学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

近代の為兼

2009-02-11 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月11日(水)17時05分12秒

井上宗雄氏『京極為兼』の続きです。

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 近代に入って、初めて「京極派」の名称を用いたのは藤岡作太郎ではないか、と岩佐氏は指摘する。すなわち藤岡は、東大において鎌倉室町時代の文学を講じた中で(一九〇六年九月から三年半)、その清新さを指摘して的確な論評を行った(その講義は『鎌倉室町時代文学史』所収)。次いで一九〇七年福井久蔵により宮内省図書寮から『為兼卿和歌抄』『歌苑連署事書』が発見され、一九一六年珍書同好会より刊行され、その著『大日本歌学史』に為兼および京極派和歌の新しさについて簡潔的確な記述を行う。そして一九二六年十二月には土岐善麿『作者別万葉以後』が出される。二十三人の作者の歌を掲げ、略伝を添えたものであるが、為兼・伏見院・永福門院が採択されている。この書の末尾に折口信夫が「短歌本質成立の時代 万葉集以後の歌風の見わたし」という論文を草している(『折口信夫全集 第一巻』所収)。
  彼(為兼)は、民間の隠者歌の影響を受けたと共に、万葉集の時代的の理会として
  は、最、よい程度に達してゐた様である。其上、新古今の早く忘れて過ぎた、真の
  はなやかで、正確な写生態度を会得してゐた。
 以下、『玉葉集』『風雅集』およびとりわけ伏見院・永福門院を称揚し、「我々の時代まで考へて来た所の和歌の本質と言ふものは、実は玉葉・風雅に、完成して居たのである」と述べている。
 この二集の復権がここで行われたといってよい。京極派和歌の持つ自然詠が、とりわけて近代人の共感を招き易く、まさしく近代の展開と共に復権が進行したのである。
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大正天皇は明治12年(1879)生まれで、福井久蔵(1867生)より12歳、藤岡作太郎(1870生)より9歳下、土岐善麿(1885生)より6歳、折口信夫(1887年生)より8歳上ですね。
時代的には、少なくとも藤岡作太郎の評価を知っていてもおかしくはないですね。

大正天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87

福井久蔵
http://www.town.shinonsen.hyogo.jp/page/c107d7913f7bb1a8084348774750b96f.html

藤岡作太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B2%A1%E4%BD%9C%E5%A4%AA%E9%83%8E
コメント
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近世の為兼

2009-02-11 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月11日(水)16時29分18秒

>筆綾丸さん
大正天皇が為兼の歌を知っていた可能性はあるんですかね。
参考までに井上宗雄氏『京極為兼』(吉川・人物叢書)から、近世以降の為兼に関する記述を引用してみます。(p250以下)

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 江戸期においても大勢は為兼、玉葉・風雅の歌は異風とされた。
(中略)
 しかし近世は多様な見解があって、早い時期に茂睡は『梨本集』(元禄十三年刊)で
『玉葉集』『風雅集』の風体は、俊成・定家・為家時代と変わり、新しく詠み変えたもので、そこで持明院統系の方々はこの風を詠み、
  (用語も)色消えて・色暮れて・色さめてなどの詞、うす霧・朝あけ、(中略)惣じて
  嫌ひ制する詞なく、歌道ひろくよみたるを、二条家の人、為兼の風になりたらばわ
  が家すたり用うる人あるまじきと思ひて(定家の名をかりて偽書をつくったのだ)
と述べ、為兼の歌風は父祖三代の風を一新したもの、と評価している。
 次に富士谷御杖のように「玉葉風雅をいやしむるはただ古の人の口まねなり。今のよに比ぶれば猶力いりて一ふしありといふべし」(『多南弁乃異則(タナベノイソ)』寛政六年<一七九四>成る)といい、また石原正明のように「為兼卿もまた一時の名匠にて、いといきほひある歌よみ也」(『尾張廼家苞』文政二年<一八一九>刊)と評した擁護派が存在する。中にも注意すべきは北川真顔で、真顔は『為兼集』の写本を得て喜び、「為兼卿歌集補遺」「藤為兼卿伝」を付して板行した(文政元年。岸本由豆流「しりがき」を付す)。真顔は
「藤為兼卿伝」で、
  (為家流は三つに分かれて)中にも持明院の御方には為兼卿のまめなる風体を好ませ給ひ
  ・・・・此卿は当時の浮花なる体をこのまれず、万葉のいにしへにもとづき、歌は実正
  によむべき物ぞと人にも教へ導き給ひしかば、詞をもかざらず姿もつくろはず、
  ただありによみ給ひしことも多かりつらん。それとてもそらごとをかまへ詞をかざりて
  いつもおなじさまなることをつづけよみたる其比の歌にはまさりぬべし。(下略)
と述べている。茂睡の影響も大きいが、注意すべき為兼論である。なお『為兼集』は現在では為兼の名前を冠した撰集であることが知られているが、為兼発掘の一つのゆかりとなった点で注意される。
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戸田茂睡
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/mosui.html

鹿津部真顔
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E6%B4%A5%E9%83%A8%E7%9C%9F%E9%A1%94
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