投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月17日(木)12時28分43秒
『増鏡』では後深草院と前斎宮の二夜にわたる情事は建治元年(1275)の「十月ばかり」の出来事なので、それに続く前斎宮・西園寺実兼・二条師忠の三角関係のエピソードは建治二年(1276)以降の話となりそうです。
ただ、そうすると「幾程なくて」前斎宮が没したという弘安七年(1284)二月十五日まではけっこうな時間が流れていますが、これは西園寺実兼が「こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給」い、財産分与なども行なってあげてから「幾程もなく」ということでしょうか。
また、二月十五日という日付も若干気になります。
これは釈迦の命日であって、『増鏡』の序文の冒頭は「二月の中の五日は、鶴の林に薪尽きにし日なれば、かの如来二伝の御かたみのむつましさに、嵯峨の清凉寺にまうでて」云々で始まっています。
だから何なのだ、と言われればそれまでですが、わざわざ死去の日が記されている人物も『増鏡』全体の中では僅少で、特に歴史的に重要な人物でもない前斎宮についてここまで詳しく書くのは何故か、という疑問は残ります。
ま、それはともかく、巻九「草枕」は、ほんの少しだけ残っているので、一応紹介しておきます。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p233以下)
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新院には一年〔ひととせ〕近衛大殿<基平>の姫君、女御に参り給ひにしぞかし。女御と聞えつるを、この程、院号あり。新陽明門院とぞ聞ゆめる。建治二年の冬頃、近衛殿にて若宮生まれさせ給ひにしかば、めでたくきらきらしうて、三夜五夜七夜九夜など、いまめしく聞えて、御子もやがて親王の宣下などありき。
以上で『増鏡』巻九「草枕」の全文を紹介しましたが、巻九は鎌倉時代を公家の立場から概観した歴史物語である『増鏡』の中でも、かなり変な巻ですね。
そもそも全体の六割を占める前斎宮エピソードは分量的に相当にバランスが悪く、これ以上に長大なエピソードは巻十「老の波」の北山准后九十賀だけです。
西園寺実氏室で大宮院・東二条院の母である北山准后(1196-1302、百七歳)の九十歳を祝う行事は、分量的には前斎宮エピソードの倍近くあって、現代の読者にとってはうんざりするほど長い話ですが、まあ、こちらは公家社会の華やかな盛儀なので、それなりに歴史的重要性があるとの説明も可能です。
しかし、前斎宮エピソードには、どう見ても歴史的重要性は皆無です。
また、巻九「草枕」の前半は皇位継承をめぐる複雑な政治過程を描いているのに、後半の前斎宮エピソードは政治とは直接関係ない宮中秘話、要するにエロ話ですが、何故にこの二つが一つの巻にまとめられているのか。
しかも分量とタイトルから見て、後者の方に重点が置かれていますが、これは何故なのか。
私としては、この巻は後深草院がいかなる人物であるかを明らかにする目的があると考えることで、前半と後半を統一的に理解できるのではないかと思っています。
まず、前提として、『増鏡』は決して政治的に中立な書物ではなく、その立場は一貫して大覚寺統寄りです。
「巻八 あすか川」(その13)─後嵯峨法皇崩御(その2)
「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔
第三回中間整理(その8)
新年のご挨拶(その4)
『増鏡』は文永九年(1272)に崩御した後嵯峨院の遺詔は亀山院の子孫を皇統と定めるものと明記していた、という立場ですが、これは史実ではありません。
史実としては、後嵯峨院の遺詔は財産分与を定めていただけです。
ただ、後嵯峨院の意向は、既に文永五年(1268)、亀山皇子の世仁親王(後宇多天皇)が生後僅か八カ月で皇太子として定められていたことで明らかだったともいえ、幕府は大宮院に後嵯峨院の遺志を確認した上で、皇統を亀山子孫とすることに同意したようです。
しかし、これに反発した後深草院は文永十二年(1275)四月に出家騒動を起こして幕府の仲介を要請し、結果的に熈仁親王(伏見天皇)の立坊という成果を得ます。
これは大覚寺統の立場から見れば許し難い幕府の専横であり、それを招いた後深草院の行動も、朝廷の基礎を揺るがし、後の皇統迭立の大混乱をもたらした身勝手な振る舞いです。
このような後深草院を『増鏡』巻九「草枕」はどのように描いているか。
まず、後深草院は(火災で焼失していたために現実には存在していない)六条院長講堂で「血写経」という陰気な仏事を行います。
この時、「御掟の思はずなりしつらさをも思し知らぬにはあらねど、それもさるべきにこそはあらねど」(井上著、p193)ということで、後深草院は自分の行動が父・後嵯峨院の意向に背いていることを熟知していた、という前提です。
そして、出家騒動で幕府に仲介を求めた結果、北条時宗が「新院へも奏し、かなたこなたなごめ申して、東の御方の若宮を坊に奉りぬ」(同、p203)という事態となりますが、時宗の判断も「故院の御おきては、やうこそあらめなれど」(後嵯峨院の御遺詔は深いわけがあるだろうが)」ということで、ここでも熈仁親王の立坊は後嵯峨院の遺志に反していることが再確認されています。
そこで、大覚寺統寄りの『増鏡』としては、皇統の分裂という歴史的誤りを惹き起こした後深草院がいかに人間的に問題のある人物であるかを明らかにするために、まず、前斎宮との二夜の「草枕」の場面で、後深草院の「けしからぬ御本性」(同、p209)、即ち好色さと冷酷さを強調します。
そして、後深草院に冷たく捨てられた前斎宮を西園寺実兼が保護し、そこに二条師忠が滑稽な役回りで登場する、『とはずがたり』には存在しない三角関係のエピソードを追加することにより、立派な人格者である西園寺実兼との比較の上で、後深草院の冷酷さを改めて印象付けています。
要するに、持明院統の祖である後深草院は本当に駄目な我儘男なんですよ、という印象を読者に与えるのが『増鏡』作者の目的だ、というのが私の見方です。
>筆綾丸さん
>前斎宮のエピソードは、『源氏物語』「賢木巻」の野宮の段を踏まえたのだろう、
御指摘のように『源氏物語』の方は喜劇の要素がないので、私としては『増鏡』の作者にとって直接の参考にはならなかったのではないかと考えます。
この点、もう少し考えてから改めて論じるつもりです。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「斎宮のあとさき」 2022/02/16(水) 16:52:48
https://hiroshinakamura.jp/nohnonomiya/
前斎宮のエピソードは、『源氏物語』「賢木巻」の野宮の段を踏まえたのだろう、と私は考えています。
六条御息所が、一人娘の斎宮とともに、伊勢下向前、嵯峨の野宮で精進潔斎しているところへ、光君が訪ねきて、一夜を明かします。二人の間にかつてのような実事はなく(たぶん)、光君と斎宮の間にも何もありません。
なお、この斎宮は六条御息所と前坊(廃太子)の娘で、伊勢から帰った後、冷泉帝(光君と藤壺中宮の不義の子)の女御になり、後世、秋好中宮と呼ばれます。
二条は、おそらく、この野宮の段を踏まえて、後深草院と前斎宮の話を創作したのだ思います。
『とはずがたり』の舞台は大宮院の嵯峨の御所、『源氏物語』の舞台は嵯峨の野宮、ともに嵯峨であり、さらに面白いのは、前者は伊勢から帰任した後の前斎宮、後者は伊勢へ下向する前の斎宮、もっと露骨に言えば、前者は神と通じた後のいわば経験者、後者は神に使える前の未通女、というあざやかなパロディになっていることです。
まるでキアロスクーロ(Chiaroscuro)の絵を見るような趣があります。内容的には、『源氏物語』の話は短調で悲劇的な暗、『とはずがたり』の話は長調で喜劇的な明、というコントラストになります。
https://hiroshinakamura.jp/nohnonomiya/
前斎宮のエピソードは、『源氏物語』「賢木巻」の野宮の段を踏まえたのだろう、と私は考えています。
六条御息所が、一人娘の斎宮とともに、伊勢下向前、嵯峨の野宮で精進潔斎しているところへ、光君が訪ねきて、一夜を明かします。二人の間にかつてのような実事はなく(たぶん)、光君と斎宮の間にも何もありません。
なお、この斎宮は六条御息所と前坊(廃太子)の娘で、伊勢から帰った後、冷泉帝(光君と藤壺中宮の不義の子)の女御になり、後世、秋好中宮と呼ばれます。
二条は、おそらく、この野宮の段を踏まえて、後深草院と前斎宮の話を創作したのだ思います。
『とはずがたり』の舞台は大宮院の嵯峨の御所、『源氏物語』の舞台は嵯峨の野宮、ともに嵯峨であり、さらに面白いのは、前者は伊勢から帰任した後の前斎宮、後者は伊勢へ下向する前の斎宮、もっと露骨に言えば、前者は神と通じた後のいわば経験者、後者は神に使える前の未通女、というあざやかなパロディになっていることです。
まるでキアロスクーロ(Chiaroscuro)の絵を見るような趣があります。内容的には、『源氏物語』の話は短調で悲劇的な暗、『とはずがたり』の話は長調で喜劇的な明、というコントラストになります。