続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p260以下)
宇治に続き、改修した鳥羽殿への御幸の話になります。
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鳥羽殿も近頃はいたう荒れて、池も水草がちに埋もれたりつるを、いみじう修理し磨かせ給ひて、はじめて御幸なりし時、「池の辺の松」といふこと講ぜられしに、大きおとど序かき給へりき。
祝ひ置くはじめと今日をまつが枝の千年のかげにすめる池水
院の御製、
影映す松にも千代の色みえて今日すみそむる宿の池水
大納言の典侍と聞えしは、為家の民部卿の娘なりしにや。
色かへぬ常盤の松のかげそへて千代に八千代にすめる池水
ずん流るめりしかど、例のうるさければなん。御前の御遊び始まる程、そり橋のもとに龍頭鷁首よせて、いとおもしろく吹きあはせたり。かやうの事、常の御遊び、いとしげかりき。
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「鳥羽殿」は白河院(1053-1129)が造った離宮ですね。
修造後「はじめて御幸なりし時」とは宝治二年(1248)八月二十九日です。(『百錬抄』)
「大きおとど」は太政大臣・西園寺実氏で、「大納言の典侍」は藤原為家(1198-1275)の娘で、定家(1162-1241)の孫の歌人ですね。
「ずん流るめりしかど、例のうるさければなん」は例によって語り手の老尼がちょっと登場している場面で、「順々に歌が多くあったようだが、わずらわしいので例の如く省略する」という意味です。
さて、鳥羽殿に続いて、西園寺家の摂津「吹田の山荘」への御幸の話になります。
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又、大きおとどの津の国吹田の山荘にもいとしばしばおはしまさせて、さまざまの御遊び数を尽し、いかにせんともてはやし申さる。河にのぞめる家なれば、秋ふかき月のさかりなどは、ことに艶ありて、門田の稲の風になびく気色、つまとふ鹿の声、衣うつ砧の音、峰の秋風、野辺の松虫、とり集めあはれそひたる所のさまに、鵜飼などおろさせて、かがり火どもともしたる川のおもて、いとめづらしう、をかしと御覧ず。日頃おはしまして、人々に十首の歌召されしついでに、院の御製、
川舟のさしていずくか我がならぬ旅とはいはじ宿と定めん
と講じあげたる程、あるじの大臣いみじう興じ給ふ。「この家の面目、今日に侍る」とぞのたまはする。げにさることと聞く人みなほこらしくなん思ひ給へる。
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ここも後嵯峨院の御製に西園寺実氏が「この家の面目は今日が一番です」と感激するということで、結局は西園寺家の栄華話のひとつです。
『百錬抄』によれば「吹田の山荘」に最初の後嵯峨院御幸があったのは建長三年(1251)閏九月十七日なので、実際には鳥羽殿御幸とは時間的な隔たりがありますね。