『アジア遊学283 東アジアの後宮』(勉誠社、2023)
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はじめに
一、前提─中世天皇家の成立
(1)前代(摂関期)の後宮
(2)後宮の変化と天皇家
ニ、中世前期の後宮
(1)減少する正妃
(2)正妃以外の女性達と中世天皇家
三、日本の后位の特質
(1)複数代にわたる皇后在位
(2)皇后と中宮の分離から一帝複数后へ
(3)后位のポスト化
四、中世前期における后位
(1)未婚の皇后─不婚内親王の准母立后
初例─媞子内親王
同輿者確保のための准母立后
准母内親王立后から内親王立后へ
(2)上皇の妻の立后
上皇の「皇后」
立后の名分
上皇の皇后立后の意義
(3)院号宣下の盛行─上皇后位の不在・廃絶
院号宣下・女院とは
院号宣下の展開
転換期としての後鳥羽院政期
上皇后位(皇太后・太皇太后)における変化
おわりに
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p249
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中世前期は、中世天皇家の成立にともない、後宮のあり方が摂関期までとは大きく異なるものとなった。本稿ではとくに后位に注目し、日本における独特の后位の運用を前提としてふまえつつ、中世前期の日本に特徴的にみられる非常に特異な后位のあり方について、その具体的様相を紹介する。
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p253以下
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三、日本の后位の特質
中世前期の后位について述べる前に、そもそも日本の后位のあり方が、特に<運用>のされ方において、非常に独自性をもっていたことを見ておく必要があるだろう。
日本の后位は、皇后・皇太后・太皇太后というその名称に明らかなように、中国の制を範としている。しかし各后位の設定については日本独自の解釈が加えられた。それのみならず、后位の<運用>においては、時代が下るにしたがい、中国礼制から乖離した点が加わっていった。
(1)複数代にわたる皇后在位
その一つが、天皇が変わっても前天皇の皇后が皇后のまま就位しているという現象である。冷泉天皇(在位九六七~九六九)の皇后昌子内親王は、冷泉天皇が譲位して新帝円融天皇(在位九六九~九八四)が践祚・即位しても、皇后のままであった。【中略】そして昌子内親王がようやく皇太后になったのは、円融天皇自身の皇后が立后された時であった。
これ以降、后位の異動が行われるのは皇位交替時ではなく<次の皇后が立つ時>になった。【中略】
(2)皇后と中宮の分離から一帝複数后へ
后位の運用における中国礼制からの乖離の最たるものは、正暦元年(九九〇)、それまでは皇后の別称とされてきた中宮を皇后と別の后位とし、事実上皇后を二人にして后位を増やしたことに始まる。【中略】
(3)后位のポスト化
こうした后位の<運用>によって、中世に至る前に、日本における后位は、「中宮」─「皇后」─「皇太后」─「太皇太后」各一座があたかも一連の四つのポストのようになり(中宮と皇后は、中宮から皇后になるケースも皇后から中宮になるケースもあった)、新后が立后される際にスライド・転上されるようになっていた。
こうした状態は、それぞれの后位が本来もっていた意味を薄れさせることになったであろう。これから述べる中世の日本にみられる后位の独特のあり方は、それを前提としなけば考えがたいように思われる。
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p254以下
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四、中世前期における后位
中世前期は、后位のあり方に礼的逸脱ともいえる様々な事象がみられた時代であった。以下、未婚の皇后の立后、上皇の妻后の立后、院号宣下の盛行と上位后位の不在・廃絶という事象についての検討を通じて、日本中世前期における后位のあり方とその特質を見ていきたい。
(1)未婚の皇后─不婚内親王の准母立后
中世前期の后位において最も注目される事象は、天皇と婚姻関係がない皇后の出現である。天皇の姉や叔母などにあたる内親王が未婚のまま天皇の母に擬され、「准母儀」(「母儀に准じ」)て皇后とされたのである。婚姻を伴わない内親王の立后は、母儀に准じられた明証がない事例も含め、鎌倉時代末期までみられ、計十一例に及んだ。【中略】
初例─媞子内親王
未婚の皇后の初例は、白河院の皇女媞子内親王である。【中略】
同輿者確保のための准母立后
即位式や大嘗会御禊では天皇は鳳輦に乗って移動するため、天皇が幼少の場合は共に輿に乗る(「同輿」と称される)人が必須である。摂関期までの幼帝には母后が同輿してきた。しかし堀河天皇の子鳥羽天皇(在位一一〇七~一一二三)が五歳で即位したとき、鳥羽の生母はすでに亡くなっていたため、母代わりとして同輿する者が必要となった。【中略】
そこで、白河院の第二皇女で媞子の同母妹である前斎院令子内親王が天皇母儀に擬され、即位式に際して天皇と同輿し、天皇と共に高御座に登り、皇后とされたのである。【中略】
准母内親王立后から内親王立后へ
内親王の准母立后の三例目は、後白河天皇(在位一一五五~一一五八)が、同母姉である統子内親王を准母として皇后に立后したことである。このとき天皇はすでに三十一歳であり、統子はその一歳年長であるにすぎなかった。当時は後白河の親政時期であり、立后は後白河自身の意図により行われたと考えられる。統子の立后という発想自体は二例の先例から得たものであろうが、後白河の三年間という短い在位期間の最後の年に統子が立后された理由については、後白河自身の皇統の明示という説のほか、統子の皇后宮司の補任を利用した後白河の権力基盤の形成とする説などが示されている。
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