学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その12)

2022-02-12 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月12日(土)21時35分44秒

元寇にほんの少し触れた後、話題は後深草院の出家騒動に移ります。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p197以下)

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 新院は世をしろしめす事変らねば、よろづ御心のままに、日ごろゆかしく思し召されし所々、いつしか御幸しげう、花やかにて過ぐさせ給ふ。いとあらまほしげなり。
 本院はなほいとあやしかりける御身の宿世〔すくせ〕を、人の思ふらんこともすさまじう思しむすぼほれて、世を背かんのまうけにて、尊号をも返し奉らせ給へば、兵仗をもとどめんとて、御随身ども召して、禄かづけ、いとまたまはする程、いと心細しと思ひあへり。
 大方の有様、うち思ひめぐらすもいと忍びがたきこと多くて、内外〔うちと〕、人々袖どもうるひわたる。院もいとあはれなる御気色にて、心強からず。今年三十三にぞおはします。故院の四十九にて御髪おろし給ひしをだに、さこそは誰々も惜しみ聞えしか。東の御方も、後れ聞えじと御心づかひし給ふ。


「今年三十三にぞおはします」とありますが、後深草院は寛元元年(1243)生まれなので、数えで三十三歳ということは建治元年(1275)ですね。
ここで注意する必要があるのは、『とはずがたり』では後深草院の出家騒動とそれに続く前斎宮エピソードは前年、文永十一年(1274)の出来事とされている点です。
『とはずがたり』では巻一の最後に前斎宮エピソードが出てきて、巻二に入ると、その冒頭に、

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 ひまゆく駒のはやせ川、越えてかへらぬ年なみの、わが身につもるをかぞふれば、今年は十八になり侍るにこそ。百千鳥〔ももちどり〕さへづる春の日影、のどかなるを見るにも、何となき心のなかの物思はしさ、忘るるときもなければ、花やかなるもうれしからぬ心地ぞし侍る。


とあり、二条は正嘉二年(1258)生まれですから、数えで十八歳だと建治元年(1275)です。
従って、後深草院の出家騒動と前斎宮エピソードは前年の文永十一年の出来事となり、『とはずがたり』と『増鏡』で一年のずれがあります。
ま、それはともかく、『増鏡』の続きです。

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 さならぬ女房・上達部の中にも、とりわきむつましう仕まつる人、三、四人ばかり御供仕まつるべき用意すめれば、ほどほどにつけて、私〔わたくし〕も物心細う思ひ嘆く家々あるべし。かかることども東〔あづま〕にも驚き聞えて、例の陣の定めなどやうに、これかれ東武士ども、寄り合ひ寄り合ひ評定しけり。
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先に「東の御方も、後れ聞えじと御心づかひし給ふ」とありましたが、「東の御方」は洞院実雄女・愔子(1246-1329)で、熈仁親王(伏見天皇)の母ですね。
『増鏡』では「東の御方」に加えて、「さならぬ女房・上達部の中にも、とりわきむつましう仕まつる人、三、四人ばかり」出家予定だとありますが、『とはずがたり』では、出家する女房は「東の御方」と二条となっています。
即ち、

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 この秋ごろにや、御所さまにも世の中すさまじく、後院の別当などおかるるも御面目なしとて、太政天皇の宣旨を天下へ返し参らせて、御随身ども召しあつめて、みな禄ども賜はせていとま賜びて、久則一人、後に侍るべしとありしかば、めんめんに袂をしぼりてまかり出で、御出家あるべしとて人数定められしにも、女房には東の御方・二条とあそばれしかば、憂きはうれしきたよりにもやと思ひしに、鎌倉よりなだめ申して、


とあって、「女房には東の御方・二条」ですから「東の御方」と二条は「女房」として同格扱いですが、『増鏡』では「東の御方」だけが明示され、二条の名前は消えていますね。

>筆綾丸さん
>冗談めかして言えば、承久の乱以後、「紅旗征戎非吾事」が朝廷の基本方針で、

史実としては朝廷も元寇対策に相当尽力していますね。
文永十一年十月五日に蒙古・高麗の大軍が対馬を攻めたとの情報は十月十八日に京都に届き、九州が占領されたらしいなどという誤報もあって、大騒動になったようです。
もちろん、朝廷には武力がないので、対応といっても山陵使や伊勢以下十六社への奉幣使の発遣程度ですが、これを無意味と考えるのは現代人の感覚で、当時としては朝廷もそれなりに頑張った、というべきでしょうね。

龍粛「八 文永の役における公武の対策」
『北条時宗』 参考文献

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

省筆 2022/02/12(土) 15:09:49
小太郎さん
二条が定家の『明月記』を読んだはずはありませんが、まるで「紅旗征戎非吾事」のパロディのように見えますね。
冗談めかして言えば、承久の乱以後、「紅旗征戎非吾事」が朝廷の基本方針で、二条の省筆は、そんな政治状況への諷刺をも暗示しているのだ、と。
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その11)

2022-02-12 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月12日(土)12時59分42秒

『増鏡』巻九「草枕」の続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p192以下)

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 本院は、故院の御第三年のこと思し入りて、睦月の末つ方より六条殿の長講堂にて、あはれに尊く行はせ給ふ。御指の血を出して御手づから法花経など書かせ給ふ。僧衆も十余人が程召し置きて懺法など読ませらる。御掟の思はずなりしつらさをも思し知らぬにはあらねど、それもさるべきにこそはあらめ、といよいよ御心を致してねんごろに孝じ申させ給ふさま、いと哀れなり。新院もいかめしう御仏事嵯峨殿にて行はる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9efdd135944be1585591ae9c0b27084c

後深草院が「御指の血を出して御手づから法花経など書かせ給ふ」などと、現代人には些か不気味な感じもする血写経の話が出てきますが、これは『とはずがたり』に基づいています。
『とはずがたり』では参加した僧侶の人数が「経衆十二人」、期間が「正月より二月十七日まで」、「御手の裏をひるがへして」(故院の御手蹟の裏に)と『増鏡』より具体的ですが、反面、血写経の目的は記されていません。
この点、『増鏡』は故院の三回忌としていて、二月十七日は後嵯峨院の命日ですから、『増鏡』の記述から『とはずがたり』の記述が合理的に説明できるという関係になっています。
ところで、六条殿・長講堂は『増鏡』に後深草院が血写経を行なったと記されている文永十一年(1274)正月の三ヵ月前、文永十年(1273)十月十二日に火事で焼失しており、再建されたのが文永十二年(建治元年、1275)四月なので、文永十一年正月には物理的に存在していません。
これをどのように考えたらよいのか。
実は、後深草院の血写経は『とはずがたり』の中ではけっこう重要な出来事です。
というのは、この重要な仏事に際して、後深草院は女性関係を一切断っており、従って、この間に「雪の曙」の子を妊娠した二条の相手が後深草院のはずはなく、二条は九月に女児を出産したものの、後深草院には早産だと偽った、という展開になります。
後深草院の血写経を起点とする『とはずがたり』の妊娠・出産騒動はハラハラ・ドキドキの連続で、些かコミカルなところもあり、ドラマとしては非常に面白いものです。
しかし、「雪の曙」こと西園寺実兼が、元寇(文永の役)の直前の時期、関東申次の重職にあるにもかかわらず、春日大社に籠もると称して一切の職務を放擲し、愛人の出産にかかりきりになっていたなどという場面もあって、これら全てを史実と考えるのは無理が多い話です。
私としては、この話は全体として虚構であり、存在しない六条殿・長講堂で行われた後深草院の血写経も、この話をリアルに見せるための「小道具」のひとつだろうと考えます。

『とはずがたり』に描かれた後深草院の血写経とその後日談(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e583bdc4c266e2837533878b21347e89
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5cb8c13e3b3fb094370454107892e1b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/02fbb58a7d13441c9d8e2525d0322323
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8008f774ba426dff2ee007bf04da725
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7630942f4d47a35fc023c3ce48457dfc

さて、『増鏡』に戻って続きです。

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 三月廿六日は御即位、めでたくて過ぎもて行く。十月廿二日御禊〔ごけい〕なり。十九日より官庁へ行幸あり。女御代、花山より出ださる。糸毛の車、寝殿の階〔はし〕の間に、左大臣殿、大納言長雅寄せらる。みな紅の十五の衣、同じ単、車の尻より出さる。十一月十九日又官庁へ行幸、廿日より五節始まるべく聞こえしを、蒙古〔むくり〕起るとてとまりぬ。廿二日大嘗会、廻立殿〔くわいりふでん〕の行幸、節会ばかり行はれて、清暑堂〔せいしよだう〕の御神楽もなし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94f3d9b355824ec3f1380faeac8dddb7

ということで、文永十一年(1274)の記述はずいぶんあっさりしています。
この年の最大の出来事は言うまでもなく元寇ですが、『増鏡』における元寇の記述は即位関係の諸行事が「蒙古起るとてとまりぬ」だけです。
六年前の文永五年(1268)、蒙古襲来の可能性が生じた時ですら、

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 かやうに聞こゆる程に、蒙古の軍といふこと起こりて御賀とどまりぬ。人々口惜しく本意なしと思すこと限りなし。何事もうちさましたるやうにて、御修法や何やと公家・武家ただこの騒ぎなり。されども程なくしづまりていとめでたし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b5e845e6c301a87dc455fe53dd5a8ee

という程度の分量を割いていたのに、実際の襲来時の記事は更に短くなっています。
『増鏡』の超然たる態度は清々しいほどですね。
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