『中世王家の成立と院政』(吉川弘文館、2012)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b104032.html
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b104032.html
-------
第三章 准母立后制にみる中世前期の王家
はじめに
一 後宮の変容と准母立后制
1 准母立后の機能的役割
2 准母立后制成立の背景
二 皇統の存在形態と准母立后制
1 准母立后制の創出
2 皇統と准母立后制
①皇統間の抗争─後白河と二条─
②外戚との抗争─後白河と平氏─
③嫡・庶の弁別─後鳥羽の准母立后政策─
おわりに
-------
p77
-------
一 後宮の変容と准母立后制
准母立后とは皇女が天皇の准母となり立后する現象である。はじめにで述べたように、こうした事例は白河皇女媞子以降、土御門皇女曦子に至る八例が存在する(表1参照)。これらを検討すると、白河皇女令子・高倉皇女範子・後高倉皇女邦子の立后は、それぞれ鳥羽・土御門・後堀河の各天皇の即位と同日であることに気付く。また、後白河の場合を除いて、皇女を准母に持つ天皇はいずれも一〇歳以下の幼帝である。これら諸事例は、幼帝即位の上で准母立后が必要とされる状況があったことをうかがわせる。そこで本節では、准母立后を考える上で、幼帝即位と連動した機能的役割ともいうべき側面から説き起こすことにしたい。
-------
p87以下
-------
2 皇統と准母立后制
前項では准母立后制が白河治世における王家の実態と深く関わりながら創設されたことを見たが、ここではこうした准母立后の意義をその他の事例からも確認しておきたい。
①皇統間の抗争─後白河と二条─
皇女の准母立后の事例のうち、鳥羽皇女統子内親王は成人天皇である後白河の准母として立后した。後白河の即位から二条親政に至る期間は後白河・二条父子間の対立を内在させた時期として著名だが、ここでは後白河による統子の准母立后の設定過程、もう一方の二条陣営の側の准母の活用・展開の在り方から、当該期の皇統の分立の様相について言及する。
まず後白河登位の事情から始めることとする。鳥羽・美福門院らの政権構想では、養子となっていた守仁(二条)こそが即位の本命であり、後白河の地位が息子の中継ぎにしかすぎなかったことは既に周知に属する。しかし、美福門院らは中継ぎではあるものの、即位した後白河を排除することはせず、むしろ守仁へのスムーズな皇位の移譲を実現させるため、後白河を体制内に取り込み、位置付ける手法をとった。それを表しているのが後白河と美福門院との関係である。
【以下二字下げ】
かくて年もかはりぬれば、朝覲の御幸、美福門院にせさせ給ふ、まことの御子におはしまさねども、近衛の帝おはしまさぬ世にも、国母になぞらへられておはします、いとかしこき御栄えなり、又東宮行啓ありて、姫宮御母にて拝し奉らせ給ふ、その姫宮と申すは八条院と申すなるべし、
天皇が父院・国母女院に対して行う朝覲行幸は、天皇の父母への礼および当事者間の結び付きを世に示す儀式といえるが、このような意味を持つ朝覲行幸において、後白河は美福門院に国母の礼をとっているのである。美福門院は守仁のみならず後白河とも擬制的な親子関係を設定することにより、守仁への皇位継承を前提とする現政権の中に後白河を位置付けようとしたと考えられる。後述するが、さらにここで「東宮」守仁と「姫宮」八条院暲子との間にも親子関係が設定されていることを確認しておきたい。
しかし、そのわずか一カ月の保元三年(一一五八)二月、後白河は同母姉統子を「御母」として立后させる。
【以下二字下げ】
次の姫宮は又前の斎院とて恂子内親王と申しし、後には統子と改めさせ給ひたるとぞきこえさせ給ひしは、(中略)保元三年二月皇后宮に立たせ給、上西門院と申すなるべし、(中略)后に立たせ給ふときこえしは、帝の御母に准らへ申させ給ふとぞきこえさせ給ふ、六条院の例にや侍らむ、
このとき後白河は三一歳、准母となった姉統子はその一歳年長にすぎない。直前に行われた「国母」美福門院に対する朝覲行幸の記憶もさめやらぬ間に、後白河がこのような新たな擬制的親子関係を設定することの意味は何か。佐伯智広氏は、守仁のキサキとなった姝子、姝子の養母統子を介して後白河に守仁の後宮を掌握させるという鳥羽の構想があったことを前提に、後白河が自己の王権強化のために統子の立后を図ったと論じる。守仁に対する後白河の親権強化という鳥羽の意図については保留したいが、後白河自身が自らの立場を確立していく意向をもち、そのための方策が統子の擁立として発露したことについては是認し得る。
強化を図らねばならない王家内部における後白河の立場とは即ち、先行研究でも縷々述べられてきた中継ぎとして登板した彼の脆弱な位置に他ならない。後白河は、守仁への継承上、鳥羽の皇統内部に位置付けられはしたが、逆に体制の中にある限り、彼の行動はその枠内に抑制され、その立場はきわめて限定されたものにとどまる。自身に付されたそのような位置付けを、果たして後白河は良しとしていたのかどうか。
新たに「母」を設定するということは、美福門院のみを唯一の「母」とする体制の改変であることに間違いない。後白河が美福門院の構想する王家内秩序に真に賛同しているのであれば、「国母」美福門院に加えてさらに擬制的親子関係を設定する必要性に乏しい。統子擁立という後白河の行動には、守仁とは異なり必ずしも鳥羽・美福門院の皇統に包摂され切らない異分子としての後白河の独自の立場が表出しているように思う。
-------
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます