学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その5)

2022-02-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月20日(日)22時21分37秒

田渕氏は「また、「一昨年の春三月十三日に、初めて「折らでは過ぎじ」とかやうけたまはり初めしに……」(巻二)は「有明の月」(性助法親王)から求愛された時のことを回顧するが、こうした記述は当該箇所にみられない」と言われますが、これはちょっと不可解な記述で、田渕氏の誤解ではないかと思われます。
まず、「一昨年の春三月十三日に」云々とある部分は「女楽事件」で御所を出奔した二条が、再び醍醐の真願房のもとに行く場面に出てきます。
「女楽事件」から始めると話が長くなってしまいますが、それを話さないと訳が分からないので簡単に説明すると、建治三年(1277)三月、後深草院が『源氏物語』の六条院の女楽の真似をする行事を企画し、二条は「明石の上」という冴えない役を演ずることになります。
それだけでも不満なのに、この頃、晩年の娘「今参り」を贔屓するようになっていた二条の祖父・四条隆親が、行事の最中、二条が「今参り」の下座になるように位置の変更を要求し、屈辱を感じた二条は御所を飛び出し、行方不明になってしまいます。
ちなみに、この時、二条は後深草院の子を妊娠していて、三・四ヵ月くらいなのだそうで、子供を産んだら出家しよう、などとも考えます。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その3)─「隆親の女の今参り」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c27ba6c45e5a0a0dca79c8196e4b18f
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その4)─「こは何ごとぞ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/06ffd2d11e2bc080d6e41548fd343d5d
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その5)─「宣陽門院の伊予殿」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f06418db732477905db11318c567bd30

そして二条は、何でこんなことになってしまったのだろう、と思案し、その原因を「有明の月」に求めます。

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 つくづくと案ずれば、一昨年の春、三月十三日に、はじめて「折らでは過ぎじ」とかや承り初めしに、去年の十二月にや、おびたたしき誓ひの文を賜はりて、幾ほども過ぎぬに、今年の三月十三日に、年月候ひなれぬる御所のうちをも住みうかれ、琵琶をも長く思ひ捨て、大納言かくれて後は親ざまに思ひつる兵部卿も、快からず思ひて、「わが申したることをとがめて出づるほどのものは、わが一期にはよも参り侍らじ」など申さるると聞けば、道とぢめぬる心地して、いかなりけることぞといと恐ろしくぞ覚えし。

【私訳】つくづくと思えば、一昨年の春、三月十三日に、有明から初めて「折らでは過ぎじ」という言葉があったが、去年の十二月には恐ろしい起請文のお手紙をいただいて、いくらも過ぎないうちに、今年の三月十三日、長い年月仕え慣れた御所からも出てしまい、琵琶をも一生思い切り、父大納言が亡くなってからは親のように思っていた兵部卿(隆親)も私を快からず思って、「私が申したことを咎めて出て行った者ですから、私の生きている間は、よもや御所には参りますまい」などと申されていると聞けば、どこも道が途絶えたような心地がして、いったいどうしたことだったろうと、まことに恐ろしく思われた。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e60ac8d996034d4f856ce01740b32b8f

つまり、「一昨年の春、三月十三日」に仁和寺御室の「有明の月」(九条道家男の開田准后法助説と後深草院の異母弟の性助法親王説あり。田渕氏を含む国文学者の多くは後者)から唐突に恋の告白を受け、ちょうど二年後の「今年の三月十三日」に御所出奔という事態になったのだから、全ては「有明の月」が悪いのだ、ということですね。
ここで「有明の月」との関係を中心に少し整理すると、二条は正嘉二年(1258)生まれなので建治三年(1277)には二十歳です。
ただ、文永十年(1273)二月、十六歳のときに後深草院皇子を生み、同年末に愛人の「雪の曙」の子を妊娠して、翌文永十一年九月にその女児を産んでいるので、既に妊娠も三回目ですね。
また、「雪の曙」との間に女児が生まれた翌月には前年生んだ後深草院皇子が死去し、二条は出家行脚を思ったとありますので、出家を思い立つのもこれが二度目です。
そして建治元年(1275)三月十三日、「有明の月」が二条に言い寄ってくるのですが、このときは拒否します。
次いで同年九月、後深草院が病気となり、延命供の祈禱のために御所に来た「有明の月」と二条は関係を持ち、その後も文通を重ねるのですが、建治二年九月、「有明の月」のしつこさが嫌になって絶交を通告すると、三ヵ月後に「有明の月」から不気味な起請文が贈られてきます。
これが「おびたたしき誓ひの文」のことですね。
ということで、後深草院二条は建治三年(1277)には二十歳に過ぎませんが、既に妊娠は三回目、子供は二人(皇子は既に死去)、夫が一人で愛人二人、出家希望も二度目となかなか人生経験は豊富です。
さて、「一昨年の春、三月十三日」の様子は次の通りです。

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 かくて三月の頃にもなりぬるに、例の後白河院御八講にてあるに、六条殿長講堂はなければ、正親町の長講堂にて行はる。結願十三日に御幸なりぬる間に、御参りある人あり。「還御待ち参らすべし」とて候はせ給ふ。二棟の廊に御わたりあり。
 参りて見参に入りて、「還御は早くなり侍らん」など申して、帰らんとすれば、「しばしそれへ候へ」と仰せらるれば、何の御用ともおぼえねども、そぞろき逃ぐべき御人柄ならねば、候ふに、何となき御昔語り、「故大納言が常に申し侍りしことも、忘れず思し召さるる」など仰せらるるも、なつかしきやうにて、のどのどとうち向ひ参らせたるに、何とやらん思ひの外なることを仰せられ出だして、「仏も心きたなき勤めとや思し召すらんと思ふ」とかや承るも、思はずに不思議なれば、何となくまぎらかして立ち退かんとする袖をさへ控へて、「いかなるひまとだに、せめてはたのめよ」とて、まことにいつはりならず見ゆる御袖の涙もむつかしきに、還御とてひしめけば、引き放ちまゐらせぬ。
 思はずながら、不思議なりつる夢とやいはんなど覚えてゐたるに、御対面ありて、「久しかりけるに」などとて九献すすめ申さるる、御配膳をつとむるにも、心の中を人や知らんといとをかし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e1719453aaac1081484c38f6e51ea6d0

少し長くなったので説明は次の投稿で行いますが、「何とやらん思ひの外なることを仰せられ出だして」とあるので、初対面の高僧「有明の月」がいきなり二条に恋心を告白したことは明らかです。
そして、これを受けて二条は二年後に、「一昨年の春三月十三日に、初めて「折らでは過ぎじ」とかやうけたまはり初めしに……」と言っている訳で、「思ひの外なること」と曖昧だった「有明の月」の発言が、具体的には「折らでは過ぎじ」だったと判明する訳ですね。
ただ、発言のおおよその内容は既に明らかなので、田渕氏のように「こうした記述は当該箇所にみられない」と言うのは変です。
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その4)

2022-02-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月20日(日)12時22分7秒

『増鏡』で「久我大納言雅忠の女」が「三条という女房名に屈辱を感じて嘆く」場面、「こうした無名の一女房の感懐を記すものは女房日記以外には考え難」いのは確かですが、そもそも女房名が気にくわないみたいな、当人以外にはどうでも良いような話が何故に『増鏡』に登場するのか。
「『増鏡』が資料として吸収する日記の一つが『とはずがたり』」ですから、「三条」云々の記述が「『とはずがたり』の散逸した部分」に存在していた「可能性」は否定できません。
しかし、資料に書いてあるからといって、それらを何でもかんでも採用したら収拾がつかなくなりますから、『増鏡』作者は当然に個々の情報の重要性を勘案して、不要なものはバッサバッサと切り捨てたはずです。
それなのに、『増鏡』にはこんな当人以外にはどうでも良い、つまらない話が何故に採用されたのか。
ま、これは田渕氏に質問しても、納得できる回答は得られそうもない感じですね。
その他、田渕氏の見解には種々疑問が生じますが、まずは田渕説を一通り見ておくことにします。
ということで、続きです。(p47)

-------
 『とはずがたり』には巻一から巻五までのあちこちに、現存の『とはずがたり』以外の部分の存在を示唆する記述が、断片的に見出される。例えば「むばたまの面影は別に記しはべれば、これには漏らしぬ」(巻一)は、別に記したと明記している。また「一昨年の春三月十三日に、初めて「折らでは過ぎじ」とかやうけたまはり初めしに……」(巻二)は「有明の月」(性助法親王)から求愛された時のことを回顧するが、こうした記述は当該箇所にみられない。またこの少しあとに「雪の曙」が文中に現れるが、「雪の曙」西園寺実兼は、巻一冒頭から主要人物として登場しているのに、ここに唐突にこの名が出現している。また准后九十賀の歌会(巻三)で、後宇多天皇、亀山院、東宮らの歌を書き記したあと、「このほかのをば、別に記し置く」とあり、別に和歌をまとめて書き置いたことが記される。また自身の出家時のことを回想し、「一年今はと思ひ捨てし折、京極殿の局より参りたりしをこそ、この世の限りとは思ひしに……」(巻四)とあるが、出家時の記述は現存の『とはずがたり』にはなく、不自然である。さらに、八幡参籠と春日社写経奉納の場面(巻五)では、それぞれ文中に脱落があり、「本のまま、ここより紙を切られて候」というような書き入れがある。
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いったん、ここで切ります。
「むばたまの面影は別に記しはべれば、これには漏らしぬ」は、文永十年(1273)正月、十六歳になったばかりの二条の年頭所感として出てきます。
『とはずがたり』の出来事を年表にすると、前年の文永九年は本当に忙しい年で、まず正月に後嵯峨院が重態となり嵯峨に移ると、翌二月十五日、二月騒動で北条時宗の異母兄・六波羅南方の北条時輔が討たれ、二条は嵯峨から六波羅付近に立ち上る煙を見ます。
そして二日後の十七日に後嵯峨院崩御となり、葬送儀礼が続きます。
父・雅忠は出家を願うも許されず、五月に病気になって、六月には二条の第一子懐妊が分かり、七月、後深草院が雅忠を見舞うも、翌八月三日に雅忠死去。
十月、妊娠中の二条は乳母の家で「雪の曙」実兼と契り、同月、「母方のうば」が死去。
十一月末、二条は御所を退出、醍醐の勝倶胝院に籠もりますが、十二月二十日過ぎ、後深草院御幸があり、続いて「年の残りも、いま三日ばかり」の厳寒の時期、しかも吹雪の最中に「雪の曙」の来訪となり、「今日はぐらし九献にて暮れぬ」となります。
次いで乳母が迎えに来たので京に帰ると、年が明けます。
そして、十六歳になった二条は、

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よろづ世の中もはえなき年なれば、元旦・元三の雲の上もあいなく、私の袖の涙もあらたまり、やる方もなき年なり。春の初めにはいつしか参りつる神の社も、今年はかなはぬことなれば、門の外まで参りて、祈誓申しつる志より、むば玉の面影は、別に記し侍ればこれにはもらしぬ。

【次田香澄訳】すべて世の中も(諒聞で)晴々しくない年であるので、元日や三ガ日の宮中も味気なく、私自身の父の喪の悲しみも、新年とともに新たに思い出され、心の晴らしようもない年である。新春の初めにはいつもさっそくお参りしていた石清水八幡宮も、今年はそれがかなわないことであるから、門の外まで参って祈請申しあげた心の内をはじめ、夢想に見た面影については、別に記したのでここには書かない。

http://web.archive.org/web/20061006205728/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa1-25-yukinoakebonoraiho.htm

という感想を述べます。
「むば玉の面影は、別に記し侍ればこれにはもらしぬ」は、まるで多作の流行作家が、その話は『とはずがたり』とは別の作品に書いたからそちらを見てね、とでも言っているような感じがして、田渕氏の言われるように「現存の『とはずがたり』以外の部分の存在を示唆する記述」かどうか、私は疑問を感じます。
それにしても、正月にこの感想を述べた二条は、翌二月十日頃、後深草院の皇子を出産するので、前年末、醍醐に籠もって後深草院、次いで「雪の曙」を迎え、後者とは終日酒盛りをしていた、というのは妊娠八か月の出来事です。
十五歳の初産の女性が厳寒期に醍醐のような「山深き住まひ」に行くこと自体が相当に異常な話だと思いますが、そこに夫と愛人が相次いで訪問、後者とは終日酒盛りというのはなかなかシュールな展開です。
まあ、私は『とはずがたり』は自伝風の小説と考えているので、どんなに忙しいスケジュールだろうと、どんなにシュールな展開だろうと別に困らないのですが、田渕氏は、『とはずがたり』には多少の虚構が含まれるにしても、あくまで「女房日記」という立場ですから、これらも基本的には事実の記録とされるのでしょうね。

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