学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「ツルの寒ざらし」再び

2016-08-06 | 天皇生前退位

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月 6日(土)09時26分58秒

>林林太郎さん
こんにちは。
半年前の私の投稿、「ツルの寒ざらし」(その1)(その2)へのレスですね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/81ad91fc84fa8ba75fd3ea2edefa1b86
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/659f002957310aee5dc16faa866de613

私も「ツルの寒ざらし」を含め、「浦上四番崩れ」に関する被害者側の証言とされるものには脚色が多いように感じています。
流刑された場所によっても待遇は千差万別で、中には鹿児島のように、殆ど旅行気分で過ごせた場所もあったようですね。
ただ、津和野の場合、死者の割合が平均より相当に高いので、厳しい待遇であったことは争えないのではないかと思います。
ご引用の二つの文献、山崎國紀『森鴎外―基層的論究』(八木書店、1989)、クラウス・クラハト、克美・タテノ=クラハト『鴎外の降誕祭―森家をめぐる年代記』(NTT出版、2012)はいずれも未読ですが、ご引用の部分を見る限り、「ツルの寒ざらし」を全面的に否定するには不十分で、両書の記述の基礎となった史料の包括的な検討が必要ではないかと思います。

>筆綾丸さん
>ビスマルク憲法あたりを想定していたのでしょうね。
これはちょっと調べてみたいと思います。

>なかなか凄い論理ですが、これも一種の罪刑法定主義と呼ぶべきなんでしょうね。

論理的には問題がありますが、このあたり、もしかすると自分の憲法理論を不敬だと攻撃するであろう勢力を想定しての政治的配慮があるのかもしれないですね。
不敬について、自分はこんなに厳格に考えているのだ、みたいな。

>キラーカーンさん
>憲法改正をしなくても、同様の結論を導く解釈は、憲法9条に比べると遥かに簡単そうに思えますので

第99条には「内閣総理大臣」すら明記せず、解釈で「国務大臣」に「内閣総理大臣」も含むものとされていますが、たしかにこれも「美しくない」解釈ですね。
わざわざここだけ直すのも変ですが、他の条項を改正するときに、ついでに整理しておくことは必要かなと思います。

※筆綾丸・林林太郎・キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

老中 2016/08/05(金) 15:16:27(筆綾丸さん)
キラーカーンさん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81
ウィキには、伊藤氏が否定している桂太郎が入っていて、さらには「元老受命年月日」という奇妙なものまであるのですね。
外国語の説明をみると、
(英)The institution of genrō originated with the traditional council of elders (Rōjū) common in the Edo period.
(独)Die Institution des Genrō hat ihren Ursprung in dem Rojū (Shōgunats-Rat) der Edo-Zeit.
(仏)L'institution des Genrō a commencé avec le conseil traditionnel des anciens (Rōjū) de l'époque Edo.
(西)La institución del genrō se originó con el consejo tradicional de mayores (Rōjū) establecido en el Shogunato Tokugawa (1603-1868).
元老の起源は徳川幕府の老中である、という驚天動地の記述(伊語と中国語にはない)があります。この伝でいけば、西園寺が一人元老であった時期は、井伊直弼に倣って「大老」と言えそうですね。残念ながら、西欧では、日本の元老はこの程度にしか理解されていないのですね。
余計なことですが、元老西園寺がよくわからないのは、近場の葉山や鎌倉で済むのに、なぜ東京から遠い駿河の興津に別荘(座漁荘)を建てたのか、ということです。宮中からの物理的距離のわからなさ。
  こと問へよ思ひおきつの浜千鳥なくなく出でしあとの月影   定家
を踏まえつつ、駿府の老人(徳川慶喜)にでも思いを馳せたのか。
伊藤氏の『元老西園寺公望』には、もちろん、何の言及もありませんが、氏に聞いてみたいところです。

小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E6%86%B2%E6%B3%95
美濃部が「恐くは外国の憲法の影響に基くなり」と言うとき、ビスマルク憲法あたりを想定していたのでしょうね。
(イ)の「刑法に依り始めて之を禁止したるに非ずして、憲法に依り既に禁止せらるるものと認むべく」というのはなかなか凄い論理ですが、これも一種の罪刑法定主義と呼ぶべきなんでしょうね。
(二)の「法律命令が天皇に適用せられざることの原則に対して例外を為すものは財産法なり」ですが、神聖不可侵の至尊至貴の存在には似つかわしくない例外ですね。

福羽美静は取り調べをしていない 2016/08/05(金) 18:20:56(林林太郎さん)
<福羽美静(1831-1907)は神仏分離・廃仏毀釈の過程で特別な存在だった津和野藩の国学者ですが、自ら
<津和野に流されたキリシタンの取調べをやっていたんですね。

福羽美静は、取調べをしていません。以下の者が取調べをしていました。

御預異宗徒御用係
総括兼説得方 藩士 千葉常善
   説得方 同  森岡幸夫
   同   神官 佐伯 栞
   同   藩士 金森一峰

(森鴎外ー基層的論究)

なお、人数が少し違いますが、清四郎の話は以下のことを指していると思います。

彼は不改心者一二人に下駄と編み笠を与え、うち病気の二名を除く十人を収容所より藩の御殿の大広間に招待した。思いやりの深い言葉で、キリシタンの辛い状況に遺憾の意を示し、彼らと食事をし、酒を飲み、語り合った。宗教についても話した。というのも 「天皇様から、石州にゆくならば、津和野の預け人を見てこよ」と所望されたからである。この晩は司法的な取り調べもなく、改宗させようとする試みもなかった。「天皇様から、石州にゆくならば、津和野の預け人を見てこよ」と所望されたからである。福羽はただ彼らとともに陽気に過ごした。
??別れ際に、彼は御殿に出られなかった病人たちのために酒と肴をもたせ、また、東京に帰ったあとも金銭をたびたび彼らに授けた。」(鴎外の降誕祭)

元老論・続々ほか 2016/08/06(土) 01:45:00(キラーカーンさん)
>>ウィキには、伊藤氏が否定している桂太郎が入っていて、さらには「元老受命年月日」という奇妙なものまであるのですね。

実はウィキの記述が、現代での「通説」です。
つまり、元老とは
当初は、伊藤、黒田、山縣、松方、井上、西郷、大山の7人
追加された元老が西園寺及び桂の2人
合計9人を元老とするというものです。

桂については、「元老」としての期間が短期間で、天皇から下問を受ける機会が生起する前に
死去してしまったため、伊藤氏は桂を元老の列から「外した」ということです。

伊藤氏が『元老』で打ち立てた説は、「新説」で、現在では「一人説」と思われます。
ただし、伊藤氏は元老研究の第一人者であるので、伊藤氏の説という時点で

「一人説」であっても「有力説」

になると思われます。
で、ウィキの「元老受命年月日」はいわゆる「元勲優遇の勅語」を賜った年月日で
一般に「元老として公認された年月日」とされています。
この勅語は
1 首相を退任したとき(伊藤、黒田、山縣、松方、西園寺)
2 日露戦争直前に元老も「総力戦」に臨むため(井上)
3 天皇代替わりの際の「契約更新」(山縣、松方、井上、大山、桂、西園寺)
 (桂については、「2」も兼ねる。西園寺の「3」は昭和天皇即位時)
の場合に授かるのですが、その前提として「1」と「2」の場合には「無役」であること
が前提条件となります。で、結果的に、この1~3までの条件のいずれか1つでも満たす機会が
なかった西郷については、結局勅語を賜ることがなかったということです。

ということで、本来「元老受命年月日」ではなく

元老の地位が公に公示された年月日

というのが実情に近いと思われます。
(西郷のみならず、井上や大山も勅語をもらう前から元老であったのは周知の事実でしたから
 西園寺については、大正政変の余波もあり、元老として活躍するのは大正5年ころからといわれています)

更に言えば、ウィキの

>>佐々木隆は、山田が早世(中略)のため(中略)事実上の元老であった可能性を指摘している。
なお佐々木は、(中略)桂・西園寺を除いた7名と山田を加えた8名をもって帝国憲法下における
「薩長元勲」と位置づけている

の記述は、私の先の投稿の

>>内閣制度に関わった七人に黒田を加えた計八人の薩長有力者(40頁)

と事実上同じ意味です。つまり、本来的な意味は、その8名が「特別な政治家」であることを
示す「集合名詞」として「元老」が用いられるはずが、「元老」という語が定着する頃には
山田は鬼籍に入っていたので、まず、残りの7名が「元老」とされたということだと思います。
(その意味で、伊藤氏が元老の定義として「下問の有無」にこだわるのは失当であるというの
 が、先の私の投稿の趣旨です)

>>老中

については、「老(年寄)」の字には、執政者を意味も含まれているので、外国語でのウィキの解説は
ともかく、日本語としては、「老中」からの連想で「元老」としたのは「当たらずといえども」
といったところでしょう。
(類例として家老、若年寄という語があります。相撲の「年寄株」もその延長線上にあります)

>>君主無答責

「不敬の禁止」については、日本国憲法でも「象徴」という文言から「天皇としての尊重義務」
(≒「不敬の禁止」)を導出できるかというのは、一応、論点としては存在します。

「廃立の不能」については、まさに、生前譲位の禁止を意味するので、その点からも、
今回の陛下の「お気持ち」は、「近代天皇制」への挑戦となり得る(なる)ものです。

「公務に関する無答責」については、だからこそ「輔弼」という概念(他国の憲法では
「副署した大臣の責任」)は必要となり、そこから、「内閣が一致して上奏したものについては
朕の意に沿わぬものでも裁可せざるを得ない」という「立憲君主」としての振る舞いが生じます
で、君主の意向に従いたくない場合には、輔弼者は副署の拒否や辞職で対抗することになります
(輔弼者の輔弼に従うからこそ、君主は無答責であり、輔弼者がその責めを負うことになります)
日本国憲法では、天皇は「国政に関する機能を有さない」ので、そもそも君主無答責であることが
問題とならないのは、小太郎さんの先の投稿の通りです。
(「助言と承認」=輔弼と捉える説があるという文は見たことはあります)

>>例外を為すものは財産法
天皇・皇室への寄進や、天皇・皇室からの下賜ということは十分ありえますから
その場合に、君主無答責だからやりたい放題というのは、天皇制の自殺行為となるでしょうから
財産法については。天皇といえども・・・となるでしょう。

>>憲法99条(憲法尊重擁護義務)に「上皇」を加えなければならない

譲位を認めるなら、この論点は論ずるに値しますし、個人的には憲法改正して上皇を加え、
更に、「摂政については、退任後も同様とする」を付け加えるべきだと思います。
上皇や元摂政の立場で

天皇在位中や摂政在任中の国事行為・公的行為について、実は・・・

というような「回顧録」や「内幕暴露」などされた場合、それはそれで問題となるので
国家公務員の守秘義務のように「退任後」も何らかの縛りをかけるほうがよいと思います
ただ、憲法改正をしなくても、同様の結論を導く解釈は、憲法9条に比べると
遥かに簡単そうに思えますので、改正しなくてもあまり気にはなりまませんが、
「美しくない」とは思います。

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