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“ひろさちやのいきいき人生・密教にまなぶ”を読んで

今週は読後感想に戻って、ひろさちやのいきいき人生シリーズの“密教にまなぶ”を紹介したい。 密教とは何か。改めて問われると戸惑うばかり。昨年は色々読んだつもりだったが、アホな話、結局は分からずじまい。阿字観とか、実際に修行しなければ分からない!そんなものかと愕然とし、諦めていたが、道元を解説してくれた、“ひろさちや”氏ならば教えてくれるだろうと読んだのがこの本だ。いわばリベンジの読書。 読み始めて仰天したのは、“わたしは密教を―仏のまねをして生きる教え―と定義しています。”と簡単に言い放っていることだ。これは、仏教は“仏(目覚めた人:Buddhaブッダ:仏陀)になるための教え”であり、“わたしたちはその「仏の教え」を学んで、わたしたち自身が「仏になること」を目指す”、“それが仏教の基本”であるが、“われわれ自身が仏になることはなかなか大変”であり、“ものすごい修行が必要”で、普通は“最低でも56億7千万年はかかる”。だが“まねをするだけであれば、あんがい簡単にできそう”。とにかく“とことんまねる”。そこで“わたしたちはどのように仏のまねをすればよいのか”を本書で紹介したという、のだ。 . . . 本文を読む
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永観堂の紅葉の中の拝観

先週末は珍しくシーズンの紅葉を見に行きたくなり永観堂に赴いた。例によって、午後の研修に合わせて午前に行ったのだ。“秋はもみじの永観堂”と言われるという。永観堂は通称で、正式には聖衆来迎山禅林寺という由。臨終に際して、ここへ聖衆来迎されるのであろうか。 実は、ここへは人に誘われて15年前にも連れられて来ていたが、細かいことは何故かほとんど覚えていない。連れられて来たので、覚えていないのだろう。かすかに水琴窟と勅使門のある庭くらいしか覚えていない。 バス停を下りて交差点を東へ歩いて、10分弱。総門では手指消毒で体温計測は珍しい。境内中からは、赤い紅葉がちらほら見える。中門内、三々五々、人々はカメラを構えて紅葉の撮影。 玄関に入って古方丈の庭に面したガラス戸で以前の記憶が一部戻った。昔のガラスで向こうが少し歪んで見える値打ちものだったのを思い出す。それから勅使門での紅葉も思い出す。 それから水琴窟。音を確認したが、かすかにしか聞こえない。こんなものだったか。 紅葉はやはり、自然の赤。だから嫌味がなく、すがすがしさがある。 大玄関から古方丈、釈迦堂、御影堂、水琴窟、阿弥陀堂の順で拝観。各、建物内に書画、仏像が展示されているが、紅葉に気が行ってしまう。まぁ仕方ない。 . . . 本文を読む
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ひろ さちや・著“禅にまなぶ”を読んで

今回も“ひろ さちや著作”の仏教読本に戻って、 “禅にまなぶ”の紹介としたい。これは春秋社の“ひろさちやのいきいき人生・全5巻”の第2巻の本である。紹介文に“禅の一休・良寛等の逸話から、世間に縛られず今のまま「主人公」として生きる生き方を解説”とある。一休や良寛の“禅宗の僧”としての姿を、改めて知って見たくなった。だが、一休や良寛について、当然のことながら紙幅の都合上深くは触れてはいなかった。なので、知りたければ別の本、機会であろう。 読んで何を知り得たか。“世間を馬鹿にする”、“阿呆になれ!”、“ただ狂え!”、“遊びに来た”、“人生は無意味”・・・??馬鹿と阿保が来て、狂人が現れて、遊びまわる?ついには“人生には意味がない”?なんということ!!“♪わっかるかなぁ~、わっからねぇだろうなぁ~” 大切なのは釈迦の言葉。「自分自身を灯明とし、自分自身をよりどころとするがよい。他のものにたよってはいけない。法(真理)を灯明とし、法をよりどころとするがよい。他のものにたよってはいけない。」そして精神的に独立し自由になること。「愚」と「狂」と「遊」はそのためのツールなのだ。 . . . 本文を読む
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10月に鑑賞した映画17本の紹介

また月が替わり、早くも11月となった。ついこの間まで暑く、夏が長い印象だったが、最早秋になっている。そこで今回も先月見た映画の紹介をしたい。 先月は仕事もあっていつもより少々減って、結果的に17本の映画鑑賞となった。本人はここで報告することもあるので、出来るだけ見るように努力したつもりだったが、減ってしまった。その内、NHK・BSプレミアムのBSシネマが7本、ネットの無料配信映画が10本となった。 ネット配信映画を見慣れると、突然画面に割り込むCMには閉口するが、時に意識が遠くなってシーンの見落としがあると、あっさり見直せるので、テレビ放映より鑑賞しやすい。それにBSシネマは昼間の活動度が高い13時からの始まりなので、見終わって大抵直ぐ夕方になってしまい、一日の時間が有効に使いづらいマイナス要素が大きい。コロナ禍が終わって仕事が増えると、そうした弱点が改めて目立ってくる。まぁ、その時無理せず見れるものを見る、それで良いのかも知れない。 . . . 本文を読む
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ひろ さちや・著“道元 正法眼蔵―わからないことがわかるということが悟り”を読んで

今回も ひろ さちや氏の本を紹介したい。今度は ひろ さちや氏がNHKの番組“100分de名著”で解説した内容を本にしたもので、“道元 正法眼蔵―わからないことがわかるということが悟り”だ。小冊子だが、道元の本質を分かり易く解説している良書と思う。 著者は、『正法眼蔵』を哲学書として読めば、それほど難解ではないと指摘している。禅の指南書として読むのは当然だが、一般人は哲学書として読んだ方がよいとのこと。ところが“哲学書というのは、何の前提もなく、ただただ人間の理性・言語によって真理の世界を解明しようとするものだ。” 「不立文字・以心伝心」の禅の世界で、何故、道元は『正法眼蔵』を書き遺したのか。それは“ただただ言語を武器として、悟りの世界を解明し、叙述したかったのだ。それによって彼の信じる「正伝の仏法」を後世に伝えたかったのだ。”と著者は言う。 道元哲学を理解するキィワードは、“生死即涅槃”、“煩悩即菩提”、“仏即凡夫”や “色即是空”での“即”であり、“時節因縁”、“即今・当処・自己”、“心身脱落(忘我)”、“修証一等(ただ高みに歩みつづける)”であるという。 . . . 本文を読む
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