩”展が開催されているのを知って鑑賞に赴いた。 これまで何故か英国人のターナー絵画の展覧会はあまり機会がなかったように思うが、それに比べて仏印象派の絵画展の方が圧倒的に多い。しかし鑑賞の結果、ターナーは単なる風景画家ではなく、それまでの西洋絵画の集約点であり、その後の近代画のあらゆる源流ではないかと感嘆した次第である。どうやらロマン主義に分類されるようだが、私は超写実主義と冠したらどうかと思う。それにも拘わらず、日本ではあまり人気がないのは何故であろう。 昼食は、あらかじめ食べログで調べた“冨美家”の看板商品である“冨美家鍋”を頼む。鍋焼きうどんだが、690円とは良いコスパ。このお店、元は甘味処で何か商品開発しようと先ずは鍋焼きうどんに進出。その際、出汁を重視し、今日に至っているという。京都の庶民が支える味だったのだ。 その後IR会場から3時過ぎ飛び出して祇園白川へ。春の京都、さすがに祇園白川の人出は多い。狭い街の一角なので、霞か雲かというようには見えないので満足という程でもないが、人出にはふさわしい桜の様子を一通り眺めた。 . . . 本文を読む
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