学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「巻七 北野の雪」(その12)─「久我大納言雅忠」

2018-01-25 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月25日(木)18時45分1秒

続きです。
文永四年(1267)、西園寺公相が父・実氏に先だって死ぬ場面です。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p98以下)

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 日ごろ、長雨降りて少し晴れ間見ゆるほど、空の気色しめやかなるに、二条富小路殿に、本院・新院ひとつに渡らせ給ふころ、ことごとしからぬ程の御遊びあり。大宮院・東二条院も、御几帳ばかりへだてておはします。御前に太政大臣<公相>・常盤井の入道殿<実氏>・左の大臣<実雄>・久我大納言<雅忠>など、むつましき限りさぶらひ給ひて、御酒参る。
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幾日も長雨が続いて少し晴間が見えたころ、空の趣きもしめやかな折、二条富小路殿に本院(後嵯峨院)・新院(後深草院)が御一緒にいらっしゃるとき、それほど大げさではない管弦の遊びがあった。大宮院・東二条院も御几帳だけ隔てていらっしゃる。御前に太政大臣公相公、常盤井入道実氏公、前左大臣実雄公・久我大納言雅忠公など、親しい関係の方々だけが伺候されて、お酒を召しあがる。

ということで、「久我大納言雅忠」が初めて登場します。
この人は『とはずがたり』の作者、後深草院二条の父親ですね。
西園寺実氏(1194-1269)を中心に、その二十五歳下の異母弟・洞院実雄(1219-73)、嫡子の西園寺公相(1223-67)、実氏と正室・四条貞子との間に生まれた大宮院(1225-92)とその夫・後嵯峨院(1220-72)、同じく東二条院(1232-1304)とその夫・後深草院(1243-1304)という西園寺ファミリーの中に、たった一人、村上源氏の中院雅忠(1228-72)がいます。

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 あまた下り流れて上下少しうち乱れ給へるに、太政大臣、本院の御さかづき賜はりて、持ちながら、とばかりやすらひて、「公相、官位ともに極め侍りぬ。中宮おはしませば、もし皇子降誕もあらば、家門の栄華いよいよ衰ふべからず。実兼もけしうは侍らぬ男なり。後ろめたくも思ひ侍らぬを、ひとつの憂へ、心の底になん侍る」と申し給へば、人々何事にかとおぼつかなく思ふ。
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何度もお流れの杯が上座から廻ってきて、誰もが少しくつろいでいらっしゃるころ、太政大臣公相公が後嵯峨院の杯を賜って、それを持ちながら少しためらって、「私は官位ともに最高となりました。娘の中宮が亀山天皇のお后としておられるので、もし皇子御誕生ということになれば、家門の栄華はいよいよ衰えることを知りません。息子の実兼も出来の悪い子ではありません。何も心配することはないのですが、たった一つ、憂いていることが心の底にございます」と申されたので、人々は何事かと不思議に思った。

ということで、実際には公相の娘、中宮の嬉子は亀山天皇と相性が良くなく、洞院実雄の娘の皇后、佶子に負けているのですが、確かに皇子誕生ともなれば状況は違ってきます。

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 左の大臣は、中宮のことかけ給ふを、まだきよりも、と耳とまりてうち思すにも、心のうち安げなし。一院は、「いかなる憂へにか」とのたまふに、「いかにも入道相国に先立ちぬべき心地なんし侍る。恨みの至りて恨めしきは、さかりにて親に先立つ恨み、悲しみの切に悲しきは、老いて子に後るる悲しみには過ぎず、などこそ、澄明に後れたる願文にも書きて侍りしか」など聞えて、うちしをれ給へば、みないとあはれと思さる。入道殿はまいて墨染めの御袖しぼるばかりに見え給ふ。
 さて、その後いく程なく悩み給ふ由聞ゆれど、さしもやはと覚えしに、いとあやなくうせ給ひぬ。冷泉の太政大臣と申し侍りしことなり。入道殿の御心の中、さこそはおはしけめ。中宮も御服にてまかで給ひぬ。
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前左大臣実雄公は、公相公が中宮のことを話題にされたのを、まだ生まれてもいないのに何を言っているのか、と耳にとまって思うにも、心穏やかではない。後嵯峨院が「どんな憂いなのか」とお聞きになると、公相公は、「どうにも父入道相国に先だって死ぬような予感がいたします。恨めしいことの中で最も恨めしいのは、盛りの年で親に先だって死ぬことであり、悲しいことの中で最も痛切に悲しいのは老いて子に先立たれる悲しみだと、(大江朝綱が子の)澄明に先立たれた願文にも書いてありました」などと申されるので、皆、たいそう哀れと思われる。父入道はまして涙で濡れた墨染の袖をしぼるほどにもお見えになった。
さて、その後いくらも経たぬうちに御病気とのことであったが、まさかさほどのことではあるまいと思っていたところ、本当にあっけなく亡くなられた。冷泉の太政大臣と申された方のことである。父入道道殿の御心中はさぞかし、と思われる。また、中宮も服喪のために宮中を退出された。

ということで、公相は少々気味の悪い予言の後、実際に死んでしまったのだそうです。
大江朝綱(886-957)は「平安中期の漢学者、詩人。正四位下参議。後江相公」で、この人が子の澄明に先立たれた折の四十九日の願文が『本朝文粋』に載っているそうです。(p102)
ま、あまりに出来すぎなので事実とは考えにくいエピソードですが、この話で私が一番奇妙に思うのは、後嵯峨院・後深草院・大宮院・東二条院・西園寺実氏・西園寺公相・洞院実雄という当時の宮廷社会の最高位に位置する人々の中に「むつましき限り」の一員として「久我大納言雅忠」が存在することです。
上記のように雅忠は西園寺ファミリーの一員ではない上に、その公的地位もさほどのものではありません。
『公卿補任』文永四年(1267)を見ると、

関白・一条実経(十二月上表)、関白・近衛基平、左大臣・近衛基平、右大臣・鷹司基忠、内大臣・大炊御門冬忠(正月上表)、内大臣・一条家経、大納言・二条良教、同・中院通成、権大納言・花山院師継、同・土御門顕良、同・花山院通雅

と、異動による重複を除いて十人が並んだ後、十一番目に中院雅忠が出てきます。
そして権大納言は更に五人いて、堀河基具、一条家経(正月任大臣)、土御門定実、二条師忠、藤原為氏と続きます。
このように見て行くと、中院雅忠(四十歳)が西園寺実氏・西園寺公相・洞院実雄と一緒に「むつましき限り」の一員として登場するのは些か不審です。
なお、西園寺実氏は既に出家しているので『公卿補任』には登場せず、西園寺公相・洞院実雄は前官なので「散位」の方に出ています。
ちなみに中院雅忠の「権」がとれて「大納言」になるのは四年後の文永八年(1271)で、その翌年に雅忠は死んでしまいます。
また、『公卿補任』では雅忠は一貫して「中院」であり「久我」ではありません。

源雅忠(1228-72)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9B%85%E5%BF%A0
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近衛宰子の「密通」について

2018-01-25 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月25日(木)11時15分28秒

『増鏡』とは少し離れますが、宗尊親王が鎌倉を追放された理由とされる御息所の密通云々は何だか良く分からない話ですね。
最近の概説書では、例えば近藤成一氏は『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016)において次のように書かれています。(p89以下)

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 文永三年(一二六六)に将軍宗尊が京に送還されることになったのは、御息所の密通事件がきっかけだった。宗尊の御息所は前摂政近衛兼経の娘宰子であるが、母は九条道家の娘仁子である。仁子は四代将軍頼経と父母を同じくする。宰子は正元二年(一二六〇)関東に下り、時頼の猶子として宗尊と結婚した。婚姻の儀も時頼の最明寺邸において行なわれている。そして文永元年(1264)に若宮惟康が誕生した。宰子の密通の相手とされた松殿僧正良基は松殿基房の孫である。基房は近衛基実・九条兼実の兄弟にあたり、基実の死後、摂政・関白の職を継いだが、木曽義仲と結んだために義仲の没落とともに失脚し、松殿家は摂関家から脱落した。良基は貞応二年(一二二三)にはすでに鎌倉に姿をみせており、その頃から幕府において護持層の役割を務めていたものと思われる。
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ここに出てくる人々の生没年を見ると、

松殿基房(1145-1231)
九条道家(1193-1252)
近衛兼経(1210-59)
九条頼経(1218-56)
北条時頼(1227-63)
近衛宰子(1241-?)
宗尊親王(1242-74)

という具合ですが、問題は松殿良基です。
松殿良基が『吾妻鏡』に最初に登場する貞応二年(1223)六月二十六日条では「天晴。於五佛堂所被修之千日御講。今日被結願。導師松殿法印。請僧十二口。二品御參堂云々」とあり、良基は既に法印で、北条政子が出席するような重要な仏事を主導する立場になっています。
良基の父、松殿忠房(1193-1273)の生年を考えると、仮に忠房が二十歳のときの子だとして、建暦二年(1212)生まれですから、鎌倉に登場した時には十二歳ですね。
さすがにその年で「導師」はありえないでしょうから、もう少し上としても、せいぜいプラス五歳くらいでしょうか。

松殿忠房(1193-1273)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%AE%BF%E5%BF%A0%E6%88%BF

そして問題の文永三年(1266)は松殿良基が最初に『吾妻鏡』に登場してから四十三年後であり、五十五歳から六十歳くらいですかね。
まあ、「密通」が無理な年齢ではないにしても、何だか不自然な感じは否めません。
更に奇妙なのは『尊卑分脈』の「延慶元年十二月入」という没年で、延慶元年は1308年ですから建暦二年(1212)生まれとして九十五歳ですね。
プラス五年でちょうど百歳で、まあ、これもあり得ない話ではないといえ、ずいぶん長命な人ですね。
(※没年には異説もあります)

さて、上記引用部分に続けて、近藤氏は、

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 文永三年三月六日、宗尊は側近の木工権頭藤原親家を内々の使として上洛させた。六月五日に鎌倉に戻った親家は、後嵯峨上皇の内々の諷詞を伝えたが、御息所に関するものであったという。この後、鎌倉中が騒動となり、宗尊が謀叛の嫌疑により京に送還されることになる。どうしてそういうことになったのかがわかりにくいが、想像するに、宗尊は、御息所を離縁するような強硬な措置をとろうとして父の後嵯峨上皇に相談したのであるが、上皇はそれを好まなかったのではないか。幕府のほうからしても、宗尊の行動は執権・連署との相談なしの独走であり、宗尊は孤立してしまったのではないか。
 宗尊の使を務めた親家が鎌倉に戻った後の六月二十日、時宗邸に執権政村、金沢実時、安達泰盛が集まり秘密の会合を持ったが、この席で、宗尊を京に送還し、三歳になる若宮惟康を次の将軍に戴くことが決められたのであろう。宗尊は七月二十日に入洛したが、翌二十一日、幕府からの使節として二階堂行忠と安達時盛が京に入り、二十二日関東申次西園寺実氏に面会して、惟康を将軍とすることを申し入れた。惟康は二十四日の小除目により征夷大将軍に補せられた。
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と書かれており、「御息所を離縁するような強硬な措置」ですから、近藤氏は「密通」自体は事実と考えておられるようですね。
まあ、結局は良く分からない話ですが、「密通」が事実ではないとしても、宗尊の御息所への対応が執権北条政村以下の幕府中枢に不信感を与え、将軍として不適格との判断をもたらしたのでしょうね。
私としては宗尊親王が余りに熱心に和歌に取り組んだため、一方で熱烈な信奉者を生むとともに、他方で文化的な違和感を覚える敵対者を生み、「密通」事件をきっかけに武家社会の在り方を巡る一種の文化闘争・思想闘争が起きて和歌への敵対者が勝利したのかな、などと想像するのですが、これも小説の域に入ってしまいそうですね。
もちろん執権の北条政村自身は勅撰集入集歌も多い歌人ですが、政治家として、幕府内の分裂を招くような事態は避けたい、という判断は十分あり得るものと思います。
一般論として、和歌はその才能のない者にとっては「差別」そのものであり、「差別」された側に執念深い敵意をかきたてるものではないかと思いますが、これで特定の政治的事件を説明するのはさすがに妄想と呼ばれそうなので、このあたりで止めておきます。
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