学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

六波羅の「檜皮屋」について

2018-01-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月24日(水)20時39分45秒

参考までに『五代帝王物語』における宗尊親王失脚に関する記述を紹介しておきます。(『群書類従・第三輯』、p446以下)

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 さるほどに七月廿日中務宮関東より上らせ給。かねて早馬つきて其よし聞えしかば、院中も御騒ぎありしほどに、すこしびびしからぬ御行粧にて御上、先六波羅へつかせ給て、其後承明門院の御旧跡土御門殿へ入せ給ふ。彼御跡は中書王御管領なる故也。日来はゆゆしくて御上洛あるべしと聞えしかば、武士どもも面々に出立、京都も御心もとなく待申されしに、思の外の事出来て御上、浅ましかりし事也。宮も御上洛たびたびのびて、心もとなく思食ければ、夢にぞみつるあう坂の関とは御歌にもあそばしたりけるに、げにも夢の心ちしてぞ御覧ぜられけんと御心のうちもあはれ也。さて将軍には中書王の御息所<岡屋入道殿女>の御腹の宮三歳にてなり給。七月廿四日に宣下せらる。御名は惟康とてやがて従四位下に叙給。宮は御上あるにも院は御義絶の義にて、左右なく御対面もなし。引かへ夷の御すまひ、さこそ宮中もさびしかるらめとをしはかられてあはれなり。此事によりて左少弁経任<中御門大納言>御使にて関東へ下向、別事あるまじきとて武家も物沙汰はじまり、京に八月十六日より院の評定始らる。
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「院は御義絶の義にて、左右なく御対面もなし」とあって、『増鏡』よりは厳しい書き方ですね。
さて、『増鏡』は嘉禎四年(1238)に華々しく行われた第四代将軍・九条頼経の上洛について完全に無視していますが、『五代帝王物語』にはそれなりに詳しい記事があります(『群書類従・第三輯』、p430)。
宗尊親王についても何度か上洛の計画が立てられ、その都度延期されていたのですが、追放という形で上洛が実現したのは些か皮肉な感じもします。
それと、細かいことですが、『増鏡』では関東に派遣された中御門経任が京に帰って後嵯峨院の懸念が解消された後、宗尊親王が六波羅の「檜皮屋」から旧承明門院御所の土御門殿に移った、という書き方をしています。
しかし、『五代帝王物語』は六波羅の「檜皮屋」には特に言及せず、また、移動の時期もはっきりさせておらず、割とすぐに移動したようにも読める書き方ですね。
ま、そんなことはどうでもよい些事といえばそれまでですが、六波羅の「檜皮屋」が非常に重要な存在であって、「檜皮屋」即ち六波羅御所こそが征夷大将軍の本邸だと主張する歴史学者がいて、以前その人の見解を少し検討したことがあります。
問題の論文は熊谷隆之氏の「六波羅探題考」(『史学雑誌』113編7号、2004)で、個人的にはそれほど重要な問題とも思えないのですが、これも参考までに当時の投稿にリンクを張っておきます。
もともとのきっかけは上横手雅敬氏と高橋昌明氏の論争で、その中に熊谷氏の「六波羅探題考」が引用されていたので調べ始めました。

「幕府」概念の柔軟化
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21f66aaffd818fa5e2f024fd13559d28
幕府の水浸し
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8852f32f1e433c6b823ccb57919193d7
「六波羅御所こそ鎌倉将軍家の本邸」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ad13c42052d04ddd7db90f8572957fff

越後入道勝圓の佐介の第
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/901723cd1a63e83e035a45d18dddfa9d
越後の守時盛の佐介の第
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9428f0ea8c0a67f51c4719c7f8c3083a
六波羅御所の歴史
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b41e53be3756e1b81269b776ae59c380
「武家の空間」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5265bfb3421c88fc5ba90951488f2930
檜皮葺
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/521f5034b949e2b0cb0f577984144ac3
「深秘御沙汰」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/275afeb75a664c62e44147f82733a0b5
「一般御家人の板屋葺」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc575760cf9f52f871cb344f1bbf1c96
板屋の軒のむら時雨
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6826dd30bdb9715c828ce911815ef41d
『容疑者Mの献身』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d4a1f9b005f64433725e626cc367b7f4

なお、野口実氏は熊谷隆之氏の「六波羅探題考」を極めて高く評価されています。

「承久の乱後の六波羅」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2fa822d2d0cba2dccc7167bdd3c48fee

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「巻七 北野の雪」(その11)─宗尊親王失脚

2018-01-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月24日(水)15時23分6秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p92以下)

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 又の年、東に心よからぬこといできて、中務のみこ都へ上らせ給ふ。何となくあわたたしきやうなり。御後見はなほ時頼の朝臣なれば、例のいと心かしこうしたためなほしてければ、聞えし程の恐ろしきことなどはなければ、宮は御子の惟康の親王に将軍をゆづりて、文永三年七月八日上らせ給ひぬ。
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文永三年(1266)、鎌倉で政変があり、第六代将軍・宗尊親王(1242-74)が失脚、追放されます。
「御後見はなほ時頼の朝臣なれば」とありますが、実際には北条時頼(1227-63)は三年前に死んでいて、執権が北条政村(1205-73)、連署が北条時宗(1251-84)の時期ですね。

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 御下りの折、六波羅に建てたりし檜皮屋一つあり。そこにぞはじめは渡らせ給ふ。いとしめやかに、ひきかへたる御有様を、年月の習ひに、さうざうしうもの心細う思されけるにや、

  虎とのみ用ゐられしは昔にて今は鼠のあなう世の中
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将軍として虎のように恐れられていたのは昔のことで、今は鼠が穴の中に隠れているように世を憚る身となってしまった、という歌はなかなかユーモラスですね。

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 院にも、東の聞こえをつつませ給ひて、やがては御対面もなく、いと心苦しく思ひ聞えさせ給ひけり。経任の大納言、いまだ下臈なりし程、御つかひに下されて、何事にか仰せられなどして後ぞ、苦しからぬことになりて、宮も土御門殿承明門院の御あとへ入らせ給ひける。院へも常に御参りなどありて、人々も仕うまつる。御遊びなどもし給ふ。雪のいみじう降りたる朝明けに、右近の馬場のかた御覧じにおはして、御心の内に、

  猶たのむ北野の雪の朝ぼらけあとなきことにうづもるる身も

 世を乱らむなど思ひよりける武士の、この御子の御歌すぐれて詠ませ給ふに、夜昼いとむつましく仕うまつりけるほどに、おのづから同じ心なるものなど多くなりて、宮の御気色あるやうにいひなしけるとかや。さやうのことどもの響きにより、かくおはしますを、思し歎き給ふなるにこそ。
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後嵯峨院も最初は関東に遠慮して宗尊親王との対面もなかったが、まだ「下臈」だった中御門経任(1233-97)が関東に派遣されて折衝した結果、それなりに穏やかな関東の意向が示され、宗尊親王も六波羅の「檜皮屋」から承明門院の御所であった土御門殿へ移られて、後嵯峨院との対面も可能となりました、ということで、中御門経任は極めて有能であり、後嵯峨院の信頼も厚かったのでしょうね。
中御門経任は実務官僚でありながら『とはずがたり』にも登場する人で、なかなか興味深い存在です。
なお、『増鏡』では「東の聞こえをつつませ給ひて、やがては御対面もなく」となっていますが、『五代帝王物語』には義絶したとあります。
九条頼経・頼嗣父子が鎌倉を追放されて以降の九条家の運命を考えれば、後嵯峨院が細心の注意を払ったのももっともな話ですね。
この「猶たのむ……」の歌に含まれる「北野の雪」が、巻の名になっています。
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「巻七 北野の雪」(その10)─続古今集

2018-01-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月24日(水)14時13分59秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p87以下)

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 まことや、この年頃、前内大臣殿<基家>、為家の大納言入道・侍従二位行家・光俊の弁入道など承りて、撰歌の沙汰ありつる、ただ今日明日広まるべしと聞ゆる、おもしろうめでたし。かの元久の例と、一院みづからみがかせ給へば、心ことに光そひたる玉どもにぞ侍るべき。
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「まことや」は「ほんとに、そうそう。話の途中で思いついたときなどに発することば」(p89)で、ここも語り手の老尼がほんの少し姿を現す場面です。
「前内大臣殿基家」は九条道家の異母弟、九条基家(1203-80)で、『徒然草』第223段に登場する「鶴の大臣殿」でもあります。
第223段は「鶴の大臣殿は、童名、たづ君なり。鶴を飼ひ給ひけるゆゑにと申すは僻事なり」だけという『徒然草』の中でも最短の段ですね。

九条基家(1203-80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%9F%BA%E5%AE%B6

「為家の大納言入道」は定家の息子の藤原為家(1198-1275)で、「侍従二位行家」は亀山殿歌合の場面で右方の読師として登場済みの「六条藤家」の歌人、九条行家(1223-75)です。
「光俊の弁入道」は承久の乱の責任者の一人として処刑された葉室光親の次男、葉室光俊(1203-76)で、和歌の世界では法名の「真観」の方が有名ですね。
宗尊親王の和歌の師でもあります。
「元久の例」とは後鳥羽院の親撰に近かった『新古今集』のことで、『続古今集』も複数の撰者がいるとはいえ、後嵯峨院の役割が大きかったという訳ですね。

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 年月にそへてはいよいよほかざまに渡る方なく、栄えのみまさらせ給ふ御有様のいみじきに、此の集の序にも、「やまと島根はこれわが世なり、春風に徳を仰がんと願ひ、和歌の浦もまた我が国なり、秋の月に道をあきらめん」とかや書かせ給へる、げにぞめでたきや。
 金葉集ならでは、御子の御名のあらはれぬも侍らねど、この度は、かの東の中務の宮の御名のりぞ書かれ給はざりける、いとやんごとなし。新古今の時ありしかばにや、竟宴といふこと行はせ給ふ、いとおもしろかりき。此の集をば、続古今と申すなり。
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「年月にそへてはいよいよほかざまに渡る方なく、栄えのみまさらせ給ふ」は年月が経るに従って他の皇統に移ることなく、後嵯峨院の皇統だけが栄えているという意味です。
「金葉集ならでは」云々は、『金葉集』以外の勅撰集では親王の名前を出していたのに、『続古今集』では「かの東の中務の宮」を「宗尊親王」ではなく「中務卿親王」と表記したのは立派だ、という意味です。
『続古今集』が撰進されるまでにはなかなか複雑な経緯があったようですが、それは他書に譲ります。

続古今和歌集
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86
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「刑部卿の君」考

2018-01-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月24日(水)12時14分25秒

前回投稿で引用した部分、「ひがしの御方」の次に「刑部卿の君も弾かれけり」とありますが、井上氏は特に説明を加えていません。
ただ、「巻八 あすか川」の文永五年(1268)二月十七日に行われた富小路殿舞御覧の場面に、

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 万歳楽を吹きて楽人・舞人参る。池のみぎはに桙を立つ。春鴬囀・古鳥蘇・後参・輪台・青海波・落蹲などあり。日暮らしおもしろくののしりて帰らせ給ふ程に、赤地の錦の袋に御琵琶入れて奉らせ給ふ。刑部卿の君、御簾の中より出だす。右大将取りて院の御前に気色ばみ給ふ。……
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と「刑部卿の君」が再び登場し(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p124)、井上氏はこちらでは「刑部卿孝時女。後嵯峨院後宮。覚助法親王らの母」(p128)、と注記されています。
また、「巻十 老の波」の弘安元年(1278)頃の記事に、

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 その頃、大宮院いと久しく悩ませ給へば、本院も新院も常に渡り給ひて、夜などもおはしませば、異御腹の法親王、姫宮たちなども、絶えず御とぶらひにまうでさせ給ふ中に、故院の位の御時、勾当の内侍といひしが腹に出で物し給へりし姫宮、のちには五条の院と聞こえし、いまだ宮の御程なりしにや、いと盛りにうつくしげにて、切に隠れ奉り給ふを、新院あながちに御心にかけてうかがひ聞え給ふ程に、この御悩みの頃、いかがありけん、いみじう思ひの外にあさましと思し嘆く。
 かの草枕よりはまことしう、にがにがしき御事にて、姫宮まで出できさせ給ひにき。限りなく人目をつつむ事なれば、あやしう誰が御腹といふこともなくて、院の御乳母の按察の二位の里に渡し奉り給へり。幼き御心にもいかが心え給ひけん、「宮の御母君をば誰とか申す」と人の問ひ聞ゆれば、「いはぬ事」とのみぞいらへさせ給ひける。
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という具合に、亀山院が異母妹の懌子内親王(五条院、1262-94)に子供を生ませて、その子が人から母親は誰かと聞かれたら「それは言わないこと」とだけ答えたという有名な話がありますが、井上氏は「勾当の内侍」に「ここでは刑部卿藤原孝時女」と注記されています。(p248)
時枝誠記・木藤才蔵校注の『日本古典文学大系87 神皇正統記・増鏡』(岩波書店、1965)でも、井上氏同様、「巻七 北野の雪」の「刑部卿の君」には特に注記せず(p324)、「巻八 あすか川」の「刑部卿の君」に「後嵯峨院の妃。覚助法親王の母」(p333)と注記し、「巻十 老の波」の「勾当内侍」に「刑部卿藤原孝時の女。刑部卿の君」と注記しています。
ところで、琵琶の世界では「刑部卿の君」ないし「刑部卿局」はかなり有名な人で、岩佐美代子氏の『校注 文机談』(笠間書院、1989)には、

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 本院〔後深草〕たへぬるあとををこして四絃をきこしめす。御比巴始には今出河太相国<公相>のおほきをとどまいらせ給。ないない尾張内侍とて孝時二女、後刑部卿局さぶらひ給ければいみじくきこしめされけり。孝時のながれ、世にあまねくきこえ侍しかども、このおとどのみぞ御きりやうもいみじくて、まめやかのやういうかやをくわふべきてまでもそこをきわめさせ給ぬるとは承し。【中略】西園寺の一切経くやうとてひととせいみじきはれの侍しにも、主上〔後深草〕御比巴<本院>、東宮〔亀山〕御笛<新院>、いまだきびはなる御よはひながらめでたくあそばされにき。末代の美談なり。
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とあり、「尾張内侍とて孝時二女、後刑部卿局」が後深草天皇の琵琶の師であり、藤原孝時の沢山の弟子の中でも特に優れていた西園寺公相と親しかったことが記されています。(p28以下)
そして岩佐氏はこの女性について「藤原博子。後嵯峨院に侍して覚助法親王らを生む」と注記しています。
他方、岩佐氏は『弁内侍日記』寛元四年(1246)の、

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五月の廿日余り、有明の月くまなくて、ことに面白く侍りしに、御直廬にて御連歌ありしこそ、いと優しく侍りしか。た家、為継ばかりにて、人数も少なかりしかば、いとしまざりし程、「このついでに勾当内侍の琵琶を聞かばや」と仰事ありしかども、……
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という記事の「勾当内侍」に「掌侍<ないしのしょう>の首席。藤原孝時女、博子。音楽の名手。後深草院の琵琶の師。『古今著聞集』等に逸話が多い」とも注記されています(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、p148)。
これらの記述を読むと藤原孝時女・博子がいつ生まれたのかが気になってきますが、博子が生んだ覚助法親王は宝治元年(1247)生まれ、懌子内親王は弘長二年(1262)生まれなので、仮に覚助法親王を生んだ時に二十歳とすると博子は安貞二年(1228)生まれとなりますね。
岩佐氏によれば藤原孝時は文治五年(1189)頃の生まれで文永三年(1266)に没しており(『校注 文机談』p23)、父親との年齢差は四十歳程度ですからおかしくはありませんが、ただ、勾当内侍は女官の中でもかなり重要な役目なので、少し若すぎるような感じがしないでもありません。
以上、細かい話になりましたが、もしかしたら私があれこれ考えたようなことは既に先行研究によって解決済みのような感じもしますので、何か御存知の方がいらっしゃればご教示願いたく。

覚助法親王(1247-1336)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E5%8A%A9%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
懌子内親王(1262-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%8C%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
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