学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

是澤恭三氏(1894-1991)

2022-02-19 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月19日(土)21時11分52秒

>筆綾丸さん
>「それを続き具合も」

これは私の写し間違いかもしれないですね。
是澤氏のお名前で検索しても良い記事はなく、「インターネットアーカイブ」の私の記事の略歴が一番詳しいような感じもします。
ま、これは一般の検索ではヒットしませんが。


もう少し詳しいものがないかなと思って、『日本史研究者辞典』(吉川弘文館、1999)を見たところ、これには載っていました。

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是沢恭三(これさわ きょうぞう) 一八九四-一九九一。
文化庁文化財保護委員会美術工芸課書跡調査担当。
一八九四年(明治二七)一二月二六日、愛媛県西宇和郡神山村(現、八幡浜市)に生まれる。一九二〇年(大正九)、国学院大学文学部国史科卒業。二一年、宮内省図書寮に入り、編修官補、掌典補(兼任)、編修官を歴任。四七年(昭和二二)、国立博物館(現、東京国立博物館)に移る。五〇年、文部省文化財保護委員会美術工芸課書跡調査担当。六〇年、同定年退官。六六年、淑徳大学社会福祉学部教授。七〇年、同退職。一九九一年(平成三)二月九日没、九六歳。社寺の文化財調査や天皇宸翰調査を進めた。
《主要業績》『重要文化財会津塔寺八幡宮長帳』(心清水八幡神社、一九五八)、『見ぬ世の友』(出光美術館、一九七三)
《追悼文》山本信吉「是沢恭三氏の訃」(『日本歴史』五一五、一九九一)
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終戦の前年、「紀元二千六百年奉祝会」が出版した超豪華本、『宸翰英華』の「宸翰英華編纂出版事業経過概要」には、大勢の「委員」の一人として「宮内省図書寮御用掛 是沢恭三」の名がありますが、この経歴からすると、是沢氏は同事業にも相当深く関わっているような感じがしますね。

「宸翰英華編纂出版事業経過概要」

>姫の前は堀田真由。
私の長澤まさみ、ナレーターと二役説は穿ち過ぎでした。

『鎌倉殿の13人』における「姫の前」の不在

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「鼠と麒麟の足跡」 2022/02/19(土) 14:14:07
小太郎さん
道草ばかりで恐縮ですが。
ご引用の是澤恭三氏の文に、伏見天皇の仮名書きは自らの書流で、
「道風や行成のものは、ちくちくしたり、鼠の足跡の様であるが、それを続き具合も美しく如何にも豊潤で気品高雅である。」
とあります。
(注:「それを続き具合も」は、「その継ぎ具合も」か、「それを継ぎ、具合も」か、「仮名の続き具合」か、意味不明)

ちくちくして鼠の足跡のような字体を継承して発展させると、なぜ、美しく豊潤で気品高雅な字体、たとえば、麒麟の足跡のように凛とした字体になれるのか、ギャップがありすぎて、ほとんど理解不能です。
小松茂美『天皇の書』を見ると、伏見院の仮名書きは後鳥羽院の仮名書きに似ているように思われる。後鳥羽院のほうが格段に能筆ですが。

蛇足
姫の前は堀田真由。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1730f65565fb22ffe3963d8d879e167ce109430d
 
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その3)

2022-02-19 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月19日(土)19時26分43秒

北山准后九十賀は『とはずがたり』『増鏡』その他の史料を詳しく比較検討して行くと面白いことが多くて、私も以前、それなりに熱心に取り組んでみたのですが、今から振り返ると、些か袋小路に踏み込んでしまっていたようなところもなきにしもあらずです。
関連する投稿を紹介すると、それだけで大変な分量となってしまうので、興味を持たれた方は次の記事のリンク先などを見てください。

再々考:遊義門院と後宇多院の関係について(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4430da70243b52e83f21cd81a5269698

ということで、続きです。(p46)

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 また阿部泰郎は、『とはずがたり』が、作者の父系・母系それぞれの栄光ある先祖、すなわち源通親の『高倉院厳島御幸記』『高倉院昇霞記』で描かれた王の死の記を象り、また四条隆房の『艶詞』の小督の物語を、また九十賀記は『安元御賀記』を意識していることを指摘する。『とはずがたり』全体に、前述の自家の歌業への誇りに留まらず、家門意識が網の目の如く張り巡らされているのであろう。
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私は独特の玄妙な言い回しを多用される阿部泰郎氏(名古屋大学名誉教授、龍谷大学教授)とは相性が悪くて、阿部氏の言われることにはあまり賛成できないのですが、ここは一般論としては別に間違いというほどのこともないでしょうね。
さて、この後、『増鏡』との関係が論じられます。

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 『とはずがたり』は上皇の間近にいた女房による女房メディアの宮廷史であり、ゆえに『増鏡』に流れ込む。たとえば、平安期の『栄花物語』(巻八・初花)には、『紫式部日記』冒頭から敦成親王誕生記事がそのままの順序で長大に取り入れられていること等から、『栄花物語』は多数の女房日記・記録を吸収して編集されたと考えられている。つまりは女房メディアそのものである。これと同様に、『増鏡』が資料として吸収する日記の一つが『とはずがたり』である。ゆえに『増鏡』には、『とはずがたり』作者の姿が相対化されて描きこまれることにもなる。『増鏡』では、雅忠女は「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人」(第九・草枕)、「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」(第一〇・老の波)と記されるだけで、上皇に仕える女という位置以外の私的な面は一切捨象されている。
 また、『増鏡』(第一一・さしぐし)には、正応元(一二八八)年、東御方所生の伏見天皇に入内する西園寺実兼女の鏱子(後の永福門院)に、女房として奉仕する雅忠女が見える。「出車十両、(中略)二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける」とあり、三条という女房名に屈辱を感じて嘆く姿が描かれる。この記事は現存の『とはずがたり』にはないが、こうした無名の一女房の感懐を記すものは女房日記以外には考え難く、『とはずがたり』の散逸した部分である可能性が高いであろう。さらには、憶測であるが、この『増鏡』の入内記事の一部は、現存しない『とはずがたり』に拠ったものかもしれない。
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『増鏡』巻九「草枕」で二条が「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人」として登場する場面は共通テストに出題された箇所ですね。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ecc12b5a152b7d3fb1102feb83c0ef62

巻十「老の波」で「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」が登場する箇所は、

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 弥生の末つ方、持明院殿の花盛りに、新院わたり給ふ。鞠のかかり御覧ぜんとなりければ、御前の花は梢も庭も盛りなるに、ほかの桜さへ召して、散らし添へられたり。いと深う積りたる花の白雪、跡つけがたう見ゆ。上達部・殿上人いと多く参り集まる。御随身・北面の下臈など、いみじうきらめきてさぶらひあへり。わざとならぬ袖口ども押し出だされて、心ことにひきつくろはる。
 寝殿の母屋〔もや〕に御座〔おまし〕対座にまうけられたるを、新院いらせ給ひて、「故院の御時、定めおかれし上は、今更にやは」とて、長押〔なげし〕の下へひきさげさせ給ふ程に、本院出で給ひて、「朱雀院の行幸には、あるじの座をこそなほされ侍りけるに、今日のみゆきには、御座〔おまし〕をおろさるる、いと異様に侍り」など、聞え給ふ程、いと面白し。むべむべしき御物語は少しにて、花の興に移りぬ。
 御かはらけなど良き程の後、春宮おはしまして、かかりの下にみな立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過ぐる程に、まらうどの院のぼり給ひて、御したうづなど直さるる程に、女房別当の君、また上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七つ、紅のうち衣、山吹のうはぎ、赤色の唐衣、すずしの袴にて、銀〔しろがね〕の御杯〔つき〕、柳箱にすゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなどのたまふ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9da95b5daaaca1845c2e80637a4ee1d1

というもので、なかなか華麗な場面ですね。
ここも『とはずがたり』が大幅に「引用」されていますが、文章は『増鏡』の方が上品な雰囲気になっています。
想定されている時期の設定なども違っていますね。

『とはずがたり』に描かれた「持明院殿」蹴鞠(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3faeb9774d463811233cc87be00af5b7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/960f629a5cc08b7f21f6c03ef780b260
「持明院殿」考
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1c595d9d93557b3eac348bef3fe41821

巻十一「さしぐし」で二条が「三条という女房名に屈辱を感じて嘆く姿」が描かれた箇所は『とはずがたり』と『増鏡』の関係を考える上で非常に重要なので、別途詳しく検討します。

「御賀次第」の作者・花山院家教
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/82c86694ff4f2a83c124ac891a4bcca5
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その2)

2022-02-19 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月19日(土)11時43分35秒

田渕句美子氏の学位は「お茶の水女子大学 博士(人文科学)」だそうですから、略称は「お茶の水博士」なのでしょうか。
国文学研究資料館を経て2008年から早稲田大学教授で、2020年には『女房文学史論 ―王朝から中世へ』(岩波書店)で第42回角川源義賞を受賞されており、女房文学については現在の国文学界の研究水準を体現されている方と言ってよいでしょうね。

早稲田大学研究者データベース
第42回角川源義賞【文学研究部門】受賞

さて、第四節には『とはずがたり』と『増鏡』の関係についての言及もあるので、冒頭から丁寧に見て行くことにします。(p44以下)

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  四 記録する女房

 女房日記は、宮廷の行事等を記録するという役割と機能をもつ。しかし『とはずがたり』は、中世女房日記としては稀なことに、宮廷の公的な諸行事についての記録が少なく、私的な出来事の記述が大半を占める。巻一から巻三の女房生活で儀式等を淡々と記録しているのは、東二条院の姫宮(後の遊義門院)御産の記事だけで、分量的にも多くはない。しかし作者は東二条院の女房でもあり、御産の記事を記すのは女房日記の重要な役割であり、一面では当然あるべき記述とも言える。
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いったん、ここで切ります。
東二条院が姫宮(遊義門院)を生んだのは文永七年(1270)九月十八日ですが、『とはずがたり』は文永八年八月の出来事としており、一年と一ヵ月ずれています。

『とはずがたり』に描かれた遊義門院誕生の場面

そして、『増鏡』にも『とはずがたり』の記述を若干簡略化した記事が載っています。
なお、『増鏡』でその誕生が詳細に描かれるのは、大宮院(1225-92)が生んだ後深草院(1243-1304)と、大宮院の妹、東二条院(1232-1304)が生んだ遊義門院(1270-1307)の二人だけですね。

「巻八 あすか川」(その11)─遊義門院誕生

続きです。

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 巻三で、後深草院御所から追放された後に、大宮院から懇請されて北山准后九十賀に女房として加わる。『とはずがたり』はここで突然、九十賀を記録する長大な叙述(巻三の四分の一を占める)に変わる。これは鎌倉中期を代表する盛儀であるが、作者二条は祝賀を記録する女房に転身したかのようである。この記述の中で、「よろづあぢきなきほどにぞはべりし」「いつまで草のあぢきなく見渡さる」「かきくらす心の中は」「憂き身はいつもとおぼえて」など、華やかな祝宴への違和感をも記すが、それは『紫式部日記』などにもみられる筆致であり、基本的には記録的態度で叙述される。なお、『とはずがたり』は『実冬卿記』の別記『北山准后九十賀』を参照したとされてきたが、小川剛生により、これは「次第」(有識の公卿が作成してあらかじめ参列者に配るもの)に基づいて記しているからであり、「室礼や儀式の記述が、『とはずがたり』『実冬卿記』『実躬卿記』『宗冬卿記』の四者でしばしば近似するのは、同一の次第に取材していることにかかり、互いに依拠関係があったのではない」ことが論証されている。このような北山准后九十賀の記は、『とはずがたり』の中でやや異質に見えるが、これを包含していることこそが、女房の文化的役割の多様性、女房日記の複層性を示すものであろう。
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北山准后・四条貞子(1196-1302)は後深草院二条の母方の祖父・四条隆親の同母姉で、西園寺実氏室となり、大宮院・東二条院を産んだ女性です。
彼女は百七歳という驚異的な長寿の人ですが、九十歳の祝賀行事をしてもらったのは弘安八年(1285)のことですね。

「序章 北山の准后 貞子の回想」(その1)(その2)

『とはずがたり』には、北山准后九十賀の様子がうんざりするほど詳細に描かれています。
また、『増鏡』にも長大な記事がありますが、こちらは『増鏡』の中でも単一エピソードとしては最長の記事ですね。
私は以前、『とはずがたり』と『増鏡』の北山准后九十賀の記事を比較してあれこれ検討したことがあるのですが、『とはずがたり』の記事そのものを確認するためには旧サイトの「原文を見る-『とはずがたり』」が便利かと思います。
ま、これも途中までですが。


>筆綾丸さん
是澤恭三は亀山院の書風について、

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 つぎに大覚寺統の亀山天皇は、はじめは弘誓院教家の風を学ばれ、ついで世尊寺流を学ばれた。教家は後京極流の祖である良経の子で、良経の弟左大臣良輔に養われて子となり、大納言、皇后宮大夫などになつている。実父良経と並んで能書の聞えが高かつた。入木抄にもそのことが見えているが、書風は法性寺流の余風であると評されている。天皇は御兄の後深草天皇とは異つて御性格も俊敏溌剌としておられ、文藻に長じ材芸に富まれて、修業も進んでその書風も法性寺、弘誓院、あるいは世尊寺の風体から脱せられ、よほど闊達な一流を出されているのである。南禅寺蔵の禅林禅寺起願文案(挿43)は永仁七年(1299)の染筆で、正本は焼失して案文の方のみ残つたのである。しかもこれも下辺が焼損じて漸く火難を免れたものである。禅林禅寺というのは、のちの南禅寺のことで天皇落飾後これを離宮とせられ、ついで禅院とされたのである。この起願文案には右に述べた御性格が明かに察せられる。


などと言われていますね。
良く言えば自由闊達、悪く言えば我儘な書風ということでしょうか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話 2022/02/18(金) 23:06:04
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB%E3%82%81%E3%81%A5%E3%82%8B%E5%A7%AB%E5%90%9B
亀山院の書は、虫めづる姫君ではないけれど、
昆虫(たとえば、カミキリムシ)の触覚みたいな字で、
散らし書きには見られぬ、昆虫標本のような整然とした
味わいがありますね。
コメント
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