学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その8)

2022-02-09 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月 9日(水)13時05分8秒

早稲田大学教授・田渕句美子氏が『歴史評論』850号(2021年2月)で「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」という論文を書かれていて、最近の『とはずがたり』研究の状況を概観するには便利ですが、田渕氏も後深草院二条の「非実在説」については言及されていません。
まあ、「非実在説」は最近の有力説という訳でもなさそうですね。
それにしても、歴史学界で一貫して「科学運動」の中核を担ってきた歴史科学協議会の機関誌『歴史評論』にしては、「特集/女房イメージをひろげる “Reimagining the Nyōbō (female attendant)”」はなかなか新鮮な感じがしますね。

http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/magazine/contents/kakonomokuji/850.html

さて、『とはずがたり』の時間の流れの中では、文永十一年(1274)正月以降、後深草院が如法経書写のため精進し、女性を近づけないでいた期間に「雪の曙」(西園寺実兼)の子を宿した二条は、その処置に悩み、九月、重病と称して「雪の曙」の女子を出産するも、月日が合わないので後深草院には流産と偽ります。
その子は「雪の曙」がどこかに連れて行ってしまうのですが、翌十月には昨年出生の皇子も死んでしまい、「前後相違の別れ、愛別離苦の悲しみ、ただ身一つにとどまる」などと悲観した二条は出家したいと思ったりします。
そして、(史実としては翌建治元年の出来事であるものの、『とはずがたり』の時間の流れでは)、ちょうど同じ頃に後深草院が皇位継承の不満から出家を決意するも、幕府の斡旋で熈仁親王(伏見天皇)の立太子が決まり、出家を中止します。
そして十一月十日頃、前斎宮の場面となり、母の大宮院と異母妹である前斎宮の対面の場に呼ばれた後深草院は、二条の案内で異母妹と関係を持ちますが、一夜限りであっさり終わってしまいます。
ちなみに『増鏡』では二夜です。
その後、二条の助言により、年末に再び後深草院と前斎宮が逢うことになりますが、その場面に至る前に、二条の行動に激怒した東二条院が出家騒動を起こします。
なかなか忙しい展開ですが、後深草院が出家を中止し、二条もどさくさに紛れて何となく出家を止めやめたとたん、今度は東二条院が出家するという出家騒動の三段重ね的な状況になります。

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 還御の夕方、女院の御方より御使に中納言殿参らる。何事ぞと聞けば、「二条殿が振舞のやう、心得ぬ事のみ侯ふときに、この御方の御伺侯をとどめて侯へば、殊更もてなされて、三つ衣を着て御車に参り候へば、人のみな女院の御同車と申し候ふなり。これせんなく覚え候。よろづ面目なき事のみ候へば、いとまを賜はりて、伏見などにひきこもりて、出家して候はんと思ひ候」といふ御使なり。
 御返事には、
「承り候ひぬ。二条がこと、いまさら承るべきやうも候はず。故大納言典侍、あかこのほど夜昼奉公し候へば、人よりすぐれてふびんに覚え候ひしかば、いかほどもと思ひしに、あへなくうせ候ひし形見には、いかにもと申しおき候ひしに、領掌申しき。故大納言、また最後に申す子細候ひき。君の君たるは臣下の志により、臣下の臣たることは、君の恩によることに候ふ。最後終焉に申しおき候ひしを、快く領掌し候ひき。したがひて、後の世のさはりなく思ひおくよしを申して、まかり候ひぬ。再びかへらざるは言の葉に候。さだめて草のかげにても見候ふらん。何ごとの身の咎も候はで、いかが御所をも出だし、行方も知らずも候ふべき。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0217b4a1ee800d0589c8a81ce8312f8c

そして、後深草院の二条弁護は止まるところを知りません。

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 また三つ衣を着候ふこと、いま始めたることならず候。四歳の年、初参のをり、『わが身位あさく候。祖父、久我の太政大臣が子にて参らせ候はん』と申して、五つ緒の車数、衵〔あこめ〕・二重織物許〔ゆ〕り候ひぬ。そのほかまた、大納言の典侍は、北山の入道太政大臣の猶子とて候ひしかば、ついでこれも、准后御猶子の儀にて、袴を着そめ候ひしをり、腰を結はせられ候ひしとき、いづ方につけても、薄衣白き袴などは許すべしといふこと、ふり候ひぬ。車寄などまで許り候ひて、年月になり候ふが、今更かやうに承り侯ふ、心得ず候。
 いふかひなき北面の下臈ふぜいの者などに、ひとつなる振舞などばし候ふ、などいふ事の候ふやらん。さやうにも候はば、こまかに承り候ひて、はからひ沙汰し候ふべく候ふ。さりといふとも、御所を出だし、行方知らずなどは候ふまじければ、女官ふぜいにても、召し使ひ候はんずるに候。
 大納言、二条といふ名をつきて候ひしを、返し参らせ候ひしことは、世隠れなく候ふ。されば、呼ぶ人々さは呼ばせ候はず。『われ位あさく候ふゆゑに、祖父が子にて参り候ひぬるうへは、小路名を付くべきにあらず候ふ』『詮じ候ふところ、ただしばしは、あかこにて候へかし。何さまにも大臣は定まれる位に候へば、そのをり一度に付侯はん』と申し侯ひき。
 太政大臣の女〔むすめ〕にて、薄衣は定まれることに候ふうへ、家々めんめんに、我も我もと申し候へども、花山・閑院ともに淡海公の末より、次々また申すに及ばず候。久我は村上の前帝の御子、冷泉・円融の御弟、第七皇子具平親王より以来、 家久しからず。されば今までも、かの家女子〔をんなご〕は宮仕ひなどは望まぬ事にて候ふを、母奉公のものなりとて、その形見になどねんごろに申して、幼少の昔より召しおきて侍るなり。さだめてそのやうは御心得候ふらんとこそ覚え候ふに、今更なる仰せ言、存の外に候。御出家の事は、宿善内にもよほし、時至ることに候へば、何とよそよりはからひ申すによるまじきことに候」
とばかり、御返事に申さる。そののちは、いとどこと悪しきやうなるもむつかしながら、ただ御一ところの御志、なほざりならずさに慰めてぞ侍る。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4257b903593a74e6a65e4e6b7a759ec6

ここまで一方的に二条に加担し、東二条院への配慮を欠いた手紙を出したら、東二条院は売り言葉に買い言葉で出家し、後深草院と西園寺家の関係が悪化して、非常に難しい事態になったでしょうね。
果たしてこれが事実の記録なのか。
コメント
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