学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その9)

2022-02-10 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月10日(木)11時55分44秒

二条が他人の口を借りて自分の家柄と人柄、そして美貌を誉めまくるのは『とはずがたり』における常套手段で、既に大宮院がかなり誉めていますが、ここで後深草院が絶賛し、更に巻二で「近衛大殿」(鷹司兼平?)が、赤の他人なのにいくら何でもそこまで誉めないだろう、というくらい二条を褒めちぎります。
私は素直に、この種の誉め言葉は二条の創作だろうと思いますが、例えば久保田淳氏は、

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 東二条院の抗議に対する院の返事は、このころの院の作者への愛情が並々ならぬものがあったことを物語る。記憶による叙述とは考えにくいが、草稿などを見せられて、写しておいたものを、ここで院の愛情の証として引くか。
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などと言われています。(小学館新編日本古典文学全集、p277)
また、次田香澄氏は、

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 院の返事は、作者が読まされたのを控えておいたものか、委曲を尽くしている。これを通して、久我家の出自・家柄、母と院との関係、宮廷における作者の地位や境遇、二条と命名された事情、亡父と院との約束など、女房としての作者に関することがすべて出てくる。
 作者は院の言葉を利用して、自分からは直接書けない自賛にかかわる事柄を、ここにまとめて書いたことになる。
 女院の短い詞には含まれていない作者の行跡について、院がそれを忖度して述べているのが興味あることである。最後に女院の出家云々に対し、冷たく突っぱねたのを見て、作者も自信を持ったであろう。【後略】
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と言われていますが(p243以下)、「作者は院の言葉を利用して、自分からは直接書けない自賛にかかわる事柄を、ここにまとめて書いたことになる」と核心を突く指摘をされていながら、なぜそれが「院の返事は、作者が読まされたのを控えておいたものか」と結びつくのか、非常に不思議です。
さて、十一月十日頃に亀山殿で後深草院と一夜限りの関係を持った前斎宮は、十七歳でありながら殆ど遣り手婆のように老練な二条の仲介で、十二月にもう一度後深草院と関係を持ちます。

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 まことや、前斎宮は、嵯峨野の夢ののちは御訪れもなければ、御心のうちも御心ぐるしく、わが道芝もかれがれならずなど思ふにと、わびしくて、「さても年をさへ隔て給ふべきか」と申したれば、げにとて文あり。
 「いかなるひまにても思し召し立て」など申されたりしを、御養母と聞えし尼御前、やがて聞かれたりけるとて、参りたれば、いつしか、かこちがほなる袖のしがらみせきあへず、「神よりほかの御よすがなくてと思ひしに、よしなき夢の迷ひより、御物思ひの」いしいしと、くどきかけらるるもわづらはしけれども、「ひましあらばの御使にて参りたる」と答ふれば、「これの御ひまは、いつも何の葦分けかあらん」など聞ゆるよしを伝へ申せば、「端山繁山の中を分けんなどならば、さもあやにくなる心いられもあるべきに、越え過ぎたる心地して」と仰せありて、公卿の車を召されて、十二月の月の頃にや、忍びつつ参らせらる。
 道も程遠ければ、ふけ過ぐるほどに御わたり、京極表の御忍び所も、このころは春宮の御方になりぬれば、大柳殿の渡殿へ、御車を寄せて、昼の御座のそばの四間へ入れ参らせ、例の御屏風へだてて御とぎに侍れば、見し世の夢ののち、かき絶えたる御日数の御うらみなども、ことわりに聞えしほどに、明けゆく鐘にねを添へて、まかり出で給ひし後朝の御袖は、よそも露けくぞ見え給ひし。


これで後深草院と前斎宮に関するエピソードは終わりで、以後、前斎宮は『とはずがたり』に登場しません。
改めてこの長大なエピソードを振り返ると、直前に二条が東二条院に嫌われて東二条院の御殿への出入りを差し止められ、更に二条が後深草院と同車して亀山殿に向かったことで東二条院の怒りが爆発して出家騒動になっているので、巻三で東二条院と決定的に対立した二条が後深草院にも見放されて御所を追放される、いわば『とはずがたり』宮中篇のクライマックス場面への伏線的な位置づけになっていますね。
とにかく史実では前斎宮・愷子内親王は父・後嵯峨院崩御のその年に帰京しているので、『とはずがたり』の前斎宮の場面は全部創作というのが私の考え方ですが、それでも『とはずがたり』では二条追放の伏線という、それなりに重要な意味があります。
しかし、この特に政治的重要性を持たないエピソードは、鎌倉時代を公家の立場から通観した歴史物語の『増鏡』にも大幅な増補・改変を経て膨大な分量で引用され、巻九「草枕」の後半を埋め尽くしており、その巻名の「草枕」も、後深草院が前斎宮に贈ったという「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」という歌にちなんでいます。
そして、この歌は『とはずがたり』には存在せず、『増鏡』のみに記された歌です。
このように『とはずがたり』は単純に『増鏡』の「資料」だったとは言い難いのですが、では『とはずがたり』と『増鏡』はどのような関係にあったのか。

>筆綾丸さん
>モーツァルトの交響曲第40番の最終楽章には、Allegro assai(極めて速く)という演奏記号が付いていて

『とはずがたり』の巻一は文永八年(1271)正月、二条が十四歳で後深草院の愛妾の一人となり、文永九年二月の後嵯峨院崩御に続いて八月に父・雅忠が死去、十月に「雪の曙」と契り、文永十年二月、後深草院の皇子を産むという具合いに、ここまではそれなりに現実的な時間の流れです。
しかし、文永十一年(1274)に入ると、二月、後深草院が如法経書写のために女性関係を断っている間に「雪の曙」の子を懐妊し、九月に出産するも流産だと偽装、十月八日に昨年生まれた皇子が死去し、出家したいと願います。
ところが十一月十日頃には嬉々として後深草院と前斎宮の関係を斡旋し、十二月にも再度斡旋、という具合いに、本当に目まぐるしい展開になりますね。
更に、この忙しさは更に翌建治元年(1275)正月に持ち越され、『とはずがたり』屈指のコメディ「粥杖事件」となります。
このあたり、Allegro assai(極めて速く)そのものですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Scherzando, ma ・・・ 2022/02/09(水) 14:30:10
モーツァルトの交響曲第40番の最終楽章には、Allegro assai(極めて速く)という演奏記号が付いていて、これが「疾走」に相当しますが、『とはずがたり』執筆の基本方針は、Scherzando ma non troppo(スケルツァンド・マ・ノン・トロッポ/戯れるように、しかし、戯れすぎずに)、というのがいちばんいいような気がします。
付記
scherzando は、諧謔的に、戯画的に、とも訳せます。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%86-95305
イタリア語に関連して言えば、『La Divina Commedia』(神曲=神聖喜劇)を書いたダンテ・アリギエーリ(1265-1321)は、二条と同時代の人なんですね。二条はベアトリーチェとは似ても似つかぬ女ですが。
コメント
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