投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月19日(金)10時14分9秒
朝日新聞記事で西村裕一氏が言及していた奥平康弘氏の天皇論、出典がありませんが、何を見ればよいのですかね。
ウィキペディアの著書一覧を眺めると、『「萬世一系」の研究―「皇室典範的なるもの」への視座』(岩波書店、2005年)あたりでしょうか。
奥平康弘(1929-2015)
>筆綾丸さん
>村垣範正の擬古文に興味を惹かれました(84頁~)
国務長官邸でのダンスの描写ですね。
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男はイボレット〔epaulet=肩章〕付け太刀を佩、女は両肩を顕し多くは白き薄ものを纏ひ、腰には例の袴のひろかりたるものをまとひ、男女組合て足をそはたて調子につれてめくることこま鼠の廻るか如く、何の風情手品もなく幾組もまはり女のすそには風をふくみいよいよひろかりてめくるさまいとおかし。是をダンスとて踊の事なるよし。
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ハワイ王妃の描写も見事です。(p141)
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しはしありて又最前の席に出る。手続前の如し。王の立し所に妃立たり。名はエレマ年頃二十四五、容顔色は黒しといへと品格おのつからあり。両肩をあらはし、薄ものを纏ひ乳のほとりをかくし、腰の方より末は美敷(うつくしき)錦の袴よふのものをまとひ、首には連たる玉の飾ありて、生けるあみた仏かとうたかふはかり。
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この後、歌を二首詠み、二首目は「御亭主はたすき掛なりおくさんは大はたぬきて珍客に逢ふ」だそうですから、村垣はなかなかのユーモアのセンスの持ち主ですね。
この歌を受けて、瀧井氏は「峻厳で堅物な村垣の気持ちをかように解きほぐすあたり、まことハワイは昔も今も日本人にとって憧れの楽園である」という一昔前の農協のおじさんみたいな感想を述べていますが、これはちょっとピント外れで、「峻厳で堅物な村垣」という評価自体を変えるべきでしょうね。
>悪代官のようなツラ
わはは。
学者の能力を顔で決める訳には行きませんが、あまり知識人っぽくないのは確かですね。
木村草太氏はいかにも頭の良さそうな美男子で、大川周明に似た、ある種危険な魅力すら感じさせますが、木村氏と共著『憲法学再入門』(有斐閣、2014)を出している西村裕一氏は、朝日新聞の記事を見ると何だか高校生みたいな風貌で、若干の不安を覚えます。
ま、顔はともかく、小林節氏の著作って、慶大関係者以外には殆ど読まれていないんじゃないですかね。
私も小林氏の学問的業績は全く知りませんが、少なくとも人徳のなさでは憲法学界有数の人のようです。
それでも政治運動ではとにかく声の大きい人が必要ですから、小林氏のような存在が前面に出てくるのでしょうね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
幕臣の優雅な擬古文 2016/08/18(木) 14:29:01
小太郎さん
『明治国家をつくった人びと』は、僭越ながら、良書ですね。
https://de.wikipedia.org/wiki/Johann_von_Chlumeck%C3%BD
https://www.wien.gv.at/wiki/index.php/Johann_Chlumeck%C3%BD
「明治立憲制の隠れた二人のアドバイザー」(236頁~)に関して、クルメツキ文書がなぜチェコ共和国のブルノ市に残されているのか、瀧井氏の著書ではわからず、ウィキなどをみてみました。
ウィキのクルメツキの兄の項に、
Er verlebte seine Jugend in Triest, Zara und Görz. Im Jahre 1837 zog er mit seinen Familie nach Brünn.
とあります。クルメツキはザダル(クロアチア)で生まれ(1834)、ゴリツィア(イタリア)を経て、三年後、一家はブルノに移住したのですね。クルメツキ家の故地でしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%8E
プラハ発ウィーン行きの電車は、途中、ブルノに停車しますが、昔、車中から、ここがクルト・ゲーデルの故郷か、と感慨に耽ったことがあります。メンデルやクンデラに関心はなかったのですが。
『明治国家をつくった人びと』では、主題と関係ないのですが、村垣範正の擬古文に興味を惹かれました(84頁~)。旗本の俊才は、余裕綽々というか、優雅な文体を駆使していたのですね。明治憲法の文体が、あのような擬古文であったならば、「国のかたち」もずいぶん変わっていたでしょうね。漢文調は居丈高でよくないものの、擬古文の憲法では列強の植民地になっていたかもしれませんが。
悪代官のようなツラが気に喰わず、小林節氏の著書には全く関心を持てません。
小太郎さん
『明治国家をつくった人びと』は、僭越ながら、良書ですね。
https://de.wikipedia.org/wiki/Johann_von_Chlumeck%C3%BD
https://www.wien.gv.at/wiki/index.php/Johann_Chlumeck%C3%BD
「明治立憲制の隠れた二人のアドバイザー」(236頁~)に関して、クルメツキ文書がなぜチェコ共和国のブルノ市に残されているのか、瀧井氏の著書ではわからず、ウィキなどをみてみました。
ウィキのクルメツキの兄の項に、
Er verlebte seine Jugend in Triest, Zara und Görz. Im Jahre 1837 zog er mit seinen Familie nach Brünn.
とあります。クルメツキはザダル(クロアチア)で生まれ(1834)、ゴリツィア(イタリア)を経て、三年後、一家はブルノに移住したのですね。クルメツキ家の故地でしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%8E
プラハ発ウィーン行きの電車は、途中、ブルノに停車しますが、昔、車中から、ここがクルト・ゲーデルの故郷か、と感慨に耽ったことがあります。メンデルやクンデラに関心はなかったのですが。
『明治国家をつくった人びと』では、主題と関係ないのですが、村垣範正の擬古文に興味を惹かれました(84頁~)。旗本の俊才は、余裕綽々というか、優雅な文体を駆使していたのですね。明治憲法の文体が、あのような擬古文であったならば、「国のかたち」もずいぶん変わっていたでしょうね。漢文調は居丈高でよくないものの、擬古文の憲法では列強の植民地になっていたかもしれませんが。
悪代官のようなツラが気に喰わず、小林節氏の著書には全く関心を持てません。