投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月20日(土)21時33分41秒
後深草天皇践祚後、天皇としての儀礼的行事に拘束されることなく、気楽な立場になった後嵯峨院の御幸の記事が続きます。
石清水・宇治では随行者の名前はありませんが、鳥羽殿の場面では歌の披講があり、多数の者が詠んだはずです。
しかし、『増鏡』に記録されたのは後嵯峨院・西園寺実氏・「大納言の典侍」(藤原為家女、定家の孫)の三人分だけです。
また、西園寺家の吹田山荘への御幸の記事は西園寺家賛美に終始しています。
「巻五 内野の雪」(その7)─後嵯峨院、鳥羽殿・吹田御幸
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f3d55a795b51383602ae5308ef3f623e
ついで幼い後深草天皇の宮廷の場面に摂政・一条実経が登場しますが、その資料となった『弁内侍日記』の記述と異なり、いささか子供っぽい人物に造型されています。
「巻五 内野の雪」(その8)─一条実経
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6eefe42b09da7e9263e62382e0f9c056
そして再び後嵯峨院の御幸の話となりますが、住吉御幸の場面で紹介されるのは西園寺実氏の歌だけです。
「巻五 内野の雪」(その11)─後嵯峨院、住吉御幸
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ca91c7059f07fdedf83418d43c11d5d
このように御幸の話が連続した後、第六代将軍として宗尊親王が関東に下向する話となり、その華やかな場面の中で、九条道家の孫の第五代将軍・頼嗣が寂しく帰京する様子がほんの少しだけ触れられます。
「巻五 内野の雪」(その12)─宗尊親王
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df97ebd9ddfd84fc306d7efd834631af
ついで後深草天皇の元服と鳥羽殿に滞在中の後嵯峨院への朝覲行幸の場面となりますが、ここでも西園寺実氏の歌だけが紹介されています。
「巻五 内野の雪」(その13)─後深草天皇元服・朝覲行幸
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fb777bcd0ea46a562c19e107703f5a1a
最後に熊野御幸の話となって、御幸尽くしの「巻五 内野の雪」は終ります。
この巻では西園寺家の栄華だけが印象に残り、摂関家の影は本当に薄いですね。
「巻五 内野の雪」(その14)─後嵯峨院、熊野御幸
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5235d0371ca183ba79a3cba9248d51b
さて、「巻六 おりゐる雲」に入ると、最初は西園寺公子が女御として入内する場面です。
ここに関白・鷹司兼平が登場しますが、単に字が上手な人という扱いです。
なお、この場面では『増鏡』作者が公子(後の東二条院)と後深草天皇の年齢差に執拗に拘っている点に興味を惹かれます。
「巻六 おりゐる雲」(その1)─女御入内(西園寺公子)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6923413073fbd722365aa088e6a8b51d
「巻六 おりゐる雲」(その2)─鷹司兼平
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/880c3b0686704569b36f827c1010b59e
ついで西園寺公相・公基が左右の近衛大将に並び立ったという西園寺家の自慢話に西園寺実氏の歌が三首添えられます。
「巻六 おりゐる雲」(その3)─西園寺公相・公基
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/398e3921e8cd97e62d85b39e505c54a6
ここでいったん切ります。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月20日(土)19時02分4秒
今月6日以来、約半月をかけて「巻四 三神山」から「巻六 おりゐる雲」まで読んできましたので、ここで当初設定しておいた二つの留意点に基づき、第二回目の中間的な整理をしておきます。
留意点の第一は二条家その他の摂関家関係者が『増鏡』においてどのように描かれているか、第二は「愛欲エピソード」、即ち歴史的重要性がないにもかかわらず相当の頻度で登場する、当時の公家社会の倫理水準に照らしても問題があると思われる男女間・同性間の挿話の出現時期・内容ですが、巻六まで来ても「愛欲エピソード」は皆無です。
従って、結果的に第一の留意点のみに言及することになります。
『増鏡』を読み直してみる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/93b65afa0ffbc515583811df3de9e056
第一回中間整理
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/40d5cfa6466a6e412b519bda6d74aaba
さて、「巻四 三神山」は冒頭に後に後嵯峨天皇となる土御門院皇子の生い立ちが語られた後、四条天皇の女御として、当時権勢を振るっていた「大殿」九条道家の孫娘、彦子が入内します。
この場面では「天の下はさながら大殿の御心のままなれば、いとゆゆしくなん」と道家に好意的な記述があります。
「巻四 三神山」(その1)─阿波院の宮
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc057fa9870f4d84982b6587b50090c2
ところが華やかな女御入内の直後、四条天皇が急死してしまいます。
そして順徳院皇子と土御門院皇子の後継争いが起き、九条道家は前者を推すものの、執権・北条泰時の判断で後者が践祚することとなり、その旨を伝える幕府の使者、安達義景は土御門定通のいる承明門院の御所に向います。
このあたりは非常にドラマチックに脚色されていますね。
「巻四 三神山」(その4)─安達義景と土御門定通
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c9b7d4f4b0df1e7801da6e5240cea61
土御門院皇子の元服の儀式の場面に二条家の祖、左大臣・二条良実も登場しますが、名前だけです。
「巻四 三神山」(その5)─後嵯峨天皇践祚
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d01cc8b88bb37aacbf623cc62fd4e6d5
新帝即位後、関白が近衛兼経から二条良実に替ったことが記されますが、ここも簡単な事実の指摘だけです。
そして西園寺実氏の娘(後の大宮院)が女御として入内する場面で巻四は終りますが、このあたりから西園寺家関係の記事が激増し、摂関家は非常に影が薄くなります。
「巻四 三神山」(その6)─西園寺実氏と四条貞子
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ad2be12f40d5ec5c61e3569a2b113f23
「巻五 内野の雪」に入ると、最初に西園寺公経が建立した西園寺の素晴らしさが詳しく描かれ、御堂関白・道長が建てた法成寺に劣らない、山の様子、眺望の良さはむしろ西園寺の方が優れていると褒め称えます。
「巻五 内野の雪」(その1)─西園寺の建立
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c729c08aeca3cbed7e3ea70379fe9f5f
そして、中宮(後の大宮院)が皇子(後の後深草天皇)を生む場面が大変な分量で、西園寺家の関係者にとっては感動的な筆致で描かれます。
「巻五 内野の雪」(その2)─中宮(姞子)の懐妊
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9326b718a86a34828915d0e7fade3f27
「巻五 内野の雪」(その3)─皇子(後深草)誕生
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a613506b75317da4462dd596505c60e5
他方、関東の政情は不安定で、第四代将軍・九条頼経は京都に追放されることになりますが、『増鏡』はその詳細には触れません。
そして後深草天皇が四歳で践祚した後、この巻では非常に珍しく摂関家関係のそれなりの分量の記述があるのですが、事実の羅列のみで、誰でも書けるような内容です。
「巻五 内野の雪」(その4)─後深草天皇践祚
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b85b3824fe20328e7adc3d5ddeec0cab
いったんここで切ります。
続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p51以下)
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その年の八月廿八日、春宮十一にて御元服し給ふ。御いみ名恒仁と聞ゆ。世の中にやうやうほのめき聞ゆる事あれば、御門はあかず心細う思されて、夜居の間のしづかなる御物語のついでに、内侍所の御拝の数を数へられければ、五千七十四日なりけるを承りて、弁内侍、
千代といへば五つ重ねて七十にあまる日数を神は忘れじ
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世間では後嵯峨院が東宮践祚を希望しているらしいという噂が流れ、後深草天皇は不満であり、心細く思われて、夜、宿直で人々が詰めているとき、静かにお話をなさったついでに、神鏡を安置する内侍所で毎日なされている御拝の日数を数えたら五千七十四日であった、とのことで、十四年にほんの僅か欠ける日数ですね。
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かくて、十一月廿六日おりゐさせ給ふ夜、空の気色さへあはれに、雨うちそそぎて、物がなしく見えければ、伊勢の御が「あひも思はぬももしきを」といひけんふるごとさへ、今の心ちして心細くおぼゆ。上も思しまうけ給へれど、剣璽の出でさせ給ふ程、常の行幸に御身を離れざりつる習ひ、十三年の御名残、ひきわかるるは、なほいとあはれに忍びがたき御気色を、かなしと見奉りて、弁の内侍、
今はとておりゐる雲のしぐるれば心のうちぞかきくらしける
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こうして十一月二十六日、御譲位される夜、空の様子まで哀れで、雨が降り注いで物悲しく見えたので、遥か昔、宇多天皇譲位のときに「伊勢の御」が「別るれどあひも思わぬももしきを見ざらむことやなにか悲しき」と詠んだのと同じ気持ちで心細く感じられる。天皇も予期されていたことだが、十三年間も身近を離れることのなかった剣璽が新帝の方へ渡されるとき、御感慨もひとしおの御様子を弁内侍も悲しいと思った。
ということで、この話と歌二首はいかにも『弁内侍日記』から採られたような内容なのですが、現在残されている『弁内侍日記』は建長四年(1252)十月分までなので、確認は取れません。
これで「巻六 おりゐる雲」は終りです。
伊勢(水垣久氏『やまとうた』内、「千人万首」より)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ise.html
続きです。
後嵯峨院による亀山殿造営の話の後、正元元年(1259)、大宮院(1225-92)が西園寺で行った一切経供養の場面となります。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p46以下)
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正元元年三月五日西園寺の花盛りに、大宮院、一切経供養せさせ給ふ。年ごろ思しおきてけるをも、いたくしろしめさぬに、女の御願にて、いとかしこくありがたき御事なれば、院も同じ御心にゐたちのたまふ。楽屋の者ども、地下も殿上もなべてならぬをえりととのへらる。その日になりて行幸あり。春宮も同じく行啓なる。大臣・上達部、みなうへの衣にて、左右に分かちて、御階の間の高欄につき給ふ。法会の儀式、いみじさ、めでたき事ども、まねびがたし。
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「正元元年三月五日」とありますが、この年は三月二十六日に正嘉から正元に改元されているので、正しくは「正嘉三年三月五日」ですね。
大宮院は三十五歳、後嵯峨院は四十歳、後深草天皇は十七歳、春宮(恒仁親王、亀山天皇)は十一歳です。
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又の日御前に御遊び始まる。御門御琵琶、春宮御笛、まだいとちひさき御程に、みづらにゆひて御かたちまほに美しげにて、吹きたて給へる音の、雲井を響かして、あまり恐ろしき程なれば、天つ乙女もかくやと思して、太政大臣<実氏>、こと忌みもえし給はず。目おし拭ひつつためらひかね給へるを、ことわりに、老いしらへる大臣・上達部など、みな御袖どもうるひわたりぬ。
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天皇は琵琶、春宮は笛という分担ですね。
春宮はまだとても小さいお年で、髪を「みずら」に結われて御容姿はとてもかわいらしく、吹かれる笛の音は雲の上まで響いてまったく恐ろしい程お上手なので、天女の奏する楽もこうであろうと思われ、太政大臣・西園寺実氏は、目出度い場なのに涙が出てくるのを忌み憚って慎むこともしない。それをもっともと思って、年老いた大臣や公卿など、みな涙で袖が濡れたのであった。
ということで、後深草天皇の誕生以来、西園寺実氏が感激のあまり涙を流すというパターンが続いていましたが、ここでは実氏だけではなく、周りの大臣・公卿ももらい泣きしたという拡大版となっています。
なお、細かいことですが、後深草天皇の琵琶の出来栄えについては特に言及せず、恒仁親王の笛の上手さだけを絶賛しているのが少し気になります。
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女院の御心の中、ましておき所なく思さるらんかし。前の世もいかばかり功徳の御身にて、かく思すさまにめでたき御栄えを見給ふらん、と思ひやり聞ゆるも、ゆゆしきまでぞ侍りし。御あそび果ててのち文台召さる。院の御製、
色々に枝をつらねて咲きにけり花もわが世も今さかりかも
あたりを払ひて、際なくめでたく聞こえけるに、あるじの大臣の歌さへぞ、かけあひて侍りしや。
色々に栄えてにほへ桜花わが君々の千代のかざしに
末まで多かりしかど、例のさのみはにてとどめつ。いかめしう響きて帰らせ給ひぬるまたの朝、無量光院の花のもとにて、大臣、昨日の名残思し出づるもいみじうて、
この春ぞ心の色はひらけぬる六十あまりの花は見しかど
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「末まで多かりしかど、例のさのみはにてとどめつ」は「末座の人々まで歌は多かったが、例のとおり、そう多く上げるのは煩わしいので省略する」(井上訳、p49)ということで、例によって語り手の老尼がちらっと登場する場面です。
数多くの歌のうち、後嵯峨院と西園寺実氏の歌だけ紹介するというのもひとつのパターンになっていますね。
ちなみに、この大宮院による一切経供養の場面は『五代帝王物語』には存在しません。