学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「巻五 内野の雪」(その7)─後嵯峨院、鳥羽殿・吹田御幸

2018-01-10 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月10日(水)18時03分2秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p260以下)
宇治に続き、改修した鳥羽殿への御幸の話になります。

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 鳥羽殿も近頃はいたう荒れて、池も水草がちに埋もれたりつるを、いみじう修理し磨かせ給ひて、はじめて御幸なりし時、「池の辺の松」といふこと講ぜられしに、大きおとど序かき給へりき。

  祝ひ置くはじめと今日をまつが枝の千年のかげにすめる池水

院の御製、

  影映す松にも千代の色みえて今日すみそむる宿の池水

大納言の典侍と聞えしは、為家の民部卿の娘なりしにや。

  色かへぬ常盤の松のかげそへて千代に八千代にすめる池水

ずん流るめりしかど、例のうるさければなん。御前の御遊び始まる程、そり橋のもとに龍頭鷁首よせて、いとおもしろく吹きあはせたり。かやうの事、常の御遊び、いとしげかりき。
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「鳥羽殿」は白河院(1053-1129)が造った離宮ですね。
修造後「はじめて御幸なりし時」とは宝治二年(1248)八月二十九日です。(『百錬抄』)
「大きおとど」は太政大臣・西園寺実氏で、「大納言の典侍」は藤原為家(1198-1275)の娘で、定家(1162-1241)の孫の歌人ですね。
「ずん流るめりしかど、例のうるさければなん」は例によって語り手の老尼がちょっと登場している場面で、「順々に歌が多くあったようだが、わずらわしいので例の如く省略する」という意味です。
さて、鳥羽殿に続いて、西園寺家の摂津「吹田の山荘」への御幸の話になります。

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 又、大きおとどの津の国吹田の山荘にもいとしばしばおはしまさせて、さまざまの御遊び数を尽し、いかにせんともてはやし申さる。河にのぞめる家なれば、秋ふかき月のさかりなどは、ことに艶ありて、門田の稲の風になびく気色、つまとふ鹿の声、衣うつ砧の音、峰の秋風、野辺の松虫、とり集めあはれそひたる所のさまに、鵜飼などおろさせて、かがり火どもともしたる川のおもて、いとめづらしう、をかしと御覧ず。日頃おはしまして、人々に十首の歌召されしついでに、院の御製、

  川舟のさしていずくか我がならぬ旅とはいはじ宿と定めん

と講じあげたる程、あるじの大臣いみじう興じ給ふ。「この家の面目、今日に侍る」とぞのたまはする。げにさることと聞く人みなほこらしくなん思ひ給へる。
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ここも後嵯峨院の御製に西園寺実氏が「この家の面目は今日が一番です」と感激するということで、結局は西園寺家の栄華話のひとつです。
『百錬抄』によれば「吹田の山荘」に最初の後嵯峨院御幸があったのは建長三年(1251)閏九月十七日なので、実際には鳥羽殿御幸とは時間的な隔たりがありますね。
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「巻五 内野の雪」(その6)─後嵯峨院、石清水御幸

2018-01-10 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月10日(水)17時45分12秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p256以下)

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 上はいつしか所々に御幸しげう、御遊びなどめでたく、今めかしきさまに好ませ給ふ。中宮も位さり給ひて、大宮女院とぞ聞ゆる。やすらかに常は一つ御車などにて、ただ人のやうに花やかなる事どものみひまなく、よろづあらまほしき御有様なり。院の上、石清水の社に詣でさせ給へば、世の人残りなくつかうまつる。さるべき事とはいひながら、なほいみじ。御心にも一年の事おぼし出でられて、ことにかしこまり聞えさせ給ふべし。

  石清水こがくれたりしいにしへを思ひ出づればすむ心かな
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中宮は宝治二年(1248)六月、院号宣下があって大宮院となります。
後嵯峨院が「御心にも一年〔ひととせ〕の事おぼし出でられて」というのは、夢に「椿葉の影ふたたびあらたまる」と聞いたという話ですね。
歌は「岩間の清水が木隠れに流れて誰にも知られないような身だった昔、この石清水社に詣でて神託を賜ったことを思い出すと、有難さに我が心は清く澄んでくる」といった意味で、『続古今集』巻七・神祇に入集しています。

「巻四 三神山」(その2)─承明門院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b30a619207c3fdaa00cde48035428776

さて、この先、後嵯峨院の華やかな遊宴御幸の話が続きます。

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 宝治の頃、神無月廿日余りなりしにや、紅葉御覧じに宇治に御幸し給ふ。上達部・殿上人思ひ思ひ色々の狩衣、菊・紅葉の濃き薄き、縫物・織物・綾錦、すべて世になききよらを尽し騒ぐ。いみじき見物なり。殿上人の舟に楽器まうけたり。橘の小島に御船さしとめて、物の音ども吹きたてたる程、水の底も耳たてぬべく、そぞろ寒き程なるに、折しり顔に空さへうち時雨れて、真木の山風あらましきに、木の葉どもの色々散りまがふ気色、いひ知らずおもしろし。女房の船に色々の袖口、わざとなくこぼれ出でたる、夕日にかかやきあひて、錦を洗ふ九の江かと見えたり。平等院に中一日渡らせ給ひて、さまざまのおもしろき事ども数しらず。網代に氷魚のよるも、さながらののしりあかして帰らせ給ふ。
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「物の音ども吹きたてたる程、水の底も耳たてぬべく、そぞろ寒き程なるに」のあたり、なかなかの名文ですね。

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『弁内侍日記』と岩佐美代子氏

2018-01-10 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月10日(水)11時33分0秒

ここでちょっと脱線しますが、『弁内侍日記』は女房としての公的な職務を誇りと責任感を持って勤めていた宮廷女性の明るくユーモラスな日記です。
『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』で『弁内侍日記』を担当されている岩佐美代子氏の訳は実に生き生きとしていて、読んでいて本当に楽しいですね。
岩佐氏の解説から作者の部分を引用すると、

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後深草院の女房、弁内侍。歌人、画家として知られる藤原信実の女〔むすめ〕。祖父隆信は藤原定家の異母兄に当り、新古今歌人であると同時に、高雄神護寺像平重盛像等の筆者と伝えられる似絵の大家である。母は未詳であるが、同腹と思われる姉妹に藻璧門院少将・後深草院少将内侍があり、「みなよき歌よみ」と『井蛙抄』にたたえられている。生没年未詳。安貞元年~寛喜元年(一二二七-二九)頃出生か。寛元元年(一二四三)後深草天皇立太子の時「弁」の名で出仕し、同四年践祚により内侍となり、正元元年(一二五九)退位まで十七年間奉仕した。以後は宮仕えを退いたと思われ、文永二年(一二六五)妹少将内侍の死去により出家、続いて父信実、姉藻璧門院少将とも死別した。従二位法性寺雅平との間に女子(新陽明門院中納言)を生んでいるが、その時期は明らかでない。晩年は比叡山横川の北麓、仰木の山里にこもった。『実材母集』に建治三年(一二七七)の贈答歌が見えるので、その頃(五十歳ぐらい)までの生存は確認される。
 宝治二年(一二四八)百首を詠進、『続後撰集』以下の勅撰集に四十五首入集、本日記・諸歌合・私撰集類等の所載歌を合せ、約四百首が知られるほか、連歌の名手で『菟玖波集』に十三句入っている。
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ということで(p144)、「安貞元年~寛喜元年(一二二七-二九)頃出生」とすると、寛元元年に初出仕したときは十五から十七歳、前回投稿で紹介した「内野の雪」関連の歌を詠んだのは十八からニ十歳ということになります。
『弁内侍日記』はどこを読んでも面白いのですが、私が特に好きなのは前回投稿で引用した部分の直後、「吉田の使(つかひ)」の場面ですね。(p154)

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 十七日、雪なほいと深う積りしに、吉田の使に立ちて、帰さに、主基方の女工所の事がらゆかしくて、「そなたざまへやれ」と申し侍りしかば、公役<ためもち・かねとも>、六位の車の供の者なども、夜更けて遥かに廻らん事、かなふまじき由申し侍りしかども、せめて尋ねまほしさに、「吉田の使の帰りには、必ず女工所へ立ち入る式にてあるぞ」と申し侍りしかば、「まことにさる先例ならば」とて、はるばると尋ね行きたりしに、衛士が門をおそく開け侍りしに、「今に初めたる事か。吉田使の帰さに内侍の入らせ給ふに、事新しく開けもまうけぬか」と、荒らかに諌め申し侍りしも、かやうの事や先例にもなり侍らんとをかしくて、弁内侍、
  とはましや積れる雪のふかき夜にこれも昔の跡と言はずは
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岩佐氏の訳は、

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 十七日、雪はまだ大変深く積もっていたのに、吉田神社の使に参って、帰りに主基方の女工所の様子が気になるので、「そちらへ行って下さい」と言ったら、公役ためもち・かねとも、車の供をする六位どもなども、夜更けに遠い回り道はできないと反対した。しかし、どうしても行きたかったので、「吉田の使の帰りには、必ず女工所へ立ち寄るきまりになっているのよ」と言ったものだから、「本当にそういう先例なら」と言って、はるばる訪ねて行ったのに、女工所の衛士が門を開けるのに手間取ったので、「今に始まったことか。吉田使の帰りには内侍がここに来られるに決っているのに、今更らしくまごついて。なぜちゃんと開けて待っていないのか」と荒々しく叱り飛ばしたのも、こんなことが先例になっていくのだろうとおかしくて、弁内侍、
  とはましや……(こんなに雪の積った真夜中に、勝手に
  女工所を訪ねるなんて、できるかしら。これも昔からの
  先例であると偉そうに言わなかったら)
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というもので、なるほど、確かにこうして出来た先例が結構あるのかも、と笑ってしまいますね。
岩佐美代子氏は父方の祖父が法学者・穂積陳重、父方の祖母が渋沢栄一の娘、母方の祖父が陸軍大将・児玉源太郎という近代日本有数の名門家庭、というか法律・経済・軍事の異質な知性が交わった知的環境に生まれた人で、御自身も昭和天皇の第一皇女・照宮成子内親王に「宮仕え」したという非常に珍しい経験の持ち主ですね。
幼いときの「宮仕え」で、時代は異なるとはいえ、宮中という特別な世界で人間観察をした経験が中世女流日記研究にも相当役立っておられるようです。

岩佐美代子(1926-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E4%BD%90%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90
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「巻五 内野の雪」(その5)─少将内侍(藤原信実女)

2018-01-10 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月10日(水)10時08分41秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p253以下)
この場面に出てくる少将内侍の歌から巻名「内野の雪」が採られています。

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 かくて御即位、御禊も過ぎぬ。大嘗会の頃、信実の朝臣といひし歌よみの娘、少将内侍、大内の女工所にさぶらふに、雪いみじう日頃降りて、いかめしう積もりたる暁、大きおとど実氏のたまひ遣しける。

  九重の大内山のいかならん限りもしらず積もる雪かな

御返し、少将内侍、

  九重の内野の雪に跡つけて遙かに千代の道を見るかな
-------

「女工所」(にょくどころ)とは大嘗会に用いる装束を調製するため、臨時に設けられる行事所で、悠紀方・主基方、それぞれ内侍が預(あずかり、主任)になります。
「信実の朝臣といひし歌よみ」は画家としても著名な藤原信実(1177-1265)のことで、『増鏡』には隠岐へ流される後鳥羽院が母の七条院へ贈る自分の肖像画を描かせた人として登場しています。

「巻二 新島守」(その7)─九条廃帝(仲恭天皇)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8111effe1a7eac3ee2ee79a29d92cb46

さて、この場面は、妹の少将内侍とともに後深草天皇に女房として仕えた弁内侍の日記から引用したものですが、『弁内侍日記』では次のように記されています。(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、小学館、1994、p153以下)

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 十四日の夜、少将内侍、女工所へ渡り居て、心地なほわびしくて侍りければ、何事も知らで臥したるに、暁方、遥かより雪深きを分け入る沓の音の聞ゆるにおどろきて、心地をためらひて、やをら起き上がりて聞けば、「大宮大納言殿より」と言ふ。声につきて妻戸を押し開けたれば、いまだ夜は明けぬものから、雪に白みたる内野の景気、いつの世にも忘れがたく、面白しと言へばなべてなり。御文開けて見れば、
  九重や大内山のいかならん限りも知らず積る白雪
返し、少将内侍、
  九重の内野の雪にあとつけて遥かに千代の道を見るかな
 その雪の朝、少将内侍のもとより、
  九重に千代を重ねて見ゆるかな大内山の今朝の白雪
返事、弁内侍、
  道しあらん千代のみゆきを思ふにはふるとも野辺のあとは見えなん
-------

岩佐美代子氏の訳は、

-------
 その十四日夜、少将内侍は女工所に詰めていて、気分がまだ悪いので何もかも打ち捨てて寝ていると、明け方、遠くから雪深い中を踏み分けて来る沓の音が聞こえるので目をさまし、具合の悪いのを我慢してそっと起き上がって聞くと、「大宮大納言殿からのお手紙」と言う。声を頼りに妻戸を押し開けると、まだ夜は明けないが雪明りで白々と見える内野の風情が、いつまでも忘れられないだろうほどに面白いとも何とも言いようがない。お手紙を開けて見ると、
  九重や……(宮中の古い歴史を残す大内裏の様子はどんなでしょう。
  限りなく降り積もる白雪に、その神々しさが想像されます)
返し、少将内侍、
  九重の……(幾重にも積る内野の雪を踏み分けてお訪ね下さった御使
  の足跡によって、何千年も続く正しい政〔まつりごと〕の道を、目の
  前に見る思いがいたします)
 その雪の朝、少将内侍の所から、
  九重に……(ここ、古い宮廷の跡に、我が君の千代の御栄えを重ねる
  ように見えますよ、大内裏の今朝の白雪は)
返事、弁内侍、
  道しあらん……(正しい政道をもって千年も続くであろう御代初めの
  行幸と思えば、雪はいくら降っても内野に通う道の跡は明らかに見え
  ましょう)
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ということで、名訳ですね。
ここに出てくる「大宮大納言」は西園寺公相(1223-67)で、寛元四年(1246)には二十四歳ですね。
しかし、『増鏡』では公相を勝手に父親の実氏(1194-1269)に代えてしまっています。
公相の歌も、最後の「積る白雪」を「積もる雪かな」に変えていますね。

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