学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その17)

2022-02-15 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月15日(火)11時46分18秒

続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p223以下)

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 明日は宮も御帰りと聞ゆれば、今宵ばかりの草枕、なほ結ばまほしき御心のしづめがたくて、いとささやかにおはする人の、御衣など、さる心して、なよらかなるを、まぎらはし過ぐしつつ、忍びやかにふるまひ給へば、驚く人も無し。
 何や彼やとなつかしう語らひ聞こえ給ふに、なびくとはなけれど、ただいみじうおほどかなるに、やはらかなる御様して、思しほれたる御けしきを、よそなりつる程の御心まどひまではなけれど、らうたくいとほしと思ひ聞え給ひけり。長き夜なれど、更けにしかばにや、程なう明けぬる夢の名残は、いとあかぬ心地しながら、後朝になり給ふ程、女宮も心苦しげにぞ見え給ひける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b66ecfbbbb8585e29499abc8f9d4725

『とはずがたり』では後深草院は前斎宮と一度関係を持った後で、簡単に靡くつまらない女だったと感想を述べ、三日目の夜、二条の予想に反し、「酒を過して気分が悪い。腰をたたいてくれ」などと言って寝てしまいます。
しかし、『増鏡』では後深草院は「今宵ばかりの草枕、なほ結ばまほしき御心のしづめがたくて」、再び行動を起こします。
そして、『とはずがたり』では(文永十一年)十一月十日頃の亀山殿の場面の後、年末にもう一度、二条の仲介で後深草院が前斎宮と関係を持ちますが、こちらは『増鏡』では省略されています。
その代わり、『増鏡』では西園寺実兼と二条師忠が前斎宮と関係を持つという全く独自の展開となります。

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 その後も、折々は聞え動かし給へど、さしはへてあるべき御ことならねば、いと間遠にのみなん。「負くるならひ」まではあらずやおはしましけん。
 あさましとのみ尽きせず思しわたるに、西園寺の大納言、忍びて参り給ひけるを、人がらもきはめてまめしく、いとねんごろに思ひ聞こえ給へれば、御母代の人なども、いかがはせんにて、やうやう頼みかはし給ふに、ある夕つ方、「内よりまかでんついでに、又かならず参り来ん」と頼め聞こえ給へりければ、その心して、誰も待ち給ふ程に、二条の師忠の大臣、いと忍びてありき給ふ道に、彼の大納言、御前などあまたして、いときらきらしげにて行きあひ給ひければ、むつかしと思して、この斎宮の御門あきたりけるに、女宮の御もとなれば、ことごとしかるべき事もなしと思して、しばしかの大将の車やり過してんに出でんよ、と思して、門の下にやり寄せて、大臣、烏帽子直衣のなよよかなるにており給ひぬ。
 内には大納言の参り給へると思して、例は忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対のつまよりおりて参り給ふに、門よりおり給ふに、あやしうとは思ひながら、たそがれ時のたどたどしき程、なにのあやめも見えわかで、妻戸はづして人のけしき見ゆれば、なにとなくいぶかしき心地し給ひて、中門の廊にのぼり給へれば、例なれたる事にて、をかしき程の童・女房みいでて、けしきばかりを聞こゆるを、大臣覚えなき物から、をかしと思して、尻につきて入り給ふ程に、宮もなに心なくうち向ひ聞こえ給へるに、大臣もこはいかにとは思せどなにくれとつきづきしう、日頃の心ざしありつるよし聞えなし給ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a4a9cc3e7d2b0873f824e27bff3f0000

「負くるならひ」は『伊勢物語』(六十五段)の歌、「思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ」を踏まえた表現ですね。
さて、前斎宮の新しい愛人として登場した「西園寺大納言」実兼は、「けしからぬ御本性」の後深草院と異なり、「人がらもきはめてまめしく」、前斎宮を大切に世話してくれたので、前斎宮の母代わりの立場の人も信頼していたそうですが、ここに更に「二条の師忠の大臣」が登場します。
西園寺実兼は建長元年(1249)生まれで、建治元年(1275)には二十七歳、権大納言で、幕府の斡旋により皇太子となった熈仁親王(伏見天皇)の春宮大夫です。
他方、二条師忠は建長六年(1254)生まれで西園寺実兼より五歳下ですが、摂関家の人なので昇進は極めて順調で、文永六年(1269)に十六歳で内大臣、文永八年(1271)に右大臣、建治元年(1275)には左大臣ですから、官職では西園寺実兼を圧倒しています。
しかし、『増鏡』が独自に追加した前斎宮の場面では、二条師忠の役回りはいささか滑稽なものですね。

西園寺実兼(1249-1322)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%85%BC
二条師忠(1254-1341)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%B8%AB%E5%BF%A0
コメント
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その16)

2022-02-15 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月15日(火)10時51分41秒

続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p209以下)

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 日たくる程に、大殿籠り起きて、御文奉り給ふ。うはべはただ大方なるやうにて、「ならはぬ御旅寝もいかに」などやうに、すくよかに見せて、中に小さく、
  夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる
「いとつれなき御けしきの聞こえん方なさに」ぞなどあめる。悩ましとて御覧じも入れず。強ひて聞こえんもうたてあれば、「なだらかにもてかくしてを、わたらせ給へ」など聞えしらすべし。


『とはずがたり』では寝坊した後深草院が手紙を贈ったとはありますが、その具体的内容についての説明はなく、「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」という歌も存在しません。
ここは『増鏡』の独自情報ですね。
また、『とはずがたり』では、「御返事にはただ、『夢の面影はさむる方なく』などばかりにてありけるとかや」ということで、前斎宮が一応は返事を出したことになっていますが、『増鏡』ではそうした記述はありません。

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 さて御方々、御台など参りて、昼つかた、又御対面どもあり。宮はいと恥しうわりなく思されて、「いかで見え奉らんとすらん」と思しやすらへど、女院などの御気色のいとなつかしきに、聞えかへさひ給ふべきやうもなければ、ただおほどかにておはす。けふは院の御けいめいにて、善勝寺の大納言隆顕、檜破子やうの物、色々にいときよらに調じて参らせたり。三めぐりばかりは各別に参る。


『とはずがたり』では後深草院は「日高くなるまで御殿ごもりて、昼といふばかりになりて、おどろかせおはしまして」という具合いに完全に寝過してしまい、四条隆顕に準備させた宴会は「夕がたになりて」やっと始まるのですが、『増鏡』では「昼つかた」から始まります。
その他、細かな相違がありますね。

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 そののち「あまりあいなう侍れば、かたじけなけれど、昔ざまに思しなずらへ、許させ給ひてんや」と、御けしきとり給へば、女院の御かはらけを斎宮参る。その後、院聞こしめす。御几帳ばかりを隔てて長押の下へ、西園寺の大納言実兼、善勝寺の大納言隆顕召さる。簀子に、長輔・為方・兼行などさぶらふ。あまたたび流れ下りて、人々そぼれがちなり。
 「故院の御ことの後は、かやうの事もかきたえて侍りつるに、今宵は珍しくなん。心とけてあそばせ給へ」など、うち乱れ聞こえ給へば、女房召して御箏どもかき合はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしもおもしろし。
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ここも『とはずがたり』では大宮院が「あまりに念なく侍るに」と酒を勧めるのに対し、『増鏡』では後深草院が「あまりあいなう侍れば」と酒を要望する形になっているなど、細かな相違があります。

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 こたみはまづ斎宮の御前に、院身ずから御銚子を取りて聞こえ給ふに、宮いと苦しう思されて、とみにもえ動き給はねば、女院、「この御かはらけの、いと心もとなくみえ侍るめるに、こゆるぎの磯ならぬ御さかなやあるべからん」とのたまへば、「売炭翁はあはれなり。おのが衣は薄けれど」といふ今様をうたはせ給ふ。御声いとおもしろし。
 宮聞こしめして後、女院御さかづきを取り給ふとて、「天子には父母なしと申すなれど、十善の床をふみ給ふも、いやしき身の宮仕ひなりき。一言報ひ給ふべうや」とのたまへば、「さうなる御事なりや」と人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ。「御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れゐて遊ぶなれ」とうたひ給ふ。其の後、院聞こし召す。善勝寺、「せれうの里」を出す。人々声加へなどしてらうがはしき程になりぬ。
 かくていたう更けぬれば、女院も我が御方に入らせ給ひぬ。そのままのおましながら、かりそめなるやうにてより臥し給へば、人々も少し退きて、苦しかりつる名残に程なく寝入りぬ。


『とはずがたり』では大宮院の嫌味っぽい発言に、後深草院が「生を受けてよりこの方、天子の位を踏み、太上天皇の尊号をかうぶるに至るまで、君の御恩ならずといふことなし。いかでか御命をかろくせん」と答えてから長寿の祝意を込めた今様を歌っていますが、『増鏡』では同席の人々が「人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ」という反応を示したことになっていて、これは『増鏡』が追加した独自情報です。
なお、和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)などの戦前の『増鏡』注釈書では「院」は全て亀山院と解釈されていましたが、そう考えると、亀山院を支援していたはずの大宮院が「院」に嫌味を言う理由が分からず、宴席の参加者の反応も不可解なものとなります。
この点、『とはずがたり』の出現で「院」が後深草院であることが明確になったため、この場面も非常にすっきりと理解できるようになった訳ですね。
なお、井上宗雄氏は「語釈」で、

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○一言報い給ふべうや もう一つお歌いなさい。戦前の注釈は、下の歌謡を斎宮が歌ったものとして、この言葉を大宮院の斎宮への注文としてみていたが、『とはずがたり』の出現により、下の歌は院が歌ったことがわかったので、これも院への注文と解されるようになった。
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と書かれていますが(p222)、「院」が亀山院という基本構図の影響で、戦前はずいぶん不自然な解釈が強いられていた訳ですね。

>ザゲィムプレィアさん
>筆綾丸さん
私は細川氏の研究者としての業績は参考にさせてもらっていますが、それ以外の活動には興味がないので、レスは控えます。

※ザゲィムプレィアさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

五輪塔を叩く音 2022/02/14(月) 20:08:05(ザゲィムプレィアさん)
昨日『鎌倉殿の13人』の第6回が放送されましたが、それについて細川重男氏が「んで、今週の感想。」の題で面白い文章をブログに上げています。
https://ameblo.jp/hirugakojima11800817/
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 伊豆山神社(走湯権現)にあるらしい千鶴くんのお墓ということになっている五輪塔(ごりんとう)は、その形状について、石造物(せきぞうぶつ)研究者の人々には、いろいろ意見があることだと思うが、確実に言えることは、八重さんが叩いた時の「ポコ」という音からして、石ではないというコトである。

 おそらくは、発泡スチロールと推定される。
 よって、そもそも石造物ではない。

 したがって、平安時代末期のモノとしては、火輪(かりん)の反りが強過ぎるとか、水輪(すいりん)の形状が球形過ぎるとか言うのは、すべてムダである。
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私は放送をそれほど集中して見て(聞いて)いなかったので、音には気付きませんでした。改めて録画をチェックすると確かに音がしています。
これは八重役のガッキーを追ったマイクが発泡スチロール(?)を叩いた音を拾ったのか、それとも効果音を後から加えたのか。人の手のような柔らかい物で石を叩いても、あまり音は出ないのですが。
画像なら蛇足という言葉がありますが、音声についてこれを表現する言葉はないと思います。これをきっかけに「墓音」という言葉が日本語に加わるでしょうか。

豆腐と墓石の角 2022/02/14(月) 23:38:05(筆綾丸さん)
録画で見ると、八重(新垣結衣)が左手を伸ばして墓石に触れた瞬間、確かにポンと鳴っているので、もしかすると、いちばんタマゲたのはガッキーだったかもしれません。え、これ、発泡スチロールなの、イヤねえ、予算が余ってるくせに、NHKって、案外、ケチなのね、と。ビールのCMではないけれど、日本の皆さん、お疲れ生です、フフフ。
八重は伊豆山権現に避難している政子たちに面会したあと、裏山の一角らしいところにポツンと建っている五輪塔を訪うていますが、千鶴くんは伊東か北条の川で善児によって殺されているので(第1話)、熱海の伊豆山権現まで遺体をわざわざ運ぶのは、かりに荼毘の後の遺骨だとしても、地理的に非常に不自然です。川辺に穴を掘って埋めるか、あるいは、近在の寺の墓地に埋めれば済む話です。伊東氏が伊豆山権現と深い深い関係にあれば、話は別ですが。
余談ながら、善児は端役として三谷の映画に欠かせない梶原善の名を踏まえていますが、善なる児が「必殺仕事人」(飾り職人の秀のように、敵の延髄を刺して殺す)だというのも、三谷らしいアソビで、和歌でいうところの本歌取りですね。
墓石の音は、豆腐の角に頭をぶつて死ぬではないけれど、墓も叩けば時にはポンと音がする(恋しい母への返事かもしれない)、というような、実は、入念に仕組んだシャレかもしれません。あの音がミスなら、カット、カット、とかなんとか言って、撮り直せば済むことですからね。

付記
ドラマの五輪塔は発泡スチロール製で石造物ではないから形状を云々するのはすべてムダだ、という細川重男氏の話は、言語論として、論点がまったくずれています。映像なのだから、発泡スチロール製であろうが、石製であろうが、豆腐製であろうが、そんなことは問題ではない。石らしく見えればいいだけのことで、それが映画というものです。
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