学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

松村敏「大正中期、諏訪製糸業における女工生活史の一断面」(その2)

2018-11-10 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月10日(土)12時45分10秒

さて、合資岡谷製糸会社はどのような会社かというと、

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合資岡谷製糸会社は、1897年に設立され、1918年当時、岡谷に本社工場、埼玉県大宮、茨城県荒川沖、同県真鍋にも工場を持つ約4千釜の大製糸経営であったが、1928年に株式会社組織に改組され、さらに1931年には同社の本社工場は丸興製糸会社の設立に参加した。
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とのことですが(p28)、丸興製糸会社は昭和の大不況期に、倒産の危機にあった多くの会社を救済するために設立された会社ですね。
つまり合資岡谷製糸会社は最終的には経営に行き詰った会社ですが、それは本論文で検討の対象としている1918~20年からはかなり先のことになります。
なお、会社自体は「約4千釜の大製糸経営」とはいえ、主たる分析の対象となっている「北部」工場は168釜なので(p29)、大正後期では中規模、というか小規模ですね。
記述の内容から見ても最新鋭の工場とはとても言えないので、この工場の状況をどこまで一般化できるのか、という問題は最後まで残ります。
ま、それはともかく、「北部」工場での中途退場の実態はというと、

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Ⅱ.岡谷製糸「北部」工場の「帰国」女工

 資料に記載された女工は、「逃走」、他工場の「権利」女工のために有権工場に引き渡したもの、あるいは「東京行」などと記されているものもあり、たんに実家への帰宅のみならず岡谷製糸「北部」工場からいずれかへ転出したものすべてを含んでいる。以下でいう「帰国」も、年末閉業以前の中途退場すべてを含むことにする。
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という点に注意した上で数字を見ると、

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「帰国」女工数は、1918年140名、19年181名、20年159名なので、「北部」工場の全就業女工に占める割合をみると、各年の「北部」工場の女工数を200名と仮定して、それぞれ70%、90%、80%、釜数比では83%、108%、95%というきわめて高い「帰国」率となる。大部分の女工は、さまざまな理由で年途中に実家に帰ったり、あるいはいずれかに転出したりしていたのである。また最好況期の1919年の「帰国」者が最も多く、とくに同年の「逃走」数が突出していたり、反対に同年の解雇がわずか1名であったことなどには景気変動の影響が読み取れよう。ただし彼女らは「養蚕」など農作業のために一時「帰国」を目的とする者も多く、再び年内に工場に戻ってくる者が「帰国」女工中、約半数いた。
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ということで(p30)、「帰国」率の高さにはびっくりしますね。
そして、「帰国」理由中の第一位は「逃走」であり、1918年13名、1919年61名、20年46名の計120名で、三年間の「帰国」総数480名のちょうど4分の1ですね。
となると、悪辣な資本家に奴隷のように働かせられた哀れな工女が必死に逃げた、という「女工哀史」というか、「アンクル・トムの小屋」的なイメージも頭をよぎる訳ですが、しかし、「逃走」した女工で年内に再び戻ってくる人の割合が58%であることをどう考えるのか。
松村氏は、

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これは自発的に戻ってくる場合もあるかもしれないが、工場側の追跡により連れ戻された場合が多いと推定される。すなわち「逃走」後、再入場までの期間をみると(表3)、3分の2近くが一ヵ月未満と短期であり、ほんの1、2日以内の場合もあった。また資料には、「逃走」などの理由の記載とともに「見込ナシ」「止」「他へ移動」(他工場へ移動の意)、「不従事」(他の製糸工場にも不就業の意)など追跡調査の結果が記されているものもある(表4)。山本茂実『あゝ野麦峠』などに記されている工場側の追手の実在が窺われ、前者(「逃走」後ごく短期のうちの再入場)は追手に拘束されたもので、また「見込ナシ」などの記載は実家訪問など工場側の徹底的な追跡調査が読み取れる。
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とされていますが(p34)、「表4 岡谷製糸「北部」工場の「帰国」女工のうち非再入場者の状況」を見ると、「逃走」の合計が16名、全体の合計が47名となっており、この表自体がちょっと理解できないですね。
「表2 岡谷製糸「北部」工場の理由別「帰国」女工数と再入場数」によれば、「逃走」は三年合計で120名、そのうち69名が再入場なので、引き算をすれば「非再入場者」は51名のはずですが、前述のように表4では16名だけです。
何かの間違いではないかと思うのですが、その点を別としても、「見込ナシ」「止」「他へ移動」「不従事」といった僅かな記載だけで「工場側の徹底的な追跡調査が読み取れる」かは疑問です。
まあ、これだけ数が多く、再入場率が58%で、「「逃走」後、再入場までの期間をみると(表3)、3分の2近くが1ヵ月未満と短期であり、ほんの1、2日以内の場合もあった」となると、「逃走」という非常に厳しい言葉にもかかわらず、実際には日常茶飯事、「無断欠勤」に毛の生えた程度の出来事のような感じもします。

http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/2885/1/35-2P229-262.pdf
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