正嘉二年(1258)の後嵯峨院の高野御幸の様子は『五代帝王物語』にも描かれているので、これも紹介しておきます。(『群書類従・第三輯』、p442以下)
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又正嘉元年三月廿日高野へ御幸あり。後鳥羽院の御代にありける後、久しくなりつれば、人々の出立、心も詞も及ばず。高野までまいる人は皆旅の粧にて有しに、京いで計供奉の人々は、関白以下よのつねの御幸供奉の姿にて打まじりたれば、殊にめづらしくみえ侍りき。上下の北面に至るまで、錦の狩衣を着するうへは、其外の人々の装束思ひやるべし。或は金のたてに唐錦をはつりてをりたるも有けるとかや。五色のしりがひ紫すそごの鞦などもかけたり。
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実際には正嘉二年三月の話なのに、『五代帝王物語』には正嘉元年、『増鏡』には正嘉三年の出来事のように書かれています。
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別当隆行の下部はみな虎の皮をぞきせて侍し。宰相中将隆顕卿殊にきららしく出立て、行粧おびただしかりしに、父の大納言隆親卿は善勝寺の出納四五人ばかり雑色につくりたてて、白張きせて、白木の柄長ひさごもたせて、世にははれのあるとだに思う気色なくて供奉したりしこそ中々見物にて侍しか。随人の揚馬は例の事にて侍るに、園少将基顕、扇を折て背にさして、くせ物に乗て揚くるひたりし。まことの堪能とみえて面白く侍き。検非違使の随兵までも、いづれもぞをろかなりと見えぬ。
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『増鏡』では検非違使別当の名前は明示されていませんでしたが、こちらには「別当隆行」とあります。
四条隆行(1220-?)は隆親の異母兄・隆綱(1189-?)の息子ですね。
園基顕(1238-1319)は乗馬の名手として登場していますが、園家は持明院家の庶流で、基顕はこの時二十一歳ですね。
随行者で名前が明示されている四人のうち、隆行と隆親・隆顕父子の三人が四条家です。
四条家の結集の場である善勝寺の名前も出て、豪奢な行粧は四条家の経済的な豊かさを印象づけていますが、『増鏡』では四条家の彩りは消えていますね。
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前陳をば京の御所にて御車の前をわたして御覧ぜらる。後陣は鳥羽殿にてぞわたされし。御京出は鳥羽殿へ入せおはしまして、これより高野までとをる人々ばかりまいれり。毎日の御装束行粧書つくすべくもなき事ども也。さて風雨の難なくまいらせおはしまして帰り入せおはしませば、また御迎にまいりて、御京入りもただ同さまなる見物也。対馬守仲朝入道がかたり侍りしは、後鳥羽院の御幸によろづ事の外に超過して侍るよし申き。是等はみな年号も前後したれども、申ついでに書付侍り。
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「対馬守仲朝入道がかたり侍りしは……」については『五代帝王物語』の作者・成立年代論に関わって若干の議論があるのですが、その検討は後日行うつもりです。