投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月15日(日)22時20分57秒
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水野福子の身の上話を聞いているうちに、私の眼頭も熱くなった。愛情というものは、このように深く、また強くもあり得るものかと、不思議な未知の世界を見せられたように感じた。世間知らずの素朴さ、打算を離れた純粋さ、犠牲を厭わない、ひた向きな強情さに、驚異を感じないではいられなかった。
「あなたの御主人に対する深い愛情を羨ましくも思い、また、ご同情もしますが、私も守備隊長と同じ意見です。戦争というものは本当にひどいものですよ。お帰りなさい。帰ってご主人の両親に尽くしてあげるのが、ご主人の遺志ではないですか」
「皆さんがそうおっしゃるなら、考え直してみましょう。お金も心細くなりましたし・・・・」
「とにかく帰国して、落着いてからゆっくり考えてみることですね」
「・・・・そうしましょう」
こう言って水野福子は自分の部屋に引揚げた。翌日、私の部屋にやって来たが、考えは前と少しも変っていない。
「村を出ます時に、親も兄弟も親戚も不同意でした。母は泣いて思いとどまるようにと縋りついていましたのに、私は振り切って出て来たのです。領事館で笑われ、守備隊で説諭され、何一つ手懸りも掴めずに郷に帰るわけにはいきません。このざまで帰ってごらんなさい。村の人から馬鹿の標本にされ気違い扱いされて、結局はまた村を出なければならないでしょう。私はもう帰りません」
と決意のほどを示した。これを傍らで聞いていた本間徳次が、あわてて防戦に乗り出した。
「水野さん、そりゃ無理ですよ。僕等も満洲の風来坊でね、計画したことは次々に壊れてしまう。僕等自身が迷っているのに、あなたまで救えませんよ。薄情者だと思うでしょうが、ここは貴女も馬鹿になって、目をつぶってお帰りなさい。村の衆は同情しますよ。馬鹿にしたり笑ったりはしませんよ。帰るのが一番ですなあ」
水野福子はだまって聞いていたが、ややあってから、
「・・・・帰りましょう」
と言って座を立った。
その翌日、水野福子は黙って宿から姿を消した。
「本間君、あの女は宿を引き払ったが・・・・ありゃあ郷へなんか帰りゃせんぞ、あの様子ではねえ・・・・」
と私が言うと、本間徳次も、
「そうかも知れませんなあ」
と言って、ごろりと横になった。私も座蒲団を折って枕にした。意地を張って満洲に来て、郷に帰れなくなった女の行く末を頭の中で追っているうちに、いつしかそれが私自身の孤独な姿になっているのを知って起き上った。
傍らの本間徳次は眼を閉じたまま動かなかった。
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これで水野福子の話はお終いです。
さて、この話をどう読んだらいいのか。
「いのち」の歴史家 ・小松裕氏のように、「兵卒の遺骨をぞんざいに扱った国に身をもって抗議し、自分の意思で生きようとした女性」と捉えるのがオーソドックスな解釈と言えるのかもしれませんが、少し釈然としないものも残ります。
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水野福子の身の上話を聞いているうちに、私の眼頭も熱くなった。愛情というものは、このように深く、また強くもあり得るものかと、不思議な未知の世界を見せられたように感じた。世間知らずの素朴さ、打算を離れた純粋さ、犠牲を厭わない、ひた向きな強情さに、驚異を感じないではいられなかった。
「あなたの御主人に対する深い愛情を羨ましくも思い、また、ご同情もしますが、私も守備隊長と同じ意見です。戦争というものは本当にひどいものですよ。お帰りなさい。帰ってご主人の両親に尽くしてあげるのが、ご主人の遺志ではないですか」
「皆さんがそうおっしゃるなら、考え直してみましょう。お金も心細くなりましたし・・・・」
「とにかく帰国して、落着いてからゆっくり考えてみることですね」
「・・・・そうしましょう」
こう言って水野福子は自分の部屋に引揚げた。翌日、私の部屋にやって来たが、考えは前と少しも変っていない。
「村を出ます時に、親も兄弟も親戚も不同意でした。母は泣いて思いとどまるようにと縋りついていましたのに、私は振り切って出て来たのです。領事館で笑われ、守備隊で説諭され、何一つ手懸りも掴めずに郷に帰るわけにはいきません。このざまで帰ってごらんなさい。村の人から馬鹿の標本にされ気違い扱いされて、結局はまた村を出なければならないでしょう。私はもう帰りません」
と決意のほどを示した。これを傍らで聞いていた本間徳次が、あわてて防戦に乗り出した。
「水野さん、そりゃ無理ですよ。僕等も満洲の風来坊でね、計画したことは次々に壊れてしまう。僕等自身が迷っているのに、あなたまで救えませんよ。薄情者だと思うでしょうが、ここは貴女も馬鹿になって、目をつぶってお帰りなさい。村の衆は同情しますよ。馬鹿にしたり笑ったりはしませんよ。帰るのが一番ですなあ」
水野福子はだまって聞いていたが、ややあってから、
「・・・・帰りましょう」
と言って座を立った。
その翌日、水野福子は黙って宿から姿を消した。
「本間君、あの女は宿を引き払ったが・・・・ありゃあ郷へなんか帰りゃせんぞ、あの様子ではねえ・・・・」
と私が言うと、本間徳次も、
「そうかも知れませんなあ」
と言って、ごろりと横になった。私も座蒲団を折って枕にした。意地を張って満洲に来て、郷に帰れなくなった女の行く末を頭の中で追っているうちに、いつしかそれが私自身の孤独な姿になっているのを知って起き上った。
傍らの本間徳次は眼を閉じたまま動かなかった。
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これで水野福子の話はお終いです。
さて、この話をどう読んだらいいのか。
「いのち」の歴史家 ・小松裕氏のように、「兵卒の遺骨をぞんざいに扱った国に身をもって抗議し、自分の意思で生きようとした女性」と捉えるのがオーソドックスな解釈と言えるのかもしれませんが、少し釈然としないものも残ります。