投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月14日(月)13時23分26秒
それでは『増鏡』が描く前斎宮の場面を紹介して行きます。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p207以下)
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まことや、文永のはじめつ方、下り給ひし斎宮は後嵯峨の院の更衣腹の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後、御服にており給へれど、なほ御いとまゆりざりければ、三年まで伊勢におはしまししが、この秋の末つ方、御上りにて、仁和寺に衣笠といふ所に住み給ふ。月花門院の御次には、いとたふたく思ひ聞え給へりし、昔の御心おきてをあはれに思し出でて、大宮院いとねんごろにとぶらひ奉り給ふ。亀山殿におはします。
十月ばかり斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をもいらせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて、御幸あり。その夜は女院の御前にて、昔今の御物語りなど、のどやかに聞え給ふ。
『とはずがたり』と比較すると、『とはずがたり』では二条と東二条院の対立という背景が描かれていましたが、『増鏡』ではきれいさっぱり消えています。
また、『とはずがたり』では、この場面は文永十一年(1274)の「十一月の十日あまりにや」の出来事ですが、『増鏡』では翌建治元年の「十月ばかり」とされていて、『とはずがたり』と『増鏡』では年が一年、月も一ヵ月ずれていますね。
さて、第二日目です。
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又の日夕つけて衣笠殿へ御迎へに、忍びたる様にて、殿上人一、二人、御車二つばかり奉らせ給ふ。寝殿の南おもてに御しとねどもひきつくろひて御対面あり。とばかりして院の御方へ御消息聞え給へれば、やがて渡り給ふ。女房に御はかし持たせて、御簾の内に入り給ふ。
女院は香の薄にびの御衣、香染めなど奉れば、斎宮、紅梅の匂ひに葡萄染めの御小袿なり。御髪いとめでたく、盛りにて、廿に一、二や余り給ふらんとみゆ。花といはば、霞の間のかば桜、なほ匂ひ劣りぬべく、いひ知らずあてにうつくしう、あたりも薫る御さまして、珍らかに見えさせ給ふ。
院はわれもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。
上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語などよき程にて、故院の今はの比の御事など、あはれになつかしく聞え給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いとらうたげなり。をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて、今宵は果てぬ。
『とはずがたり』では二条が「御太刀もて例の御供に参る」とありますが、『増鏡』では二条の名前はなく、単に「女房」とあるだけです。
その他、細かい比較はリンク先を見ていただくとして、『増鏡』は全面的に『とはずがたり』に依拠しているのではなく、若干の追加情報も含んでいますね。
果たしてそれは『増鏡』作者が別の史料に拠ったのか、それとも勝手に創作したのか。
さて、この次から、共通テストの【文章Ⅰ】に相当する部分となります。
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院も我が御方にかへりて、うちやすませ給へれど、まどろまれ給はず。有りつる御面影、心にかかりて覚え給ふぞいとわりなき。「さしはへて聞こえんも、人聞きよろしかるまじ。いかがはせん」と思し乱る。御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん、猶ひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜しと思す。けしからぬ御本性なりや。
『とはずがたり』の「いかがすべき、いかがすべき」が「いかがはせん」になるなど、『とはずがたり』の露骨な描写が『増鏡』では若干優雅な表現に変わっています。
「御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん」は『とはずがたり』にはない『増鏡』の独自情報ですね。
また、「けしからぬ御本性なりや」は『増鏡』の語り手である老尼の感想です。
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なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべきゆかりありて睦しく参りなるるを、召し寄せて、「馴れ馴れしきまでは思ひよらず。ただ少しけ近き程にて、思ふ心の片端を聞こえん。かく折良き事もいと難かるべし」とせちにまめだちてのたまへば、いかがたばかりけん、夢うつつともなく近づき聞こえさせ給へれば、いと心うしと思せど、あえかに消えまどひなどはし給はず。らうたくなよなよとして、あはれなる御けはひなり。鳥もしばしば驚かすに、心あわたたしう、さすがに人の御名のいとほしければ、夜深くまぎれ出で給ひぬ。
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共通テストの【文章Ⅰ】では、「らうたくなよなよとして」以下は省略されていました。
「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべきゆかりありて睦しく参りなるる」はもちろん二条のことですね。
後深草院が前斎宮に贈った「知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは」という歌は『増鏡』では存在していません。
※この投稿を受けて筆綾丸さんが次のように書かれています。
凱歌 2022/02/14(月) 17:33:05
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%93%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%AD%8C
「いかがすべき、いかがすべき」から「いかがはせん」
への改変が、かりに項羽の「虞兮虞兮奈若何」を踏ま
えたものだとすれば、『とはずがたり』よりも『増鏡』
のほうが、はるかに強烈なイロニーだ、ということに
なりますね。沈痛な垓下の歌ならぬ、能天気な漁色家の
凱歌だ、と。
もっとも、あの時代、「奈若何」をどのように訓み
下していたのか、わからないのですが。
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%93%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%AD%8C
「いかがすべき、いかがすべき」から「いかがはせん」
への改変が、かりに項羽の「虞兮虞兮奈若何」を踏ま
えたものだとすれば、『とはずがたり』よりも『増鏡』
のほうが、はるかに強烈なイロニーだ、ということに
なりますね。沈痛な垓下の歌ならぬ、能天気な漁色家の
凱歌だ、と。
もっとも、あの時代、「奈若何」をどのように訓み
下していたのか、わからないのですが。