学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

注意書き

2009-02-23 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月23日(月)23時56分51秒

『石光真清の手記』を読んで、その文章があまりに現代的であることに驚いた人も多いと思いますが、これには以下のような事情があります。
(『望郷の歌』中p6)

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一 故石光真清が秘かに綴り遺した手記は、明治元年に始まり、大正、昭和の三代に亘る広汎な実録である。これを公刊するに当って年代順に整理編集し、『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』の四著に分類した。
(中略)
七 四著、それぞれの書名、章題、区分はすべて手記によらず、また文体、会話、地名などは出来るかぎり現代風に改めた。
八 四著をなす手記とそれに関する資料は厖大複雑であり、もともと発表する意思で書かれたものではなく、死期に臨んで著者自ら焼却を図ったものである。その中には自分を他人の如く架空名の三人称で表したものさえ多く、その照合と考証に多くの年月と慎重な努力を要した。従って焼却された部分や脱落箇所の補綴や、全篇に亘っての考証は、編者(嗣子石光真人)が生前の著者から直接聴き正し、また当時の関係者から口述を得たものによって行ったほか、生前の著者を知る多くの人の協力によって、全容の完成を見るに至った。しかし事実を述べるに、なんらの作為を弄せず、私見もさし挿んでいない。
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石光真清は明治元年(1867)熊本生まれで、文章は古風だっただろうし、しゃべり方も熊本弁が残っていたでしょうね。
それを子息の石光真人氏が「出来るかぎり現代風に改めた」わけです。
もっとも、方言や古風な話し方を残した会話部分も多々ありますので、石光真人氏がどのように「現代風に改めた」のかは、個別に確認する必要があります。
ちなみに石光真人氏は1904年生まれ、1975年没で、『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』 (中公新書)の著者としても有名ですね。
コメント
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