学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

公家ではない歌道家

2016-08-22 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月22日(月)21時23分36秒

>筆綾丸さん
>「第五章 明治憲法の確立 一九〇七年の憲法改革」
このあたり、伊藤と山県の関係もずいぶん微妙ですね。
瀧井氏の『伊藤博文』は一応最後まで読んでみましたが、明治政治史の基礎知識が乏しい私には若干難しい本でした。
先に伊藤之雄氏の『伊藤博文─近代日本を創った男』を読んでおいた方が良かったな、と思って同書を入手し、読んでいる途中です。

>有賀長雄
ウィキペディア記事に「父:有賀長隣 - 有賀家7代目当主、高踏派歌人」とあったので、この名前を手掛りに検索してみたら、水垣久氏の「千人万首」、「有賀長伯」の項目が出てきました。
有賀家は公家の出自ではないものの、大阪で代々、二条派和歌の歌道家として続いた珍しい家柄なんですね。
それにしてもウィキペディアの「高踏派」はちょっと妙な感じがします。

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有賀長伯(1661-1737)

寛文元年(1661)、京都の医家に生れる。家業を嫌って家を出、住吉の平間長雅(松永貞徳門の望月長孝の門弟)に入門し和歌・和学を学ぶ。二条派(藤原為家の子為氏を祖とし、近世まで正統と見なされた流派)の歌風を信奉し、その立場から多くの和歌啓蒙書を著して世に知られた。つねづね全国の名所旧蹟を訪ね歩き、『歌枕秋の寝覚』を著わす。晩年は大坂に住んだという。多数の門人を抱え、伴蒿蹊もその一人。元文二年(1737)六月二日、没。七十七歳。墓地は大阪高津の正法寺。子の長川(のち長因に改名)が歌道家を継ぎ、その後、長収・長基・長隣と明治時代に至るまで有賀家は旧派和歌の伝統を伝えた。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

一九〇七年の憲法改革 2016/08/20(土) 16:42:20
瀧井氏『伊藤博文』の「第五章 明治憲法の確立 一九〇七年の憲法改革」は、この書の白眉とも言え、興味深い内容ですね。一部を引用します。
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 調査局は皇室典範増補が公布された二月一一日をもって廃止されるが、以後、皇室会議令(一九〇七年)、登極令、摂政令、立儲令(以上、一九〇九年)、皇族身位令、皇室親族令、皇室財産令(以上、一九一〇年)、皇室会計令(一九一二年)などの皇室の基本立法が皇室令として陸続として制定・公布される。言うならばこの一九〇七年という年、「帝国憲法を最高規範とする「政務法」の系統と、皇室典範を最高法規とする「宮務法」の系統という、二元的な憲法秩序が出現した」(大石眞『日本憲法史』〔第二版〕、二九一頁)のである。
 以上のように、一九〇七年という年は、明治典憲体制がその外観を確立したという意味で、法制史上重要な画期をなす。大石眞氏は、憲法の改正がなされずとも、「通常の議会制定法である憲法附属法の改廃によって憲法秩序を変える」ことがあるとして、それに「憲法改革」の語をあてがわれている(大石眞『憲法秩序への展望』)。帝室制度調査局は、まさに明治の時期にこの憲法改革に取り組んだ試みとして評価できよう。(210-211頁)

帝室制度調査局の改革は、途中中断を挟みながら、一九〇七年に成果を出す。通常、そこでは従来の憲法を戴く政務法の体系とならんで、皇室令という法令形式の成立に伴う宮務法の体系が造出され、憲法と皇室典範の二元的国法秩序(典憲体制)が確立したと説かれる。だが、他方で、国家秩序の実態として伊藤総裁が構想していたのは、内閣による一元的な国家統治であった。そのために伊藤は、伊東巳代治や有賀を駆使して公式令の制定と内閣官制の改正を行ったのである。
 だが、この構想は陸軍の反発を招き、これまでの帷幄上奏権を制度化した「軍令に関する件」が定められ、もうひとつの法令形式としての軍令が誕生することになった。調査局による一九〇七年(明治四〇)の憲法改革は、表層的には、政務法および宮務法とならんで、軍令の体系としての軍務法の三元体制を期せずしてもたらしたと言える。(241頁)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E7%9C%9E
「憲法改革」という用語をあてたとき、現行憲法第9条をめぐる諸々の事情が大石氏の脳裡を掠めたのかしらん、と思いました。さらに、典憲軍の三元体制という用語の連想から、似て非なるものながら、権門体制を思い浮かべました。主要なテーマと無関係で恐縮ですが。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%B3%80%E9%95%B7%E9%9B%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%B3%80%E5%B9%B8%E4%BD%9C
有賀長雄ですが、瀧井氏は「ありが」とされ(213頁)、伊藤之雄氏は「あるが」とされていますが(『伊藤博文』講談社学術文庫619頁)、どちらの読み方がいいのでしょうね。戦艦大和の最後の艦長である有賀幸作は、出身地からすれば、「あるが」のようですね。
コメント
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