投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月22日(月)19時08分8秒
続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p70以下)
-------
西園寺の女御も、さし続きて参り給ふを、いかさまならんと御胸つぶれて思せど、さしもあらず。これ九つにぞなり給ひける。冷泉の大臣<公相>の御女なり。大宮院の御子にし給ふとぞ聞えし。いづれも離れぬ御中に、いどみきしろひ給ふ程、いと聞きにくきこともあるべし。宮仕ひのならひ、かかるこそ昔人はおもしろくはえあることにし給ひけれど、今の世の人の御心どもも、あまりすくよかにて、みやびをかはすことのおはせぬなるべし。
-------
西園寺家も洞院実雄の動きを傍観していた訳ではなく、弘長元年(1261)六月、左大臣・西園寺公相(1223-67)の娘、嬉子(1252-1318)を入内させ、その際には嬉子を「大宮院の御子」、即ち亀山天皇の母親、大宮院の猶子という形にしたとのことです。
「これ九つにぞなり給ひける」とありますが、入内の時点では正確には十歳ですね。
さて、「いかさまならんと御胸つぶれて思せど」(どうなることかと御心配になられた)の主体は洞院実雄ですが、「いずれも離れぬ御中に」以下は少し意味が取りにくいですね。
井上氏の訳によると、「どなたも深い血縁関係であるのに、おたがいに競い争われるということで、たいそう聞きにくいこともあるだろう。宮中にお仕えする習いとて、こういう競争こそ、昔の人は(風流で)おもしろくも花々しいことになさったが、今の世の人は御心などもあまりに無骨で、風雅を競いあうということがおありにならないのであろう」(p71)とのことです。
-------
これも后に立ち給へば、もとの中宮はあがりて、皇后宮とぞ聞え給ふ。今后は遊びにのみ心入れ給ひて、しめやかにも見え奉らせ給はねば、御覚え劣りざまに聞ゆるを、思はずなることに世の人もいひ沙汰しける。父大臣も心やましく思せど、さりともねび行き給はば、とただ今はうらみ所なく思しのどめ給ふ。
-------
西園寺嬉子は弘長元年(1261)六月十四日に入内、二十日女御、八月二十日中宮となり、中宮だった洞院佶子は皇后となります。
二人の関係は後堀河天皇(1212-34)の時代の三条有子(安喜門院、1207-86)、近衛長子(鷹司院、1218-75)、九条竴子(藻璧門院、1209-33)の関係、即ち権勢を握った者が自分の娘を入内させると先行の中宮が皇后となって宮中を退去するというパターンを連想させますが、洞院佶子の場合は皇后となっても退去することはなく、時代の変化、ないし後嵯峨院・亀山天皇の個性の強さを感じさせます。
嬉子は亀山天皇との相性が良くなかったようで、後に父・公相が死去して、その服喪を理由に宮中を退去すると再び戻ることはありませんでした。
文永五年(1268)十二月、十七歳で女院号宣下があって今出河院となり、文保二年(1318)に六十七歳で死去ですから、宮中を出てからの人生がずいぶん長いですね。
「巻三 藤衣」(その2)─安喜門院・鷹司院・藻璧門院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d8d999f1434a5680309b35430d0b0619
西園寺嬉子(1252-1318)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AC%89%E5%AD%90
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月22日(月)12時44分29秒
続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p67以下)
-------
よろづのことよりも、女御の御さまかたちのめでたくおはしませば、上も思ほしつきにたり。女は十六にぞなり給ふ。御門は十二の御年なれど、いとおとなしくおよすけ給へれば、めやすき御程なりけり。かの下くゆる心ちにも、いと嬉しきものから、心は心として、胸のみ苦しきさまされば、忍びはつべき心地し給はぬぞ、ついにいかになり給はんと、いとほしき。程なく后立ちありしかば、大臣心行きて思さるること限りなし。
-------
何よりも女御の御容姿が優れていらっしゃるので、亀山天皇も深く愛された。女御は十六歳で天皇は十二歳だが、とても大人びていらっしゃるので、似合いの御仲であった。あの下でいぶっている火のような公宗中納言のお気持ちも、妹が帝の寵愛を受けるのは嬉しいものの、それはそれとして、胸の中は苦しさは募るばかりで、将来、ずっと我慢していられるとも思えず、結局どうなることかとお気の毒である。間もなく立后の儀もあったので、実雄公は非常に満足されたのであった。
ということで、佶子は文応二年(弘長元年、1261)二月八日、中宮となります。
『増鏡』は後深草天皇と西園寺公子の年齢差にはずいぶん厳しかったのに、亀山天皇と洞院佶子の年齢差には甘いですね。
ま、前者は十一歳、後者は四歳ではありますが。
「巻六 おりゐる雲」(その1)─女御入内(西園寺公子)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6923413073fbd722365aa088e6a8b51d
さて、『増鏡』は公宗の不吉な将来を暗示はするものの、具体的には書きません。
公宗は弘長三年(1263)三月二十一日、二十三歳であっさり死んでしまいますが、『公卿補任』弘長三年には、
-------
権中納言正三位 藤公宗(二十三)
二月十九日従二位(朝覲行幸。左大臣院司賞譲)。三月廿一日薨(腫物所労。廿三歳)
-------
とあります。
父親の左大臣・実雄が朝覲行幸の賞を公宗に譲ったため、正三位から従二位に昇進したばかりだったのに、その一ヵ月後に亡くなってしまった訳ですが、直接の死因は「腫物」であり、病死ですね。
なお、実雄には「三月廿日上表」とあり、公宗の死の前日、実雄は左大臣を辞しています。
このときはまだ四十七歳ですが、以後はずっと散位で、文永十年(1273)八月四日に出家し、同十六日に五十七歳で死去していますね。
洞院実雄(1219-73)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%AE%9F%E9%9B%84
さて、公宗・佶子の話は私の定義する「愛欲エピソード」の初例なので少し丁寧に紹介してきましたが、これから先は適宜省略して進めます。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月22日(月)11時27分20秒
続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p67以下)
-------
十月廿二日参り給ふ儀式、これもいとめでたし。出車十両、一の車左は大宮殿、二位中将基輔の女とぞ聞えし。二の左は春日、三位中将実平の女。右は新大納言、この新大納言は為家の大納言の女とかや聞えし。それよりも下、ましてくだくだしければむつかし。御雑仕、青柳・梅が枝・高砂・貫川といひし、この貫川を、御門忍びて御覧じて、姫宮一所出でものし給ひき。その姫宮は、末に近衛の関白<家基>の北の政所になり給ひにき。
-------
文応元年(1260)十月二十二日、佶子の入内の儀式は、これも大変立派だった。出車(いだしぐるま)は十両で、一の車、左は大宮殿、二位中将基輔の娘ということであった。二の車、左は春日、三位中将実平の娘。右は新大納言で、この人は為家大納言の娘とかいうことであった。それより下は煩雑なので省略する。御雑仕は青柳・梅が枝・高砂・貫川といった人々だったが、この貫川を亀山天皇はこっそり御寵愛になって、姫宮が一人お生まれになった。この姫宮は後に関白・近衛家基の北の政所になられた。
ということで、「それよりも下、ましてくだくだしければむつかし」は例によって語り手の老尼がちょこっと登場している場面です。
さて、「二位中将基輔」は猪隈関白・近衛家実の弟、家経の息子で、『公卿補任』寛元三年(1245)に四十八歳で死去とありますから、建久九年(1198)の生まれですね。
摂関家の人ではありますが、死去した年でも「非参議従二位 左中将」ですからそれほどの存在でもなく、要は近衛家の傍流です。
この程度の人の娘が「出車十両」のうちの「一の車左」というのは、ちょっと妙な感じがしないでもありません。
また、「三位中将実平」は「浄土寺相国」三条公房の息子で、『公卿補任』正嘉元年(1257)に六十一歳で出家とありますから、建久八年(1197)の生まれですね。
この人も出家の年に「非参議正三位 左中将」で、三条家の傍流です。
具体的に名前が挙がっている女性の父親が近衛基輔・三条実平程度なので、西園寺公子(東二条院)の女御入内の場面に比べると貧弱な感じは否めないですね。
「巻六 おりゐる雲」(その1)─女御入内(西園寺公子)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6923413073fbd722365aa088e6a8b51d
ちょっと奇妙なのは、老尼は出車に乗るような身分の女性について、「それよりも下、ましてくだくだしければむつかし」と言いながら、その直後に遥かに下の身分の雑仕(ざふし、宮中で雑役に従事した下級女官)四名の名前を列挙した上で、最後の「貫川」について妙に詳しい情報を提供している点です。
この程度の身分の女性の具体的な名前が出てくるのは、やはりこの場面が『増鏡』で最初になりますが、実はこの「貫川」は「巻十 老の波」に再び登場するので、『増鏡』作者にとってよほど興味をそそられた存在のようです。
また、佶子入内という洞院家にとって非常に目出度い場面の中に、何故に『増鏡』の作者は亀山天皇がこっそり雑仕女を寵愛して子供を産ませたというような不愉快な話を挿入するのか、その意図も些か不審です。
なお、関白・近衛家基(1261-1296)は佶子入内の翌年の生まれですから、「姫宮」が家基の正室になるのはずいぶん先の話です。
『尊卑分脈』を見ると、家基の子の経平(1287-1318)の母が「亀山院皇女」となっており、おそらくこの人が貫川の生んだ「姫宮」ですね。
『増鏡』には近衛家基の関係者についての「愛欲エピソード」が豊富に記載されており、家基の嫡子、岡本関白・近衛家平(1282-1324)の男色話は既に紹介しました。
近衛家平の他界
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2240db7a9c314fc232730a9e5fffc723
また、近衛家基の妹で、亀山院女御の位子(新陽明門院、1262-96)についても、その不行跡が「巻十一 さしぐし」に描かれています。
更に家基の父の深心院関白・基平(1246-1268)の姉・宰子(1241-?)は鎌倉幕府第六代将軍・宗尊親王の室で、宰子が松殿良基と密通したことが宗尊の追放の原因となった女性ですが、その宰子の娘で家基にとっては従姉妹にあたる掄子女王は亀山院の後宮に入ります。
そして、掄子女王と六条有房(村上源氏、後深草院二条の従兄弟)の情事が、やはり「巻十一 さしぐし」に詳細に描かれています。
近衛家は『増鏡』において、ちょっと特殊な扱いを受けているように感じられるのですが、そのあたりの事情は後で具体的に検討します。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月22日(月)09時34分30秒
続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p57以下)
-------
この姫君の御兄あまた物し給ふ中のこのかみにて、中納言公宗と聞ゆる、いかなる御心かありけん、下たくけぶりにくゆりわび給ふぞ、いとほしかりける。さるは、いとあるまじきことと思ひはなつにしも、したがはぬ心の苦しさ、おきふし、葦のねなきがちにて、御いそぎの近づくにつけても、我かの気色にてのみほれ過ぐし給ふを、大臣は又いかさまにかと苦しう思す。
-------
この姫君(佶子)の一番上の兄で、中納言公宗と申す方は、どういう御心があったものか、(上に燃え上らず)下でいぶっている火のように悩んでおられるのは、お気の毒であった。そういう(兄が妹を恋うなどという)ことは、本当にあってはならないことと思い切ろうとしても諦められない心の苦しさから、起きていても寝ていてもひたすら泣いていることが多く、妹君の入内の御支度が近づくにつけても、我を失って呆然と過ごされるのを、父実雄公は、これはまたどうしたことだ、と苦しく思われる。
ということで、公宗(1241-63)は佶子(1245-72)より四歳上、母はともに「法印公審女、従二位栄子」です。(『尊卑分脈』)
-------
初秋風けしきだちて、艶ある夕暮に、大臣渡り給ひて見給へば、姫君、薄色に女郎花などひき重ねて、几帳に少しはづれてゐ給へるさまかたち、常よりもいふよしなくあてに匂ひみちて、らうたく見え給ふ。御髪いとこちたく、五重の扇とかやを広げたらんさまして、少し色なる方にぞ見え給へど、筋こまやかに額より裾までまよふすぢなく美し。ただ人にはげに惜しかりぬべき人柄にぞおはする。
-------
初秋風が吹き始め、優美な夕暮れに実雄公がいらっしゃってご覧になると、姫君が薄色の上着におみなえし襲の袿をひき重ねて、几帳から少し離れてすわっておられるご容姿は、いつにも増して何ともいえず上品で美しく、可愛らしい。御髪もとても豊かで、五重の扇とかいうものを広げたような様子で、少し赤みを帯びていらっしゃるようにも見えるが、毛筋が細やかで、額から毛の先までくせもなく美しい。確かに普通の人の妻には惜しいようなお人柄である。
ということで、佶子が大変な美人であることが強調されます。
-------
几帳おしやりて、わざとなく拍子うちならして、御ことひかせ奉り給ふ。折しも中納言参り給へり。「こち」とのたまへば、うちかしこまりて、御簾の内にさぶらひ給ふさまかたち、この君しもぞ又いとめでたく、あくまでしめやかに心の底ゆかしう、そぞろに心づかひせらるるやうにて、こまやかになまめかしう、すみたるさまして、あてに美し。いとどもてしづめて、騒ぐ御胸を念じつつ、用意を加へ給へり。
-------
実雄公は几帳を脇に押しやって、わざとらしくなく拍子をとって、姫君に御箏を弾かせ申し上げる。ちょうどその時、公宗中納言も参られた。実雄公が「こちらへ」とおっしゃると、かしこまって御簾の中にいらっしゃる中納言の御容姿もとても立派で、しっとりと落ち着き、御心のうちを知りたくなるくらいで、このお方の前では誰でも何となく気がおけてしまうという御様子で、細やかであでやかで、洗練されていて、上品で美しい。中納言は一段と心を鎮め、騒ぐ胸を抑えて、自分の気持ちが外に現れないように注意深く振る舞われる。
ということで、妹が大変な美人なら兄も大変な美男子で、素晴らしい兄妹なのだそうです。
-------
笛少し吹きならし給へば、雲ゐにすみのぼりて、いとおもしろし。御ことの音ほのかにらうたげなる、かきあはせの程、なかなか聞きもとめられず、涙うきぬべきを、つれなくもてなし給ふ。撫子の露もさながらきらめきたる小袿に、御髪はこぼれかかりて、少し傾きかかり給へるかたはら目、まめやかに
光を放つとはかかるをや、と見え給ふ。よろしきをだに、人の親はいかがは見なす。ましてかくたぐひなき御有様どもなめれば、よにしらぬ心の闇にまどひ給ふも、ことわりなるべし。
-------
中納言が笛を少し吹き鳴らされると、その音が空高く澄み上がって、大変趣がある。姫君の箏の音はほんのりと可愛らしいが、中納言は気持ちが高ぶって聞き取ることができず、涙が浮かびそうなほどの気持ちだが、平気なように装っておられる。なでしこの花がそのまま煌めいている模様の小袿に御髪がこぼれかかって、少し前かがみになっていらっしゃるお姿を横から見たところ、本当に、光を放つというのはこういうことをいうのだろうかと、お見えになった。世間並みの娘であっても人の親は良いものと思ってしまうものである。まして、このような類のないほどの御容姿であれば、実雄公が大変深い親心の闇に迷われてしまうのも、もっともなことであろう。
ということで、姫君は光り輝いていて、殆どかぐや姫のような存在になっていますね。
「なかなか聞きもとめられず」はちょっと意味が取りにくいのですが、井上氏は「笛に箏が合奏された折、かえって一々の音が聞き分けられない。何ゆえに「聞きもとめられず」か、いろいろ考えられるが、下に(悲しみの)「涙うきぬべきを」とあり、感情が高じてかえって、と解しておきたい」とされています(p65)。
「心の闇」は現代の用法と異なって、「藤原兼輔の「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」(『後撰集』巻十五雑一、一一〇三)による。親の、子を思う迷いの心をいう」(p66)ものです。
まあ、ストーリーはともかく、文章は『源氏物語』並みの華麗さで、ちょっと圧倒されますね。
洞院佶子(1245-72)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E4%BD%B6%E5%AD%90
洞院公宗(1241-63)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%85%AC%E5%AE%97