学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

久我家の相続争い

2018-01-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月27日(土)16時52分57秒

>キラーカーンさん
>1 雅忠のすぐ下の弟(中院雅光)の生母が、その西園寺家に庇護を求めた後妻では?との記述もある

これは明らかな誤りですね。
久我家の相続争いについては岡野友彦氏の『中世久我家と久我家領荘園』(続群書類従完成会、2002)が一番詳しいはずですが、今は手元にないので、代わりに國學院大學久我家文書特別展示開催実行委員会編『特別展観 中世の貴族─重要文化財久我家文書修復完成記念』(國學院大學、1996)の小川信「久我家文書と久我家領」から少し引用してみます。(p9以下)

-------
 三 久我家領の成立と展開

 中院流家領目録草案(一六号)は、平安末期の中院右大臣雅定の陸奥から豊前にわたる七一ヶ所に上る家領で、中院流諸家の家領の淵源がわかる。またこれらの家領の多くが皇室を本家と仰ぎ、その領家職や預所職を保ったものであったことから、当時の中院流村上源氏の皇室との経済的結合の在り方がわかる。しかしこの多数の家領は分割相続、さらに他家への譲与や寺社への寄進によって、しだいに分散していった。【中略】
 しかも「久我家根本家領相伝文書案」(一七号<一>~<八>)によって知られるように、鎌倉中期には、久我家に伝領された諸荘をめぐって一族間に相続争いが起こり、結局家領の一部は縁故関係を通じて鎌倉末期に他家の家領となった。すなわち久我通光が遺産のすべてを夫人三条(西蓮)に譲って逝去すると、通光の嫡子通忠はただちに継母三条を相手として後嵯峨上皇に訴え、その結果、久我荘は通忠の領有、その他の荘園は三条の領有などとする院宣が下った。やがて西蓮(三条)は肥後国山本荘・近江国田根荘・伊勢国石榑荘(御厨)の三荘をその娘如月に、その死後は西園寺実兼夫人源顕子(如月の従兄弟中院通成の娘)に譲ることを条件として譲り、如月はやがて母の条件を守って顕子に譲った。
 こうして根本家領のうち久我家嫡流に留まったのは久我荘のみとなり、山本等の三荘は関東申次として鎌倉幕府と結び権勢を誇る西園寺家に帰した。なお田根荘は顕子から嫡子西園寺公衡に譲られ、公衡は同荘を春日社に寄進し、興福寺東北院門跡の管轄とした。この間久我通光の孫中院雅相(中院雅忠の子)は如月を相手取って家領回復の訴訟を起こしたが、西園寺公衡にたいして後宇多上皇の院宣が下り、雅相の主張は退けられた。やがて鎌倉幕府の滅亡などにより西園寺家が権勢を失うと、久我家当主長通は家領回復運動を起こして成功したと推定され、田根荘は康永元年(一三四一)の足利直義裁許状(刊六二号)に「領家久我太政大臣(長通)家とある。
-------

この文章は肝心な部分に誤りがあって、中院雅相は中院雅忠(1228-72)の子ではなく、雅光(1226-67)の子です。
雅忠の子なら後深草院二条の兄弟となるので、最初に見たときはドキッとしましたが、これは同書p43の系図からも明らかなように小川氏のケアレスミスです。
さて、久我通光(1187-1248)は宝治元年(1247)十二月三日付の置文で、「久我をはじめとして庄々・家の宝物・日記・文書にいたるまで、一向女房〔三条〕のさた〔沙汰〕にてあるへし、ただし、子とおもひたるは大納言・三位中将・中将・姫御前、これぞ子と思て候」という具合に、多くの子のなかで大納言(通忠)・三位中将(雅光)・中将(雅忠)・姫御前(如月)だけを自分の子と思うと言いながら、その相続分などは定めず、全財産を三条の管理に委ねてしまいます。
通忠は直ちに訴訟を提起しますが、宝治二年(1248)閏十二月二十九日付の後嵯峨院院宣では、通忠は久我荘だけ、雅光は家記を書き写すことができるだけ、残りは全部三条のものとされます。
雅光の息子・雅相が後になって三条(西蓮)の娘・如月と訴訟したことから明かなように、雅光自身も三条と敵対する立場で、三条の子ではありえないですね。
後嵯峨院の院宣に雅忠の名は出て来ませんが、『とはずがたり』によれば、雅忠と三条の関係は良好だったようです。

>2 ウィキペディアでは通忠の息子で中院を名乗ったのは雅光だけ

通忠ではなく通光の息子の話だと思いますが、これも明らかな誤りで、『公卿補任』を見ると、雅光の家名は一貫して「久我」ですね。

久我通光(1187-1248)

なお、少し検索してみたところ、ネットでも安田徳子氏の「式乾門院御匣について」という論文を読むことができますが、安田氏は式乾門院御匣という阿仏尼とも親しかった女流歌人を「如月」だとされていますね。
この論文は久我家の相続争いに関しても大変参考になります。

安田徳子「式乾門院御匣について」

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

駄レス 2018/01/27(土) 01:40:06
ウィキペディアの久我通光の項には

通光の没後に後妻と先妻の子である嫡男久我通忠との間で家領相論が発生して大きな禍根を残した。
すなわち不利となった後妻側は鎌倉幕府との関係が深い有力公家である西園寺家に久我家領を譲ることを条件に庇護を求めたため
(改行引用者)

とあります。
同じ、久我通忠の項には、
1 雅忠のすぐ下の弟(中院雅光)の生母が、その西園寺家に庇護を求めた後妻では? との記述もある
2 ウィキペディアでは通忠の息子で中院を名乗ったのは雅光だけ
という事で、

>>雅忠は一貫して「中院」であり「久我」ではありません

という事であれば、雅忠が中院を名乗ったのもその後妻(ひいては西園寺家)との関係を通じてという推測も出来ます。
既に専門家によって潰された論点であれば、それで構わないのですが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする