学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『五代帝王物語』に描かれた後嵯峨院の高野御幸

2018-01-18 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月18日(木)16時47分56秒

正嘉二年(1258)の後嵯峨院の高野御幸の様子は『五代帝王物語』にも描かれているので、これも紹介しておきます。(『群書類従・第三輯』、p442以下)

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 又正嘉元年三月廿日高野へ御幸あり。後鳥羽院の御代にありける後、久しくなりつれば、人々の出立、心も詞も及ばず。高野までまいる人は皆旅の粧にて有しに、京いで計供奉の人々は、関白以下よのつねの御幸供奉の姿にて打まじりたれば、殊にめづらしくみえ侍りき。上下の北面に至るまで、錦の狩衣を着するうへは、其外の人々の装束思ひやるべし。或は金のたてに唐錦をはつりてをりたるも有けるとかや。五色のしりがひ紫すそごの鞦などもかけたり。
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実際には正嘉二年三月の話なのに、『五代帝王物語』には正嘉元年、『増鏡』には正嘉三年の出来事のように書かれています。

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別当隆行の下部はみな虎の皮をぞきせて侍し。宰相中将隆顕卿殊にきららしく出立て、行粧おびただしかりしに、父の大納言隆親卿は善勝寺の出納四五人ばかり雑色につくりたてて、白張きせて、白木の柄長ひさごもたせて、世にははれのあるとだに思う気色なくて供奉したりしこそ中々見物にて侍しか。随人の揚馬は例の事にて侍るに、園少将基顕、扇を折て背にさして、くせ物に乗て揚くるひたりし。まことの堪能とみえて面白く侍き。検非違使の随兵までも、いづれもぞをろかなりと見えぬ。
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『増鏡』では検非違使別当の名前は明示されていませんでしたが、こちらには「別当隆行」とあります。
四条隆行(1220-?)は隆親の異母兄・隆綱(1189-?)の息子ですね。
園基顕(1238-1319)は乗馬の名手として登場していますが、園家は持明院家の庶流で、基顕はこの時二十一歳ですね。
随行者で名前が明示されている四人のうち、隆行と隆親・隆顕父子の三人が四条家です。
四条家の結集の場である善勝寺の名前も出て、豪奢な行粧は四条家の経済的な豊かさを印象づけていますが、『増鏡』では四条家の彩りは消えていますね。

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前陳をば京の御所にて御車の前をわたして御覧ぜらる。後陣は鳥羽殿にてぞわたされし。御京出は鳥羽殿へ入せおはしまして、これより高野までとをる人々ばかりまいれり。毎日の御装束行粧書つくすべくもなき事ども也。さて風雨の難なくまいらせおはしまして帰り入せおはしませば、また御迎にまいりて、御京入りもただ同さまなる見物也。対馬守仲朝入道がかたり侍りしは、後鳥羽院の御幸によろづ事の外に超過して侍るよし申き。是等はみな年号も前後したれども、申ついでに書付侍り。
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「対馬守仲朝入道がかたり侍りしは……」については『五代帝王物語』の作者・成立年代論に関わって若干の議論があるのですが、その検討は後日行うつもりです。
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「巻六 おりゐる雲」(その6)─土御門顕定と三条公親

2018-01-18 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月18日(木)12時16分9秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p36以下)

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 後土御門内大臣定通の御子顕定の大納言、大将のぞみ給ひしを、院もさりぬべく仰せられければ、除目の夜、殿の内のものどもも心づかひして侍るを、心もとなく思ひあへるに、ひきたがへて、先に聞えつる公基のおとどにぞおはせしやらん、なり給へりしかば、怨みにたへえず、頭おろしてこの高野にこもりゐ給へるを、いとほしくあへなしと思されければ、今日の御幸のついでに、かの室をたづねさせ給ひて、御対面あるべく仰せられ遣したるに、昨日までおはしけるが、夜の間に、かの庵をかき払ひ、跡もなくしなして、いと清げに、白き砂ばかりを、ことさらに散らしたりと見えて人もなし。わが身は桂の葉室の山庄へ逃げ上り給ひにけり。
 そのよし奏すれば、「今更に見えじとなり。いとからい心かな」とぞのたまはせける。
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四条天皇の頓死後、後嵯峨践祚に貢献した土御門定通(1288-1247)の息子の顕定(1215-83)が近衛大将になるのを望んでいたところ、後嵯峨院も承諾の内意を示されていたので、除目の夜、顕定の身内の者も待ち遠しく思っていたところ、予想に反して、先に申し上げた西園寺公基の大臣だったか、大将になられたので、顕定は恨めしく思って出家し、この高野に籠もっていらっしゃったのを、後嵯峨院も気の毒に思われて、今回の御幸のついでに顕定の庵を訪ね、対面しようと思われてその旨の連絡をしておいたところ、昨日までいた顕定が、夜の間にその庵を引き払い、跡もすっかり片付けて、さっぱりと白い砂ばかりを綺麗に撒き散らしたような様子で人もいない。自身は桂の葉室の山荘へ逃げ上っていたのであった。その旨を後嵯峨院に奏上したところ、後嵯峨院は「今更私に会うまいと言うのだな。なかなかきつい性格だ」とおっしゃった。

ということで、顕定の出家が何時のことかと言うと、『公卿補任』建長七年(1255)に、

権大納言正二位 <土御門>源顕定 四十一 淳和奨学両院別当。四月十二日出家。即参籠高野山。

とあります。
また、西園寺公基に「四月十二日転左大将。十二月四日大将上表」、三条公親に「四月十二日兼右大将」とあります。
同日のことなので、顕定の出家は西園寺公基が右大将から左大将に転じ、三条公親が右大将となったことへの抗議であることは間違いなさそうですね。
さて、先に『五代帝王物語』で兄弟が左右近衛大将に並ぶ例の話を検討した際に、

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なお、『公卿補任』で公相が右大将となった建長二年(1250)を見ると、左大将だった二条道良(十七歳)が十二月二十三日にこれを辞し、翌二十四日、花山院定雅(三十三歳)が左大将となっています。
また、右大将だった久我通忠(1216-50)が十二月(『百錬抄』では十一月)二十四日に三十五歳の若さで死んでしまい、同日、公相が右大将となっています。
右大将の久我通忠が死んだその日に公相が右大将となるのは些か不審なので、通忠の死は『百錬抄』の言うように前月二十四日が正しいのかもしれません。
ま、それはともかく、公相が二条道良(良実男、1234-59)に代って左大将になるという話を聞いた「上臈」の花山院定雅(1218-94)が「家も文書も焼払ひて出家」すると騒いだので、定雅を左大将に、公相を右大将とすることになり、徳大寺実基の場合のような「超越の儀」はなくて、円満に治まった訳ですね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4f17e330e70014a9acb4a32e8b1b449

と書きましたが、建長七年の土御門顕定は建長二年の花山院定雅の立場とよく似ていますね。
ただ、西園寺公基は右大将から左大将に転じているので、『五代帝王物語』の話の流れから見ても、むしろ円満な人事異動であり、土御門顕定は三条公親に「超越」されたような感じがします。
そこで土御門顕定(1215-83)と三条公親(1222-92)の経歴を照らし合わせてみると、年齢は土御門顕定が七歳上で、叙爵はそれぞれ五歳、四歳のときですから、ほぼ同レベルのスタートですね。
もちろん七歳違いなので土御門顕定の方が官位官職とも上の時期が続きますが、従三位となって公卿の仲間入りするのは共に嘉禎三年(1237)であり、ここで二人は並びます。
年齢を考えれば、実質的に三条公親が上と言ってもよいと思います。
そして延応元年(1239年)に二人は共に権中納言となりますが、土御門定通が後嵯峨践祚に貢献したことから、仁治三年(1242)に土御門顕定は躍進して権大納言となります。
他方、三条公親が権大納言となったのは建長二年(1250)であり、土御門顕定から見れば、後嵯峨践祚後は三条公親を大きく引き離していたと思えたはずです。
とすると、やはり土御門顕定が「超越の儀」に怒って出家した原因は西園寺公基ではなく、三条公親ですね。

土御門顕定(1215-83)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E9%A1%95%E5%AE%9A
三条公親(1222-92)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E8%A6%AA

こう考えてくると、『五代帝王物語』に載っていた兄弟で左右の近衛大将に並び立つ例の話が『増鏡』に採用されなかった理由は、単に煩雑すぎる話だったからではなく、それを出すと土御門顕定が後嵯峨院との対面をきっぱりと拒絶して京都に逃げ戻ったという非常に面白いエピソードの印象を弱めてしまうからではないかと思います。
『増鏡』にしか記録されていないこのエピソードは面白すぎて、私はかねてから創作ではないかと疑っています。
『増鏡』作者は『五代帝王物語』をヒントにしてこの話を思いつき、反面、『五代帝王物語』の煩雑な考証、特に徳大寺実基や花山院定雅の「超越の儀」の話は新しいエピソードの印象を弱めるので、綺麗さっぱりと削除してしまったのではないかと思います。
なお、『増鏡』作者は『弁内侍日記』に三条公親が「中納言」とあるのを「大納言」に修正していて、三条公親の経歴にはずいぶん詳しいですね。

「巻五 内野の雪」(その10)─三条公親
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcee54acf7cc4e07df6922a8f109d02d

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「巻六 おりゐる雲」(その5)─後嵯峨院、高野御幸

2018-01-18 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月18日(木)09時56分26秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p35以下)

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 明くる年八月七日二の御子坊にゐ給ひぬ。御年十なり。よろづ定まりぬる世の中、めでたく心のどかに思さるべし。
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承明門院が他界した次の年、正嘉二年(1258)八月七日に後深草天皇の同母弟・恒仁親王、後の亀山天皇が皇太子となります。
ちなみに正嘉二年は『とはずがたり』の後深草院二条が生まれた年でもあります。

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 そのまたの三月廿日なりしにや、高野御幸こそ、またこしかた行末もためしあらじと見ゆるまで、世のいとなみ、天の下のさわぎには侍りしか。関白殿、前右大臣、内大臣、左右の大将、検非違使の別当をはじめ残るは少なし。馬・鞍・随身・舎人・雑色・童の、髪・かたち・たけ・姿まで、かたほなるなくえりととのへ、心を尽くしたる装ひども、かずかずは筆にも及びがたし。かかる色もありけりと、珍しくおどろかるる程になん。
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「そのまたの三月廿日なりしにや」という書き方だと正嘉三年の出来事のようですが、実際には正嘉二年三月、恒仁親王立坊より前の話です。
ちなみに『五代帝王物語』にも高野御幸の記事がありますが、何故か「正嘉元年三月廿日高野へ御幸あり」となっています。
さて、正嘉二年の『公卿補任』を見ると、関白は鷹司兼平(1228-94)、「前右大臣」は西園寺公相(1223-37)、内大臣は洞院実雄(1219-73)、左大将は近衛基平(1246-68)、右大将は三条公親(1222-92)、検非違使別当は四条隆行(1220-?)です。
四条隆行は四条隆親(1203-79)の十四歳上の異母兄、隆綱(1189-?)の息子で、『尊卑分脈』によれば母が「源惟義女」、即ち大内惟義の娘ですから、関東と特別な縁のある人ですね。
ただ、惟義を継いだ惟信が承久の乱で朝廷方に付いてしまったため、この関東との縁が隆行にとってそれほど役に立ったとも思えません。

大内惟義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%83%9F%E7%BE%A9

ま、それはともかく、続けます。

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 銀・黄金をのべ、二重三重の織物・うち物、唐・大和の綾錦、紅梅の直衣、桜の唐の綺の紋、こ裾濃、浮線綾、色々さまざまの直衣、うへのきぬ、狩衣に、思ひ思ひの衣を出せり。いかなる龍田姫の錦も、かかるたぐひはありがたくこそ見え侍りけれ。かたみに語らふ人はあらざりけめど、同じ紋も色も侍らざりけるぞ、不思議なる。余りに染め尽くして、なにがしの中将とかや、紺むら濃の指貫をさへ着たりける。それしも珍かにて、いやしくも見え侍らざりけるとかや。院の御さまかたち、所がらはいとど光を添へてめでたく見え給ふ。
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「かたみに語らふ人はあらざりけめど……」は「互いに相談した訳ではなかったろうが、同じ模様も色合いもなかったのは不思議なことだ」という意味ですね。
この後、土御門顕定についての奇妙な話が出てくるのですが、いったんここで切ります。
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