学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

水野福子-その4

2009-02-15 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月15日(日)22時20分57秒

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 水野福子の身の上話を聞いているうちに、私の眼頭も熱くなった。愛情というものは、このように深く、また強くもあり得るものかと、不思議な未知の世界を見せられたように感じた。世間知らずの素朴さ、打算を離れた純粋さ、犠牲を厭わない、ひた向きな強情さに、驚異を感じないではいられなかった。
「あなたの御主人に対する深い愛情を羨ましくも思い、また、ご同情もしますが、私も守備隊長と同じ意見です。戦争というものは本当にひどいものですよ。お帰りなさい。帰ってご主人の両親に尽くしてあげるのが、ご主人の遺志ではないですか」
「皆さんがそうおっしゃるなら、考え直してみましょう。お金も心細くなりましたし・・・・」
「とにかく帰国して、落着いてからゆっくり考えてみることですね」
「・・・・そうしましょう」
 こう言って水野福子は自分の部屋に引揚げた。翌日、私の部屋にやって来たが、考えは前と少しも変っていない。
「村を出ます時に、親も兄弟も親戚も不同意でした。母は泣いて思いとどまるようにと縋りついていましたのに、私は振り切って出て来たのです。領事館で笑われ、守備隊で説諭され、何一つ手懸りも掴めずに郷に帰るわけにはいきません。このざまで帰ってごらんなさい。村の人から馬鹿の標本にされ気違い扱いされて、結局はまた村を出なければならないでしょう。私はもう帰りません」
と決意のほどを示した。これを傍らで聞いていた本間徳次が、あわてて防戦に乗り出した。
「水野さん、そりゃ無理ですよ。僕等も満洲の風来坊でね、計画したことは次々に壊れてしまう。僕等自身が迷っているのに、あなたまで救えませんよ。薄情者だと思うでしょうが、ここは貴女も馬鹿になって、目をつぶってお帰りなさい。村の衆は同情しますよ。馬鹿にしたり笑ったりはしませんよ。帰るのが一番ですなあ」
 水野福子はだまって聞いていたが、ややあってから、
「・・・・帰りましょう」
と言って座を立った。
 その翌日、水野福子は黙って宿から姿を消した。
「本間君、あの女は宿を引き払ったが・・・・ありゃあ郷へなんか帰りゃせんぞ、あの様子ではねえ・・・・」
と私が言うと、本間徳次も、
「そうかも知れませんなあ」
と言って、ごろりと横になった。私も座蒲団を折って枕にした。意地を張って満洲に来て、郷に帰れなくなった女の行く末を頭の中で追っているうちに、いつしかそれが私自身の孤独な姿になっているのを知って起き上った。
 傍らの本間徳次は眼を閉じたまま動かなかった。
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これで水野福子の話はお終いです。
さて、この話をどう読んだらいいのか。
「いのち」の歴史家 ・小松裕氏のように、「兵卒の遺骨をぞんざいに扱った国に身をもって抗議し、自分の意思で生きようとした女性」と捉えるのがオーソドックスな解釈と言えるのかもしれませんが、少し釈然としないものも残ります。
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水野福子-その3

2009-02-15 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月15日(日)21時50分31秒

続きです。

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 奉天へ来てから、すぐ戦死地を探しました。公報に三十八年三月八日李官堡付近の戦闘で戦死と書いてありましたから、支那人の案内人を雇って李官堡という所に行ってみました。行ってみたところが、ニ、三軒の百姓屋と畑があるだけで、戦いの跡など何もないのです。いたって平和な農村で、髪を振り分けて編んだ小さい女の子が、綿入りの綿服に着ぶくれて、不思議そうに私を眺めているだけです。この農村をひと巡りしましたが、墓標らしい一本の記念物も見つけ出せずに帰って来ました。
 これでは駄目だと思いましたので、当てにしていませんでしたが、領事館を訪ねて満洲に来た目的を話して援けを請いました。ところがどうでしょう。役人がにやにや笑って相手にもならないのです。私はかっとなって、机の上にあった茶碗を投げつけて帰りました。辺りにいた男たちの笑い声がまだ耳についています。くやしくて堪りません。私は気違いでしょうか。それとも、あの男たちが気違いなのでしょうか。宿に帰ってからも口惜しさがこみ上げて来て、泣けて泣けて仕方ありませんでした。
 最後の手段として、この地の守備隊長に会って相談してみようと訪ねてゆくと、快く会ってくれました。
『御心中はお察しします。ですが奥さん、戦争というものは、奥さんのお考えになっているようなものではないのですよ。そんなことを遺族の方々にお話しするに忍びないのですが、戦争というものは残酷な、無惨なものです。お互いに恨みも憎しみもない者同士が、殺すか殺されるか、そんなことすら考える暇もなく、敵も味方も折り重なって死んでしまうのです。砕け散って肉片になっているもの、黒焦げのもの、腐って発見されるもの、敵中に飛びこんで、敵の手で埋葬される者、発見されずに支那住民の手で始末される者、それはそれは千差万別で、実のところ、氏名が確認された者は幸福者ですよ。それに、御主人の亡くなられた奉天前面の戦いは十日間も各所で続けられたので、戦場の整理に手間取り、確認できない者が大変多かったのです。人の霊魂というものは、何も遺骨につきまとっているものではないでしょう。あなたの心の中に生きておられると思います。そう信じて冥福を祈ってあげて下さい。御主人の霊魂はあなたの行く末を案じていますよ。早く郷へお帰りなさい。奉天には人間に化けた狼どもが、うろうろしています。早くお帰りなさい』
 こう諭されて私は泣きました。戦争というものは、そんなにひどいものでしょうか。そんなにひどいものだと知ると、その中で無惨に死んで行ったあの主人(ひと)が、いたわしくて、いとしくてなりません。この年になって、娘のようなことを言うのは恥かしいと思いますが、私の気持ちは今でも変りございません。ひょっとしたら・・・・生き残っていて、この辺の街角でばったり会わないでもないと、夢のようなことを考えて、あてもなく歩くこともあります。時々、ふと冷静になって、悪女の深情け、女の執念などという厭な言葉が冷たく背筋を走ることもありますが・・・・本当にそうかも知れません」
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李官堡の戦い
http://www.z-flag.jp/blog/archives/2008/03/post_581.html

干洪屯三軒屋附近の激戦
http://ww1.m78.com/sib/kankyoton.html
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「よろしゅうございましょうか」

2009-02-15 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月15日(日)11時11分54秒

>筆綾丸さん
戦死した場所は、戦死の公報で一応特定されているようです。
後で続きを載せます。
『石光真清の手記』は本人の遺稿を息子の石光真人氏が編集した際に若干の加筆改変があるそうなので、意外に取り扱いが難しい史料なのかもしれないですね。
水野福子に関して気になるのは、その語り口が明らかに高崎近郊の農家の人のものではないことです。
何らかの事情で本人がそもそも北関東方言で話していなかったのか、石光真清が記憶を整理した時に変わったのか、それとも編集時に何か改変があるのか。
水野福子に関する詳しい事情が分かれば、逆に『石光真清の手記』の記録としての価値を判断する材料になるのかもしれませんね。

国会図書館・石光真清関係文書
http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/ishimitsumakiyo.html
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