投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月17日(土)11時15分20秒
これから中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)を検討するにあたり、この掲示板の読者にも現在の近代製糸業研究の水準を一応把握しておいてもらいたいと思っているのですが、中林真幸『近代資本主義の組織─製糸業の発展における取引の統治と生産の構造』(東京大学出版会、2003)は消費税込12,600円という高価な専門書で、公共図書館でも所蔵しているところは少ないでしょうから、読んでくれ、と言うのも躊躇われます。
また、一週間前にこの本を読み始めたばかりの私が要約すると相当不正確になるはずなので、ここはちょっと横着をして、井川克彦氏(日本女子大学教授)の「書評と紹介」(『日本歴史』681号、2005、p123以下)を引用させてもらいます。
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本書は日本における近代製糸業の成立を論じたもので、氏の初めての単著である。最新の経済理論と膨大な実証の上に成る五〇〇頁以上の大著であるが、シンプルかつ極太の論理で貫き通すことに多大な努力が払われている。飛び石を辿るように要となる論点をつないで、ともかくも紹介の責を果たしたい。経済史の方法論に重きを置いた序章・終章に挟まれる形で、一八八〇年代~一九〇〇年代の諏訪器械製糸業に中心的視点を置いた分析(第一~九章)が三部構成で展開される。
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いったんここで切ります。
全体の構成は、
第1部 産業組織の再編
第2部 工場制工業の発展
第3部 循環的な成長と金融制度
http://www.utp.or.jp/book/b301039.html
となっていて、「第1部 産業組織の再編」は、
第1章 国際市場の構造変化
第2章 蚕糸業の再編
第3章 輸送基盤の整備と原料市場の統合
と分れています。
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第一部は、日本製糸業の外部条件、具体的には生糸国際市場の変化と国内インフラ整備、とりわけ鉄道網形成による養蚕・製糸業の再編を扱っている。
七〇年代に始まる欧州不況=国際生糸価格下落によって日本の在来製糸の輸出は危機に陥ったが、工場制による大衆向け大量生産を特徴とする新興アメリカ絹織物業の需要急増が勃興して間もない日本の器械製糸業を有利化させた。八〇年代のフランス不況によって在来生糸生産農家は製糸を捨て養蚕に特化し、諏訪中心の器械製糸と他地域の原料繭生産との分化が進行する。この過程について、日本製糸業は中国に対して比較優位を失っており、「労働の無制限供給」説は適用できないこと、銀下落による外国為替変動は横浜市場で速やかに生糸価格へ裁定され、それゆえに生じた為替インフレ効果が松方デフレを相殺し、デフレ脱却に際しては国内一般(の非貿易財)に先行する蚕糸インフレが養蚕・器械製糸業を有利化した、と指摘する。さらに、鉄道網形成による繭市場の統合が、養蚕業発展を促しつつ、このような器械製糸と原料繭生産の分化の前提になったとする実証を展開している。
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そして「第2部 工場制工業の発展」ですが、ここは、
第4章 近代製糸業の勃興
第5章 賃金体系による誘因制御
第6章 労働市場における取引の統治
と分れています。
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第二部は、諏訪における近代的器械製糸経営の成立を論じ、本書の中核をなす部分である。
著者は、諏訪器械製糸の突出した発展の画期を、①八〇年代半ばの製糸結社による共同再繰の開始、②九〇年代後半における結社から独立した大規模製糸家の経営発展、という二段階で捉える。とくに②の強調が独創的であり、アメリカ絹織物工場の要求する生糸の斉一・大量性について共同再繰を行なう製糸結社が適していたという点に止まらず、要求される製品情報が共同再繰所に蓄積された点に注目して議論を展開する。①によって諏訪器械製糸は製産者商標=ブランドを確立し、品質保証によるプレミアムを獲得しつつ急成長したが、アメリカ絹織物業の製品高級化により新たな課題に直面する。すなわち原料(繭)生産性・労働生産性に加えて、繊度(太さ)均一性と光沢が要求され、この四つの要素を市況に合わせて最適に組み合わせて製糸収益を最大化させる経営が勝者となるに至った。結社から独立した諏訪の大製糸家は共同再繰所の情報収集機能を単独で引継ぎ、それを自ら作った賃金体系に反映させることで困難を克服した。
その賃金体系が「相対賃金制」であり、従来「等級賃金制」として議論されてきたものに当たるが、本書においてはほとんど逆の意義を与えられている。製糸が近代的労働過程であるならば、製糸経営者は「繰糸労働者」(以下「女工」)の自発的かつ最適な方向への労働制御によって管理費用を小さくし収益を最大化することが必要である。すなわち前述の各々相反する四要素を最適に組み合わせるように女工が自らを律することが望ましい。諏訪大製糸家は、各女工への支払賃金に四要素に応じた賞罰を盛り込むことによって、自らの賃金収入を最大化しようとする各女工が「自己執行的(自己拘束的)」に生糸の最適生産を行うような組織を作ることに成功した。
著者は、このような「自己執行的」労働の前提になるのは女工の工場間移動が容易な、移動に伴う社会的コストの小さい労働市場であるとし、さらに、女工引き抜き競争を基調とする諏訪製糸業における女工雇用制度を、具体的には移動に関わる司法判断や諏訪製糸同盟の機能を検討する。詳説の余裕はないが、諏訪製糸同盟の本質は、司法制度に代わって女工使用権を実質的な「物権」として私的に処理し、取引費用を縮小したことにあり、「労働市場における効率的な制度の形成」であったとする。
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「相対賃金制」(「等級賃金制」)は、かつては非常に否定的に捉えられていたのですが、中林氏は「ほとんど逆の意義を与え」ており、ここは重要なので後で丁寧に説明します。
長くなったので、いったん切ります。
これから中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)を検討するにあたり、この掲示板の読者にも現在の近代製糸業研究の水準を一応把握しておいてもらいたいと思っているのですが、中林真幸『近代資本主義の組織─製糸業の発展における取引の統治と生産の構造』(東京大学出版会、2003)は消費税込12,600円という高価な専門書で、公共図書館でも所蔵しているところは少ないでしょうから、読んでくれ、と言うのも躊躇われます。
また、一週間前にこの本を読み始めたばかりの私が要約すると相当不正確になるはずなので、ここはちょっと横着をして、井川克彦氏(日本女子大学教授)の「書評と紹介」(『日本歴史』681号、2005、p123以下)を引用させてもらいます。
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本書は日本における近代製糸業の成立を論じたもので、氏の初めての単著である。最新の経済理論と膨大な実証の上に成る五〇〇頁以上の大著であるが、シンプルかつ極太の論理で貫き通すことに多大な努力が払われている。飛び石を辿るように要となる論点をつないで、ともかくも紹介の責を果たしたい。経済史の方法論に重きを置いた序章・終章に挟まれる形で、一八八〇年代~一九〇〇年代の諏訪器械製糸業に中心的視点を置いた分析(第一~九章)が三部構成で展開される。
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いったんここで切ります。
全体の構成は、
第1部 産業組織の再編
第2部 工場制工業の発展
第3部 循環的な成長と金融制度
http://www.utp.or.jp/book/b301039.html
となっていて、「第1部 産業組織の再編」は、
第1章 国際市場の構造変化
第2章 蚕糸業の再編
第3章 輸送基盤の整備と原料市場の統合
と分れています。
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第一部は、日本製糸業の外部条件、具体的には生糸国際市場の変化と国内インフラ整備、とりわけ鉄道網形成による養蚕・製糸業の再編を扱っている。
七〇年代に始まる欧州不況=国際生糸価格下落によって日本の在来製糸の輸出は危機に陥ったが、工場制による大衆向け大量生産を特徴とする新興アメリカ絹織物業の需要急増が勃興して間もない日本の器械製糸業を有利化させた。八〇年代のフランス不況によって在来生糸生産農家は製糸を捨て養蚕に特化し、諏訪中心の器械製糸と他地域の原料繭生産との分化が進行する。この過程について、日本製糸業は中国に対して比較優位を失っており、「労働の無制限供給」説は適用できないこと、銀下落による外国為替変動は横浜市場で速やかに生糸価格へ裁定され、それゆえに生じた為替インフレ効果が松方デフレを相殺し、デフレ脱却に際しては国内一般(の非貿易財)に先行する蚕糸インフレが養蚕・器械製糸業を有利化した、と指摘する。さらに、鉄道網形成による繭市場の統合が、養蚕業発展を促しつつ、このような器械製糸と原料繭生産の分化の前提になったとする実証を展開している。
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そして「第2部 工場制工業の発展」ですが、ここは、
第4章 近代製糸業の勃興
第5章 賃金体系による誘因制御
第6章 労働市場における取引の統治
と分れています。
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第二部は、諏訪における近代的器械製糸経営の成立を論じ、本書の中核をなす部分である。
著者は、諏訪器械製糸の突出した発展の画期を、①八〇年代半ばの製糸結社による共同再繰の開始、②九〇年代後半における結社から独立した大規模製糸家の経営発展、という二段階で捉える。とくに②の強調が独創的であり、アメリカ絹織物工場の要求する生糸の斉一・大量性について共同再繰を行なう製糸結社が適していたという点に止まらず、要求される製品情報が共同再繰所に蓄積された点に注目して議論を展開する。①によって諏訪器械製糸は製産者商標=ブランドを確立し、品質保証によるプレミアムを獲得しつつ急成長したが、アメリカ絹織物業の製品高級化により新たな課題に直面する。すなわち原料(繭)生産性・労働生産性に加えて、繊度(太さ)均一性と光沢が要求され、この四つの要素を市況に合わせて最適に組み合わせて製糸収益を最大化させる経営が勝者となるに至った。結社から独立した諏訪の大製糸家は共同再繰所の情報収集機能を単独で引継ぎ、それを自ら作った賃金体系に反映させることで困難を克服した。
その賃金体系が「相対賃金制」であり、従来「等級賃金制」として議論されてきたものに当たるが、本書においてはほとんど逆の意義を与えられている。製糸が近代的労働過程であるならば、製糸経営者は「繰糸労働者」(以下「女工」)の自発的かつ最適な方向への労働制御によって管理費用を小さくし収益を最大化することが必要である。すなわち前述の各々相反する四要素を最適に組み合わせるように女工が自らを律することが望ましい。諏訪大製糸家は、各女工への支払賃金に四要素に応じた賞罰を盛り込むことによって、自らの賃金収入を最大化しようとする各女工が「自己執行的(自己拘束的)」に生糸の最適生産を行うような組織を作ることに成功した。
著者は、このような「自己執行的」労働の前提になるのは女工の工場間移動が容易な、移動に伴う社会的コストの小さい労働市場であるとし、さらに、女工引き抜き競争を基調とする諏訪製糸業における女工雇用制度を、具体的には移動に関わる司法判断や諏訪製糸同盟の機能を検討する。詳説の余裕はないが、諏訪製糸同盟の本質は、司法制度に代わって女工使用権を実質的な「物権」として私的に処理し、取引費用を縮小したことにあり、「労働市場における効率的な制度の形成」であったとする。
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「相対賃金制」(「等級賃金制」)は、かつては非常に否定的に捉えられていたのですが、中林氏は「ほとんど逆の意義を与え」ており、ここは重要なので後で丁寧に説明します。
長くなったので、いったん切ります。