学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

井川克彦氏「書評と紹介 中林真幸『近代資本主義の組織』」(その1)

2018-11-17 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月17日(土)11時15分20秒

これから中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)を検討するにあたり、この掲示板の読者にも現在の近代製糸業研究の水準を一応把握しておいてもらいたいと思っているのですが、中林真幸『近代資本主義の組織─製糸業の発展における取引の統治と生産の構造』(東京大学出版会、2003)は消費税込12,600円という高価な専門書で、公共図書館でも所蔵しているところは少ないでしょうから、読んでくれ、と言うのも躊躇われます。
また、一週間前にこの本を読み始めたばかりの私が要約すると相当不正確になるはずなので、ここはちょっと横着をして、井川克彦氏(日本女子大学教授)の「書評と紹介」(『日本歴史』681号、2005、p123以下)を引用させてもらいます。

-------
 本書は日本における近代製糸業の成立を論じたもので、氏の初めての単著である。最新の経済理論と膨大な実証の上に成る五〇〇頁以上の大著であるが、シンプルかつ極太の論理で貫き通すことに多大な努力が払われている。飛び石を辿るように要となる論点をつないで、ともかくも紹介の責を果たしたい。経済史の方法論に重きを置いた序章・終章に挟まれる形で、一八八〇年代~一九〇〇年代の諏訪器械製糸業に中心的視点を置いた分析(第一~九章)が三部構成で展開される。
-------

いったんここで切ります。
全体の構成は、

第1部 産業組織の再編
第2部 工場制工業の発展
第3部 循環的な成長と金融制度

http://www.utp.or.jp/book/b301039.html

となっていて、「第1部 産業組織の再編」は、

第1章 国際市場の構造変化
第2章 蚕糸業の再編
第3章 輸送基盤の整備と原料市場の統合

と分れています。

-------
 第一部は、日本製糸業の外部条件、具体的には生糸国際市場の変化と国内インフラ整備、とりわけ鉄道網形成による養蚕・製糸業の再編を扱っている。
 七〇年代に始まる欧州不況=国際生糸価格下落によって日本の在来製糸の輸出は危機に陥ったが、工場制による大衆向け大量生産を特徴とする新興アメリカ絹織物業の需要急増が勃興して間もない日本の器械製糸業を有利化させた。八〇年代のフランス不況によって在来生糸生産農家は製糸を捨て養蚕に特化し、諏訪中心の器械製糸と他地域の原料繭生産との分化が進行する。この過程について、日本製糸業は中国に対して比較優位を失っており、「労働の無制限供給」説は適用できないこと、銀下落による外国為替変動は横浜市場で速やかに生糸価格へ裁定され、それゆえに生じた為替インフレ効果が松方デフレを相殺し、デフレ脱却に際しては国内一般(の非貿易財)に先行する蚕糸インフレが養蚕・器械製糸業を有利化した、と指摘する。さらに、鉄道網形成による繭市場の統合が、養蚕業発展を促しつつ、このような器械製糸と原料繭生産の分化の前提になったとする実証を展開している。
-------

そして「第2部 工場制工業の発展」ですが、ここは、

第4章 近代製糸業の勃興
第5章 賃金体系による誘因制御
第6章 労働市場における取引の統治

と分れています。

-------
 第二部は、諏訪における近代的器械製糸経営の成立を論じ、本書の中核をなす部分である。
 著者は、諏訪器械製糸の突出した発展の画期を、①八〇年代半ばの製糸結社による共同再繰の開始、②九〇年代後半における結社から独立した大規模製糸家の経営発展、という二段階で捉える。とくに②の強調が独創的であり、アメリカ絹織物工場の要求する生糸の斉一・大量性について共同再繰を行なう製糸結社が適していたという点に止まらず、要求される製品情報が共同再繰所に蓄積された点に注目して議論を展開する。①によって諏訪器械製糸は製産者商標=ブランドを確立し、品質保証によるプレミアムを獲得しつつ急成長したが、アメリカ絹織物業の製品高級化により新たな課題に直面する。すなわち原料(繭)生産性・労働生産性に加えて、繊度(太さ)均一性と光沢が要求され、この四つの要素を市況に合わせて最適に組み合わせて製糸収益を最大化させる経営が勝者となるに至った。結社から独立した諏訪の大製糸家は共同再繰所の情報収集機能を単独で引継ぎ、それを自ら作った賃金体系に反映させることで困難を克服した。
 その賃金体系が「相対賃金制」であり、従来「等級賃金制」として議論されてきたものに当たるが、本書においてはほとんど逆の意義を与えられている。製糸が近代的労働過程であるならば、製糸経営者は「繰糸労働者」(以下「女工」)の自発的かつ最適な方向への労働制御によって管理費用を小さくし収益を最大化することが必要である。すなわち前述の各々相反する四要素を最適に組み合わせるように女工が自らを律することが望ましい。諏訪大製糸家は、各女工への支払賃金に四要素に応じた賞罰を盛り込むことによって、自らの賃金収入を最大化しようとする各女工が「自己執行的(自己拘束的)」に生糸の最適生産を行うような組織を作ることに成功した。
 著者は、このような「自己執行的」労働の前提になるのは女工の工場間移動が容易な、移動に伴う社会的コストの小さい労働市場であるとし、さらに、女工引き抜き競争を基調とする諏訪製糸業における女工雇用制度を、具体的には移動に関わる司法判断や諏訪製糸同盟の機能を検討する。詳説の余裕はないが、諏訪製糸同盟の本質は、司法制度に代わって女工使用権を実質的な「物権」として私的に処理し、取引費用を縮小したことにあり、「労働市場における効率的な制度の形成」であったとする。
-------

「相対賃金制」(「等級賃金制」)は、かつては非常に否定的に捉えられていたのですが、中林氏は「ほとんど逆の意義を与え」ており、ここは重要なので後で丁寧に説明します。
長くなったので、いったん切ります。
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芭蕉と石巻と石母田正

2018-11-17 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月17日(土)09時54分47秒

>筆綾丸さん
この件ですね。

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 サウジアラビア人記者のジャマル・カショギ氏がトルコ・イスタンブールのサウジ総領事館で殺害された事件で、サウジ検察は15日、殺害に関わったとされる5人に死刑を求刑すると明らかにした。サウジの国営通信が伝えた。また、サウジ検察は、ムハンマド皇太子の関与はなかったとも説明。事件の早期の幕引きを図る構えとみられる。【中略】
 同通信などによると、この事件で、サウジ検察は21人を拘束し、うち11人を起訴。事件に関与したなかで最も高い地位にいたのは、事件を受けて解任された情報機関のアフメド・アシリ副長官であったとの見解を示した。また、カショギ氏は致死量の薬物を投与され、遺体は領事館内で切断され外部に持ち出されたとしたが、依然、所在は明らかになっていないという。


明らかに上からの命令で殺しているのに実行役が処刑されるという展開は、まるで鎌倉時代のようですね。
二月騒動に際して北条時章を殺害し、後に斬首された身内人を思い出しました。
たまたま人数も五人で共通していますね。

二月騒動

>「こがね花咲とよみて奉たる金花山」
ご紹介のサイト「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」の「芭蕉と石巻」を読んでみましたが、曾良日記に「帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也」とある住吉社は現在の大嶋神社ですね。


ここに石母田正氏の父、第九代石巻町長・初代石巻市長の石母田正輔翁の胸像が建立されているのですが、その台座に刻まれた漢詩は「金華仙嶽秀而霊」で始まっていますね。

「石母田正輔翁」
「石巻市史 第二十七篇 人物 石母田正輔」

「住吉の自邸聴潮閣」はここから歩いてすぐの所です。
正氏も幼い頃はきっとこのあたりで遊んだのでしょうね。

「石母田正氏の生家」
「石母田「正」の由来、再論」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「奥の細道」 2018/11/16(金) 15:36:42
https://www.youtube.com/watch?v=cLyDGBWcb20
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%A5%9E
カショギ事件の関連ニュースで、正義の女神を模したマンガの下に PUBLIC PROSECUTOR とありますが、誤訳でないとすると、サウジにも西洋の司法に似たものは存在するのでしょうね。天秤の真ん中にあるヤシの木ようなものが何を表すのか、よくわかりませんが。

http://www.bashouan.com/pvKinkasan.htm
http://www.bashouan.com/pvKinkasan2.htm
『奥の細道』に「こがね花咲とよみて奉たる金花山」とありますが、金を産出したのは金華山ではなく涌谷で、また、芭蕉は金華山を見ていないようですね。
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「中心的論点のほとんどすべてについて従来の説を覆す仮説と実証を提示」(by 井川克彦氏)

2018-11-16 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月16日(金)13時08分1秒

年内に別の話題を取り上げたいので、そろそろ松沢裕作『生きづらい明治社会』を発端とする近代製糸業についての議論をまとめたいと思っています。
松沢氏が『生きづらい明治社会』で近代製糸業の参考文献として唯一挙げるのは中村政則氏(一橋大学名誉教授)の『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)ですが、この本は石井寛治氏の『日本蚕糸業史分析─日本産業革命研究序説』(東京大学出版会、1972)等の当時の研究水準をベースにしつつも、「講座派」の末裔っぽい左翼版勧善懲悪思想を大量に振りかけて一段と劣化させた、1976年当時としてもそれほどのレベルではない本で、今となっては完全に時代遅れの代物です。
いわば「講座派」の駄目な部分を濃縮したような本で、いくら「岩波ジュニア新書」とはいえ、このような低レベルの本に依拠した松沢氏の叙述はあんまりです。

松沢裕作『生きづらい明治社会』(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc41bdd5e500d67043621a5114e098a3
中村政則(1935-2015)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%94%BF%E5%89%87

では、現在の近代製糸業の研究水準を代表する書物は何かというと、明らかに中林真幸著『近代資本主義の組織』ですね。
石井寛治・尾高煌之助氏の高評価の一部は既に紹介しましたが、井川克彦氏(日本女子大学教授)は『日本歴史』681号(2005)の「書評と紹介」の最後に、

-------
 従来の日本近代史研究において、製糸業は近代日本の半封建性、前近代性、特殊性を強調する議論の一つの柱をなした。本書は横浜市場・売込問屋の性格、「相対賃金制」の本質、製糸家の購繭行動など、中心的論点のほとんどすべてについて従来の説を覆す仮説と実証を提示し、戦前期の日本製糸業に「近代的」な組織・制度が成立したことを強調した。その実証的素材と、「自己執行的」「情報の対称性」「効率的な均衡」などのキーワードに象徴される理論装置は「近代」の本質を探ろうと欲する人に大きな刺激を与えるであろう。
-------

と書かれています。(p125)
さて、同書の扱う範囲はあまりに広大ですが、とりあえず中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』に関係する部分を紹介しつつ、中村著が何故駄目なのかを明らかにして行きたいと思います。
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金華山黄金山神社宮司の逮捕

2018-11-16 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿日:2018年11月16日(金)10時47分48秒

>筆綾丸さん
いえいえ。
私は民事訴訟法はけっこう勉強したのですが、刑事訴訟法はきちんとやってないので、イマイチ自信を持って書けないですね。
つい最近も、

-------
 宮城県石巻市の金華山の崖にごみを不法投棄したとして、宮城県警生活環境課と石巻署は12日、廃棄物処理法違反の疑いで、金華山黄金山神社宮司奥海聖(66)=石巻市鮎川浜金華山=、同神社職員小松匡志(49)=同=、同神社の元職員で大崎八幡宮職員日野篤志(43)=東松島市牛網=の3容疑者を逮捕した。
 奥海、小松両容疑者の逮捕容疑は共謀して2017年6月6~9日、使用済みの蛍光灯や食器計約50キロを崖の斜面に捨てた疑い。日野容疑者の逮捕容疑は同19日~7月21日ごろ、鉄製の灯籠11本(計約1.9トン)を同じ崖に捨てた疑い。県警は奥海容疑者が投棄を指示したとみている。


というニュースを見て、「逮捕の理由」はあるとしても、宮司だから逃亡の恐れは考えにくいし、今さら証拠隠滅の恐れもないだろうから、「逮捕の必要性」(刑事訴訟法199条2項但書、刑事訴訟規則143条の3)があるのか疑問に思ったのですが、どのマスコミも特にそんなことは問題視しないようですね。
正直、警察がわざわざ牡鹿半島の先の孤島に何度も足を運ぶのが面倒だから逮捕したのでは、と思っているのですが、判例の動向も知らないので何とも判断できません。


金華山黄金山神社は東日本大震災で大変な被害を受け、私は2011年8月3日に参詣して、その惨状を見ているのですが、もしかしたら「鉄製の灯籠11本」は震災当時のものかもしれません。
それにしても金華山の名前をこんなニュースの形で聞く日が来るとは思いませんでした。

金華山・黄金山神社、シカの角切り中止
金華山黄金山神社


逮捕されが宮司さんの姓は奥海ですが、この神社はかつては醍醐三宝院を本山とする当山派の大金寺という修験寺院で、神仏分離に際して当時の別当一族が還俗して奥海(おくみ)を姓とする神職になったという経緯があります。

山鳥の法印墓地
山鳥の法印墓地(補遺)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「附蝉」 2018/11/15(木) 20:44:47
小太郎さん
ご丁寧にありがとうございます。

http://www.jra.go.jp/kouza/yougo/w125.html
馬の体の部位に、附蝉、というのがありますが、この「附」は正確な使い方になりますね(蝉は簡略字でしょうが)。
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尾高煌之助氏と尾高一族

2018-11-15 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月15日(木)10時46分10秒

>筆綾丸さん
>NHKの間違い
マスコミ用語みたいですね。
ウィキペディアには書いてありませんが、確か田中角栄元首相の裁判をきっかけに従来の呼び捨てから少し丁寧な表現に変更した、という話を聞いたことがあります。

被告人

>附と付
憲法37条3項は「刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する」となっているので、憲法との整合性を考えると「附」が正しいように思えますが、「総務省_e-Gov法令検索」を確認したところ、刑事訴訟法36・37条、93条3項、168条3項は「附」で、37条の2、37条の4、37条の5は「付」ですね。


私も詳しい事情は知りませんが、法務省と内閣法制局が厳格なチェックをしているはずなので単純ミスは考えにくく、たぶん時期の違いではないかなと思います。
「〇条の〇」は成立時ではなく、後で追加された条文ですね。
「自治体法制執務雑感」というブログに参考になる記事を見つけましたが、謎は残りますね。


>尾高煌之助氏は、あの尾高一族なんですね。
そうですね。
石川健治氏の「究極の旅」に出てきた「熊谷三郎直実を憚って」の謎を追いかけて、三年前の夏の盛りにわざわざ埼玉県立熊谷図書館に行った時に出会った『父・尾高朝雄を語る─久留都茂子インタビュー記録─』の編者です。
『近代資本主義の組織』の書評者としてお名前を見つけたときは、おお、こんなところで、と思いましたが、こちらが御本業ですね。

「熊谷三郎直実を憚って」の謎
洋学紳士・淑女の伝言ゲーム
意外な改変者
意外な改変者(その2)
もう一つの『父・尾高朝雄を語る』

尾高煌之助氏の父は社会学者の尾高邦雄(東大名誉教授、1908-93)、祖父は銀行家の尾高次郎(1866-1920)、曾祖父は尾高惇忠ですが、惇忠は官営富岡製糸場の初代場長なので、製糸業にも縁のある人ですね。

尾高惇忠(1830-1901)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「閑話」 2018/11/14(水) 19:35:25
どうでもいいような話で恐縮ですが。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/toudensaiban/
https://www.ron.gr.jp/law/law/keiji_s1.htm
NHKの記事は、「勝俣恒久 被告(78)、元副社長の武黒一郎 被告(72)、元副社長の武藤栄 被告(68)」、「被告人質問」、「3人の被告」・・・というように、刑事の被告人と民事の被告が混在しているのですが、刑事訴訟法の条文は一貫して「被告人」なので、これは、単純にNHKの間違いという理解でいいのですよね。

また、ネット上の刑事訴訟法を眺めてみると、「弁護人を附しなければならない」(36条)、「弁護人を付さなければならない」(37条)、「弁護人を附することができる」(37条)、「弁護人を付さなければならない」(37の2)、「弁護人を付することができる」(37条の4)、「弁護人一人を付することができる」(37条の5)、「条件を附することができる」(93条3項)、「条件を附することができる」(168条3項)・・・といった具合に、表記に乱れがありますが、これらは管理人の単純な転記ミスなんでしょうね。

「附しなければならない」と「附さなければならない」は、文法的にはどちらも正しいのでしょうね。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012607745

附と付は、本来、別の意味のようですが。

尾高煌之助氏は、あの尾高一族なんですね。
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中林真幸『近代資本主義の組織』の書評比べ

2018-11-14 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月14日(水)10時27分30秒

中林真幸『近代資本主義の組織─製糸業の発展における取引の統治と生産の構造』(東大出版会、2003)についての石井寛治(『史学雑誌』114編3号、2005)・井川克彦(『日本歴史』681号、2005)・松村敏(『社会経済史学』71巻4号、2005)・尾高煌之助(『経営史学』41号、2006)の諸氏の書評を読んでみましたが、同書は近代製糸業に関する本当に画期的な研究ですね。
かつての通説的立場だった石井寛治氏(東大名誉教授・学士院会員)の書評は、

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 製糸業の急速な発展を日本資本主義の構造的特質の一環として把握せんとする試みは、戦前の野呂栄太郎・山田盛太郎以来の多くの研究成果を生んできた。例えば、野呂の『日本資本主義発達史』(一九三〇年)は、製糸業の発達における大経営と小経営の共存を例に取りつつ、広く日本資本主義全体について、その急激な発展は、「最初から大資本と小資本との両極的発展を激化せしめ、中級資本の支配的発達を不可能ならしめた。中級産業資本の支配的、一般的発達のない所に自由競争も、自由主義もあり得ない」と指摘した。【中略】野呂の研究を踏まえた山田の『日本資本主義分析』(一九三四年)においては、世界大恐慌の下での養蚕・製糸業の破綻が農村解体と日本資本主義の一般的危機をもたらすとされ、その仕組みが産業資本確立過程に遡って分析された。そして、この山田の方法の批判的継承と実証の深化が、その後、評者の『日本蚕糸業分析』(一九七二年)を含む諸研究となって現れたと言ってよい。
-------

で始まっていて(p86)、いかにも古色蒼然とした雰囲気です。
もちろん石井氏も、

-------
 本書の著者は、しかし、みずから設定した課題については、組織と制度に着目する最近の経済史の新しい方法に基づき、諏訪製糸業の大経営についての従来利用されなかった豊富な史料を分析することによって、鋭い議論を展開する。
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と中林著を高く評価はするのですが(p87)、全般的に講座派の陰気な伝統に縛られている印象が強いですね。

石井寛治(1938生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E5%AF%9B%E6%B2%BB

他方、尾高煌之助氏(一橋大学・法政大学名誉教授)の「書評論文」は、

-------
 近代製糸業研究の一大集成をなし遂げた第一級の力作である。19世紀末から20世紀初めにかけての製糸業の発展を、信州諏訪地方を中心に、関連データをくまなく渉猟して体系的に整理し、従来の諸研究を批判的に読みこなして権威ある(とりわけ石井寛治、高村直助両氏の)定説をも覆さんとするその馬力は大きい。生糸の販売・生産・労働・金融の各側面についてきめ細かい実証的検討を施した結果、1880年代から1930年に至る日本の製糸業が成功裡に発展した理由について、著者独自の構図を提出している。著者が利用する主要な分析道具が取引制度の理論的意義を取り込んで強化された現代経済学(新古典派)であるのも、日本における歴史研究として斬新なスタイルといえよう。
-------

という具合に(p47)、実に明るく煌びやかに始まります。
尾高氏は続けて、

-------
 500ページを超える大作だが、その中核をなす主張はきわめて単純だ。これを評者流に要約すれば、以下のようになる。すなわち、(1)産業の成長に市場の発展は必要条件だが、しかしそれだけでは足りない。というのは、商品サービスに関する多種多様な情報ヴェクトルは、いったん市場で価格スカラーに集約されたあとでは、もとの多次元世界には還元され得ず、その結果、売手・買手間に情報の非対称性が生まれ、取引費用が増大するからだ。(2)そこで、情報の非対称性を救済するために、種々の組織・制度の形成とその運用に工夫が凝らされる。それらが成功したとき初めて産業の成長が実現する、と。
 この主張は、通説に対する批判に直結している。すなわち、発展の要素として技術進歩を据えるのではなく、制度や組織の形成にこそ重点をおくべきだというのである。従来なぜこの点で誤ったのかといえば、市場が発展する過程に注意を集中し、市場がいったん成立すればその機能は完璧だったと暗黙のうちに想定していたからにほかならない。
-------

と言われていて、正直、これだけだと何のことだか全然分かりませんが、

-------
 この著者の主張を、製糸業の経験に即して敷衍しよう。
 信州を産地とする明治末から昭和初期の器械製糸業(これを「近代的製糸業」と呼ぶ)が成長を遂げたのは、ひとえにアメリカ合衆国市場が要求する標準化された高品質の絹糸を安定的に供給する生産供給システムを確立し、それを安定的に運用したことに拠っていた。この供給システムは製品(生産と販売)、労働、企業間関係、そして産業政策、の四つの側面から説明される。
【中略】
 以上四側面がバランスをとるためのインターフェイス役は、製糸生産工程がこれを果たしていた。
-------

ということで、中林著を読むと、私のような現代経済学に疎い人間でも「アメリカ合衆国市場が要求する標準化された高品質の絹糸を安定的に供給する生産供給システム」の概要がそれなりに理解できるようになりますね。

尾高煌之助(1935生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E9%AB%98%E7%85%8C%E4%B9%8B%E5%8A%A9
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中林真幸『近代資本主義の組織』

2018-11-13 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月13日(火)09時27分3秒

10月13日に松沢裕作氏の『生きづらい明治社会』について最初の投稿をして以降、近代製糸業の勉強を少しずつ進めて来たのですが、中林真幸氏の『近代資本主義の組織─製糸業の発展における取引の統治と生産の構造』(東大出版会、2003)をもっと早く読んでおくべきだったな、と少し後悔しています。

-------
資本主義的な経済発展はなぜ可能であったのか? 諏訪郡の製糸業において形成され,誘因制御に基づく品質管理・賃金制度を有した効率的な組織と,優良製糸家の適切な監視と選抜的な救済を行った金融制度を明らかにすることで,動的な経済発展を成し遂げた近代資本主義の実像に迫る.

主要目次
序章
第1部 産業組織の再編
第1章 国際市場の構造変化
第2章 蚕糸業の再編
第3章 輸送基盤の整備と原料市場の統合
第2部 工場制工業の発展
第4章 近代製糸業の勃興
第5章 賃金体系による誘因制御
第6章 労働市場における取引の統治
第3部 循環的な成長と金融制度
第7章 「荷為替立替金」供給制度の形成
第8章 「原資金」供給制度の形成
第9章 景気循環と金融機構
終章


『あゝ野麦峠』みたいに個別エピソードをいくら集めても諏訪の製糸業の実像は分からない、国際環境を含め、その全体像を知りたいとかねてから思っていたのですが、近代経済史の素養に乏しいので、あちこち遠回りしてしまいました。
東條由紀彦氏の『製糸同盟の女工登録制度』(東大出版会、1990)など、晦渋な文体でありながら一種異様な迫力があって、その女工登録制度についての説明にある程度納得したのですが、中林氏のさっぱりした解説の方が分かりやすいですね。
個人で地味に調べている場合には無駄足はつきもので、途中での収穫もけっこうありましたから、ま、いっか、というのが現在の心境です。

>筆綾丸さん
この件で深井氏のこれまでの業績が全否定される訳ではないのはもちろんですが、動機や他に「余罪」がないのかを含め、とにかくいったんすっきり整理してもらわないとどうしようもないですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「院長の家計簿(赤字)」2018/11/12(月) 09:59:21

小太郎さん
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2017/03/102423.html
『プロテスタンティズム 宗教改革から現代政治まで』(2017)は、面白いなあと思いましたが、疑惑発覚後の大胆不敵な著作ということになりますか。精神を病んでいて、ときどき、神の声が聞こえるのかなあ。『エルンスト・トレルチの家計簿』は『武士の家計簿』のパクリのような感じですね。

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『エルンスト・トレルチの家計簿』の謎

2018-11-12 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月12日(月)09時27分4秒

>筆綾丸さん
小柳敦史氏が2013年の『日本の神学』52号で疑問を呈して以降、五年間はぐらかし続けているそうですから、限りなく真っ黒に近い灰色ですね。


また、『週刊新潮』によれば、深井氏にはもうひとつの疑惑があるそうです。

-------
「深井先生が雑誌『図書』の2015年8月号に寄稿した『エルンスト・トレルチの家計簿』という論考で、彼が依拠した資料が存在しているか疑わしいこと。その論考を読むと、深井先生はあたかもドイツにあるトレルチ資料室の管理責任者から資料を入手したように書いていますが、私が確認したところ、そうした事実はなかったのです」


奇怪な事件ですが、学院長解任は当然としても、それで済むのか。
小柳敦史氏には、

-------
『トレルチにおける歴史と共同体』(知泉書館、2015年9月)
「共同体形成としての学問」(『21世紀の信と知のために キリスト教大学の学問論』茂牧人・西谷幸介編、新教出版社、2015年2月、132-165頁)
「京都帝国大学文学部基督教学講座の成立」(『近代日本の大学と宗教(シリーズ 大学と宗教I)』江島尚俊・三浦周・松野智章編、法藏館、2014年2月、105-135頁)
「キリスト教と「運命」-プロテスタント神学における『西洋の没落』の残響-」(『宗教研究』第390号(日本宗教学会)、2017年12月、1-24頁)
「ドイツ・プロテスタンティズムにおける前衛と後衛」(『基督教学研究』第33号(京都大学基督教学会)、2013年12月、213-231頁)


といった著作があるそうで、「京都帝国大学文学部基督教学講座の成立」は読んでみたいですね。
キリスト教神学そのものにはあまり興味を持てないのですが、このタイトルには何となく思想のドラマが観られそうな予感がします。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「フリッツ・レーフラーの墓」 2018/11/11(日) 23:24:13
小太郎さん
背景がわかりませんが、狐につままれたような感じですね。

https://de.wikipedia.org/wiki/Fritz_L%C3%B6ffler
ドレスデンの名士のようですが、Das Grab von Fritz Löffler (フリッツ・レーフラーの墓)とは、Das Grab von Carl Fritz Löffler (カール・フリッツ・レーフラーの墓)のことですかね。
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「カール・レーフラー」を探して(その2)

2018-11-11 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月11日(日)22時39分52秒

小出しにする理由もないので、続きも全部引用してみます。(p197以下)

-------
 レーフラーも、ニーチェのキリスト教批判がその矛先を向けているのは、カントの影響を受け、神を実践理性の要請として理解し、キリストの神性は宗教的な価値判断であると考えたリッチュル学派、とりわけヴィルヘルム・ヘルマン的なキリスト教の再構築にあると見ている。そこでは既に述べた通り、人間の意志が行う価値評価がキリスト教信仰の生みの母であると理解されているので、リッチュル学派はニーチェのキリスト教批判に対して完全に無防備であり、逆にこの神学に対してはニーチェのあらゆる価値の転倒というプログラムは完全な破壊力を持っていたというのである。つまりこの神学は、ニーチェの前提、すなわち宗教的言表は価値評価をする意志による決断であるという前提を基盤として成り立っているのであり、ただリッチュル学派はニーチェとは逆の結論を出しただけなのである。それ故にレーフラーはヴィルヘルム期に神学者たちをニーチェと共にトータルに否定することができたのである。
 ところがレーフラーは、このリッチュル学派の傾向は、リッチュルとヘルマン、そしてさらにはマルティン・ケーラーを経由してカール・バルトの神学の前提となっているというのである。バルトはこのような人間学的、心理学的な神学批判、あるいはニーチェのように意志としての主体性による神学批判を克服するために、神が語るという啓示の真理性、上からの、超自然的な神学の開始点を学としての神学の営みの中に確保しようとしたのであるが、実はこのような超自然主義的な神学が可能になるのは、バルトが神学において「信仰の決断」という一点を必死に確保しているからであり、そこにバルトの神学は土台を置いているからである。それ故にバルトの超自然主義的な思惟の中には、真理を意志に基礎付けたニーチェの考え方が既に前提とされているにもかかわらず、バルトはリッチュルを批判することでニーチェの問題から解放されたと考えてしまったのである。レーフラーによればそれは間違いなのである。
 バルトの神学はリッチュルの問題を克服することができなかっただけはなく、むしろそれはリッチュルの神学の先鋭化、あるいは帰結なのであり、リッチュルにおいてもバルトにおいても、実践的な要求が超自然的な真理へと飛躍する動機を与えているという点では同じことなのだという。バルトはそれを「信仰の決断」と表現しただけなのである。この線でニーチェを克服することはできないのであり、むしろバルトの神学そのものがニーチェの神学批判の標的であり、それによってその誤りが明らかにされるものであることが分かるとさえ言うのである。つまり、決断としての信仰がその内容の真理性にとって決定的になっているような神学では、ひとはニーチェの意志の形而上学の地平から自由になっていないのであり、ニーチェによってその欺瞞性が解明された教会的キリスト教宗教そのものがバルトであり、さらにはゴーガルテンの決断主義だということになるのである。それ故にバルトやゴーガルテンは共に、ニーチェがもっとも鋭く批判したキリスト教の姿であり、ニーチェの批判がそこで明らかになるような神学なのである。
 バルトは自らの神学的立場を確立するためにリッチュルを批判し、その過程で合わせてニーチェを批判した。ニーチェのリッチュル批判はまったく正しいと述べ、その後で神学を超自然主義によって開始することで、リッチュルとニーチェを抱き合わせで批判し、処理しようとしたのである。そこでなされていることは、ニーチェが正しかったのはリッチュルに対してであり、自らが再構築するキリスト教はそれとは別だという考え方である。
 レーフラーはそのニーチェを使ってバルトを批判したが、しかしその後でニーチェを否定することはしなかった。むしろ彼は、ニーチェはあらゆる時代の教会的なキリスト教に対して正しかったのであり、その意味でニーチェは真のキリスト教を知る者だと考えたのである。
 このように、この時代のニーチェの流行は、単なるキリスト教批判のためのニーチェの援用ではない。ニーチェ自身のキリスト教批判は既に述べた通りリッチュルとその学派の神学を標的にしたものであるが、この時代のニーチェの思想の利用は、同じ神聖フロント世代が、主流派に転向したかつての同志たちを批判し、その唾棄すべき行為を告発するために用いられたもので、適応範囲がきわめて明確に限定されているのである。それ故に、カトリックの神聖フロント世代のひとりエーリヒ・プシィヴァラは、転向したフロント世代に対して次のように述べたのであった。「似合わない服を着てキャヴァレーから出てきて舞踏会に出てみたが、踊っているうちに相手も自分も悪臭を放つ死体になっていることに気が付いていなかった。」かつての同志への批判である、彼らの思想に対する「弔辞」をあえて書いて、「私はニーチェの言葉を引用し、彼らの冥福を祈ることにしよう」とまで書いたのである。
-------

うーむ。
正直、私もきちんと理解しないまま文字を追っているだけなのですが、「カール・レーフラー」が実在しないのであれば、ここまでの分量を重ねて「捏造」する理由は何なのか。
小柳敦史氏の発端の書評や関係論文を読んでみたい気もしますが、不慣れな分野でもあり、年内はちょっと無理ですかね。
まあ、もう少しすれば東洋英和女学院の学内調査委員会の結論も出るでしょうけど。
それにしても、こうした事態になってみると、「似合わない服を着てキャヴァレーから出てきて舞踏会に出てみたが、踊っているうちに相手も自分も悪臭を放つ死体になっていることに気が付いていなかった」はずいぶん気味の悪い予言のような感じもします。
それと、「キャヴァレー」が cabaret のことであれば、「キャバレー」の方が良さそうですね。
どうでもいい話ですが。

https://en.wikipedia.org/wiki/Cabaret
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「カール・レーフラー」を探して(その1)

2018-11-11 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月11日(日)21時56分18秒

深井智朗氏の件、ちょっとびっくりですね。

-------
東洋英和女学院院長に研究不正疑い 引用論文存在せず?

 学校法人・東洋英和女学院(東京都港区)が、学界や論壇で受賞を重ねる深井智朗(ともあき)院長の著書に「研究活動上の不正行為の疑いがある」として、学内調査委員会を設置することが9日わかった。深井氏が引用した神学者の論文の存在が確認できていないという。
 問題の著書は「ヴァイマールの聖なる政治的精神――ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム」(岩波書店、2012年刊行)。4ページにわたり、「カール・レーフラー」という名の神学者が書いたとされる論文「今日の神学にとってのニーチェ」に基づいて論考が展開されているが、当の論文の書誌情報は示されていなかった。【後略】

https://www.asahi.com/articles/ASLC972PYLC9UCLV013.html

この掲示板でも『ヴァイマールの聖なる政治的精神』に少し言及したことがありますが、私自身の関心は森鴎外の「かのやうに」に出てくるアドルフ・フォン・ハルナックという神学者について知りたいというだけのことだったので、「カール・レーフラー」が登場する部分は斜め読みで済ませていました。

五條秀麿の手紙(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/35e6dcdccbb3df021601109a5670b320
五條秀麿の手紙(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/749396dca7e34e24dd7faf3f62eba3aa
「かのやうに」とアドルフ・ハルナック
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/30c61f6e07014e1938162323f7670929
『ヴァイマールの聖なる政治的精神─ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/05c17e6a9f9523a67d4f569559ed713a

『ヴァイマールの聖なる政治的精神』を確認してみると、問題の「4ページにわたり、「カール・レーフラー」という名の神学者が書いたとされる論文「今日の神学にとってのニーチェ」に基づいて論考が展開されている」のはp196~199ですね。
同書の全体の構成は、

-------
プロローグ 聖なる政治的精神
――近代ドイツ・プロテスタンティズムの二つの政治神学
第1章 アドルフ・フォン・ハルナックとマックス・ヴェーバー
――世紀末の二人のリベラル・ナショナリスト
第2章 ゲオルク・ジンメルが見た転換期のドイツ神学
――ヴィルヘルム帝政期の国家神学とヴァイマールの神聖フロント世代の政治神学
第3章 学問の市場化としての「学問における革命」
――大学神学部と大学の外の神学
第4章 ニーチェは神学を救うのか
――ヴィルヘルム期からヴァイマール期の神学におけるニーチェの奇妙な流行
第5章 ヴァイマールの神聖フロント世代の殿を戦うディートリッヒ・ボンヘッファー
第6章 神聖フロント世代の両義的な政治精神
――パウル・ティリッヒとエマヌエル・ヒルシュにおける「民族的なもの」
エピローグ プロテスタンティズムとナショナリズム

https://www.iwanami.co.jp/book/b261288.html

となっていて、「第4章 ニーチェは神学を救うのか ヴィルヘルム期からヴァイマール期の神学におけるニーチェの奇妙な流行」は、

-------
1 「表現主義」批判としての「新即物主義」の時代
2 ニーチェのキリスト教批判はどのように解釈されるべきなのか
3 新即物主義の画家オットー・ディックス
4 ニーチェのキリスト教批判の神学的援用
5 神聖フロント世代における二つのニーチェ利用
-------

の五つの節に分れています。
問題の4頁は「4 ニーチェのキリスト教批判の神学的援用」ですね。
参考までに冒頭を少し引用してみると、

-------
4 ニーチェのキリスト教批判の神学的援用

 神学史のもうひとつの事例を取り上げてみよう。ヴィルヘルム期末期から既存の教会や神学への批判を繰り返していた『ディ・タート』誌に論文をしばしば投稿していた、ディックスと同年代の神学部外の神学者カール・レーフラーは、一九二四年に書かれた「今日の神学にとってのニーチェ」という論文の中で、ニーチェのキリスト教批判を分析した上で、今日のカール・バルトの神学はニーチェの批判したリッチュルの神学と同じ構造を持っているが故に、その批判を免れることはできず、ニーチェの批判によってカール・バルトの神学は消滅するという議論を展開している。レーフラーはかつて「パトモス・クライス」にさえ参加したバルトが、いつの間にかゲッティンゲン大学を皮切りに大学の教授となり、教義学大系に興味を持ち始めたということに疑念を持った神学者のひとりであった。彼自身は堅信礼教育における使徒信条の使用を拒否したために、牧師としての地位を剥奪され、自由キリスト者同盟という雑誌上の交流グループを一九二九年に立ち上げたひとりである。彼は神聖フロント世代のひとりであったが、二〇年代以降「転向」を果たした神学者たちの裏切りを批判した、フロントにとどまった神学者のひとりである。
-------

といった具合です。
このレベルの文章であれば「今日の神学にとってのニーチェ」には何らかの形で出典の明示が必須でしょうが、本文にも注記にも、それは見当たりません。
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松村敏「大正中期、諏訪製糸業における女工生活史の一断面」(その3)

2018-11-11 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月11日(日)09時29分7秒

「表4 岡谷製糸「北部」工場の「帰国」女工のうち非再入場者の状況」の数字は不可解ですが、「また資料には、「逃走」などの理由の記載とともに「見込ナシ」「止」「他へ移動」(他工場へ移動の意)、「不従事」(他の製糸工場にも不就業の意)など追跡調査の結果が記されているものもある(表4)」(p34)となっているので、逃走者の合計から再入場者数を引き算した51名のうち、「追跡調査の結果が記されている」16名だけを集計した、ということですかね。
とすると、残りの35名、全体の約69%については工場側は特に追跡調査をせず、放置したのかな、という話になります。
そうであれば、表4は松村氏の説明とは逆に、「実家訪問など工場側の徹底的な追跡調査」が行なわれなかったことを示すものとなりそうです。
さて、松村氏は「逃走」の時期について、

-------
 「逃走」の時期をみると(表5)、4~5月と7~8月が多く、9月以降はかなり減少している。この意味するものは何か? 6月は「逃走」だけでなく全体として「帰国」する者が少なく、これは実家の養蚕・農事手伝いで帰省中の者が多いことで説明できよう。
-------

とされていて(p36)、ちょっと意味が取りにくかったのですが、これは5月のうちに「養蚕」51名、「農事」1名、更に「本人病気」15名、「家族病気」22名等で合計128名が「帰国」しており、その多くが6月には工場に戻って来ていなかった、ということですかね。
5月の「帰国」128名は合計480名の約27%で、突出して多いのですが、その反動が6月に現れているということのようですね。
松村氏は続けて、

-------
9月以降の減少に関しては、『生糸職工事情』(1901年調査)に、女工が他工場に転じようとする時期は募集の時期から「旧盆の頃」までで、その後はほとんど「争奪の弊害」は止むとある。その理由は「旧盆の頃には工女の収得すべき賃金は幾分か已に積れるが故に工女は容易に転場をなさざるによる」という。1918~20年頃の岡谷製糸でも、賃金支払い方法は実質的にはまだ年末払いの慣行が続いていたはずであるから、同様の事情があったといえよう。「逃走」するなら早い方が得なのであった。
-------

とされており、「賃金支払い方法は実質的にはまだ年末払いの慣行が続いていた」は、月払いが常識である現在からは少し分かりにくい話ですが、これは、注(2)に説明があり、

-------
(2)賃金支払い方法は、年末払い慣行が続いていたが、工場法施行により1919年9月以降は毎月払が義務づけられた。岡谷製糸でも、1919年度の本社工場の雇用契約書(市立岡谷蚕糸博物館蔵「橋爪家資料」)には、賃金について、「毎月壱回御支払被下候事但シ大正八年八月迄ノ分ハ年末閉業帰宅ノ際御清算ノ上御支払ヲ受クル事」と記されている。しかし寄宿工の場合、1919年9月以降も実際には直ちに貯金に振り替えられ、実質は変わらなかったといわれており(桂皋「本邦製糸業労働事情(三)」『社会政策時報』42号、1924年、115頁)、岡谷製糸本社工場も同様だったであろう。
-------

ということですね。(p49)
従って、会社側から見れば、「逃走」した者に対しては既に働いた分についても賃金の支払いを免れて得をする訳で、それは「逃走」時期が遅ければ遅いほど良い訳ですね。
また、「解雇」する必要がある程ではないにしても、細かい作業が求められる製糸労働に向かない人、寄宿舎での団体生活に向かない人は、会社から見ると早く出て行ってくれた方がありがたい訳で、特に3~5月くらいに「逃走」した人に「実家訪問など工場側の徹底的な追跡調査」が行なわれたかは疑問です。
「北部工場」の場合、雑に人を集めて「逃走」した人にも雑に対応し、それなりに有能な人は調査したけれど放置も結構多かった、くらいが実情だったではなかろうかという感じがします。
とにかく「北部工場」は168釜程度の規模なので、どこまで一般化できるのかという不安はつきまといますね。
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松村敏「大正中期、諏訪製糸業における女工生活史の一断面」(その2)

2018-11-10 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月10日(土)12時45分10秒

さて、合資岡谷製糸会社はどのような会社かというと、

-------
合資岡谷製糸会社は、1897年に設立され、1918年当時、岡谷に本社工場、埼玉県大宮、茨城県荒川沖、同県真鍋にも工場を持つ約4千釜の大製糸経営であったが、1928年に株式会社組織に改組され、さらに1931年には同社の本社工場は丸興製糸会社の設立に参加した。
-------

とのことですが(p28)、丸興製糸会社は昭和の大不況期に、倒産の危機にあった多くの会社を救済するために設立された会社ですね。
つまり合資岡谷製糸会社は最終的には経営に行き詰った会社ですが、それは本論文で検討の対象としている1918~20年からはかなり先のことになります。
なお、会社自体は「約4千釜の大製糸経営」とはいえ、主たる分析の対象となっている「北部」工場は168釜なので(p29)、大正後期では中規模、というか小規模ですね。
記述の内容から見ても最新鋭の工場とはとても言えないので、この工場の状況をどこまで一般化できるのか、という問題は最後まで残ります。
ま、それはともかく、「北部」工場での中途退場の実態はというと、

-------
Ⅱ.岡谷製糸「北部」工場の「帰国」女工

 資料に記載された女工は、「逃走」、他工場の「権利」女工のために有権工場に引き渡したもの、あるいは「東京行」などと記されているものもあり、たんに実家への帰宅のみならず岡谷製糸「北部」工場からいずれかへ転出したものすべてを含んでいる。以下でいう「帰国」も、年末閉業以前の中途退場すべてを含むことにする。
-------

という点に注意した上で数字を見ると、

-------
「帰国」女工数は、1918年140名、19年181名、20年159名なので、「北部」工場の全就業女工に占める割合をみると、各年の「北部」工場の女工数を200名と仮定して、それぞれ70%、90%、80%、釜数比では83%、108%、95%というきわめて高い「帰国」率となる。大部分の女工は、さまざまな理由で年途中に実家に帰ったり、あるいはいずれかに転出したりしていたのである。また最好況期の1919年の「帰国」者が最も多く、とくに同年の「逃走」数が突出していたり、反対に同年の解雇がわずか1名であったことなどには景気変動の影響が読み取れよう。ただし彼女らは「養蚕」など農作業のために一時「帰国」を目的とする者も多く、再び年内に工場に戻ってくる者が「帰国」女工中、約半数いた。
-------

ということで(p30)、「帰国」率の高さにはびっくりしますね。
そして、「帰国」理由中の第一位は「逃走」であり、1918年13名、1919年61名、20年46名の計120名で、三年間の「帰国」総数480名のちょうど4分の1ですね。
となると、悪辣な資本家に奴隷のように働かせられた哀れな工女が必死に逃げた、という「女工哀史」というか、「アンクル・トムの小屋」的なイメージも頭をよぎる訳ですが、しかし、「逃走」した女工で年内に再び戻ってくる人の割合が58%であることをどう考えるのか。
松村氏は、

-------
これは自発的に戻ってくる場合もあるかもしれないが、工場側の追跡により連れ戻された場合が多いと推定される。すなわち「逃走」後、再入場までの期間をみると(表3)、3分の2近くが一ヵ月未満と短期であり、ほんの1、2日以内の場合もあった。また資料には、「逃走」などの理由の記載とともに「見込ナシ」「止」「他へ移動」(他工場へ移動の意)、「不従事」(他の製糸工場にも不就業の意)など追跡調査の結果が記されているものもある(表4)。山本茂実『あゝ野麦峠』などに記されている工場側の追手の実在が窺われ、前者(「逃走」後ごく短期のうちの再入場)は追手に拘束されたもので、また「見込ナシ」などの記載は実家訪問など工場側の徹底的な追跡調査が読み取れる。
-------

とされていますが(p34)、「表4 岡谷製糸「北部」工場の「帰国」女工のうち非再入場者の状況」を見ると、「逃走」の合計が16名、全体の合計が47名となっており、この表自体がちょっと理解できないですね。
「表2 岡谷製糸「北部」工場の理由別「帰国」女工数と再入場数」によれば、「逃走」は三年合計で120名、そのうち69名が再入場なので、引き算をすれば「非再入場者」は51名のはずですが、前述のように表4では16名だけです。
何かの間違いではないかと思うのですが、その点を別としても、「見込ナシ」「止」「他へ移動」「不従事」といった僅かな記載だけで「工場側の徹底的な追跡調査が読み取れる」かは疑問です。
まあ、これだけ数が多く、再入場率が58%で、「「逃走」後、再入場までの期間をみると(表3)、3分の2近くが1ヵ月未満と短期であり、ほんの1、2日以内の場合もあった」となると、「逃走」という非常に厳しい言葉にもかかわらず、実際には日常茶飯事、「無断欠勤」に毛の生えた程度の出来事のような感じもします。

http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/2885/1/35-2P229-262.pdf
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松村敏「大正中期、諏訪製糸業における女工生活史の一断面」(その1)

2018-11-09 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月 9日(金)11時15分32秒

松村敏氏(神奈川大学教授、1955生)には『戦間期日本蚕糸業史研究 片倉製糸を中心に』(東京大学出版会、1992)という著書があって、諏訪製糸の経営者側の事情に非常に詳しい方ですね。

経済学部経済学科 松村 教授(神奈川大学サイト内)
http://professor.kanagawa-u.ac.jp/econ/economics/prof13.html

-------
戦間期日本製糸業のトップメーカー片倉製糸の,購繭・生糸生産,販売,利潤獲得面での経営特質と,片倉の地方財閥としての展開を,未公刊の経営資料にもとづき,初めて実証的に分析.蚕種業等関連部門の変容を含めた日本蚕糸業の構造変化,諸特質を展望する.

http://www.utp.or.jp/book/b299607.html

松村氏の「大正中期、諏訪製糸業における女工生活史の一断面─合資岡谷製糸会社の一、二の資料から─」(神奈川大学経済学会『商経論叢』35巻2号、1999)はPDFで全文が読めますが、参照の便宜のために少し転載してみます。

http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/2885/1/35-2P229-262.pdf

-------
Ⅰ.はじめに

 山本茂実の名著『あゝ野麦峠』刊行以来、製糸女子労働史、とりわけ諏訪の「製糸女工哀史」は一般にも有名になった。それに関する学問的研究も進展し、労働条件、賃金制度や製糸同盟の機能などに関する分厚い研究の蓄積がなされてきた。にもかかわらず、「劣悪な労働条件」を強調する研究が多く重ねられてきた一方で、「女工哀史」批判を主張する人々も少なくない。歴史研究者の間でも、戦前期の製糸女工(さらに他産業の女工)のイメージはまだ確定されているとはいえないと筆者は考えている。すなわち、制度面での研究は進んでも、彼女らの生活・就業スタイル、意識、行動などについては意外に研究が少なく不明な点が多いのであり、それが製糸女工像を不鮮明にしている点があるように思われる。
 本稿は、戦前期諏訪製糸業における代表的な製糸経営の1つであった合資岡谷製糸会社の大正中期の「中途退場」に関する2つの資料から、この時期の諏訪製糸業の女工の就業実態、行動様式の具体相を可能な限り読み取ろうとする試みである。すなわち従来の研究では、女工の就業に関して勤続年数や次年度残留率などはさかんに論じられてきたが、当初の農閑余業的な操業の中での「牧歌的な」就業のあり方から通年操業的に移行していくにつれ、女工が工場により拘束的になっていく過程については、あまり関心がもたれることがなかった。このため器械製糸女工は、あたかもこんにちの工場労働者のように、操業中は原則として通年(春挽から年末閉業時まで)就業していたかのような錯覚に陥りやすい。しかし実際には本稿で明らかにするように、大正中期の大規模器械製糸工場でも通年就業などというイメージとはかなり異なったものであったのである。ではどのような理由で、どの程度の女工たちが「中途退場」し、その後どう行動したのか、そこから何が読み込めるか、これが本稿の課題であり、そこから女工のリアルな姿を浮かび上がらせてみたいと考える。
-------

「器械製糸女工は、あたかもこんにちの工場労働者のように、操業中は原則として通年(春挽から年末閉業時まで)就業していたかのような錯覚に陥りやすい」とありますが、松沢裕作氏の『生きづらい明治社会』は、この種の「錯覚」の典型例ですね。
松沢氏は「労働時間は長く、提供される食事は貧しく、そして彼女たちは寄宿舎に閉じ込められて生活して」いたことの参考資料として「明治三十年六月二日」付の「製糸工女約定書」を挙げているのですが、これは明らかに春挽には出ず、夏挽だけ働いた人の例ですね。
おそらく印刷された統一書式の契約書なので「明治三十年三月より同年十二月まで、製糸開業中就業の約定致し」云々となっているだけだと思います。
「長池村」ならぬ「長地村」の人なので、通勤工女の可能性が高く、「寄宿舎に閉じ込められて生活して」いた訳でもなさそうなことは既に述べました。
ついでにいうと、この人は十八歳ですから、工女としての勤務を十二・三歳で始める人の多い当時としてはおそらく相当経験豊富な人であり、また「約定金」の五円は有能と評価されている証拠ですから、「百円工女」クラスの高給取りの可能性も高いですね。
ま、松沢氏は特に深く考えることもなく、中村政則『労働者と農民』を鵜呑みにしているだけでしょうが。

松沢裕作『生きづらい明治社会』(その5)~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4c2cc27e21e877f5c7b3716704059bb1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/516947ede8681179b3deb52958e7f303
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc41bdd5e500d67043621a5114e098a3
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峠にて

2018-11-08 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿日:2018年11月 8日(木)20時16分57秒

ちょっと投稿に間が空いてしまいましたが、この掲示板で年内にどうしても纏めておきたいテーマがあることとの関係で、現在の話題についてどこまでやるか少し悩んでいるところです。
松沢裕作氏は『生きづらい明治社会』巻末の「参考文献」として、蚕糸業に関しては中村政則氏の『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)だけを挙げており、本文も中村著に全面的に依拠していますが、松沢氏の記述と直接関係する部分以外でも中村著は問題点が極めて多く、それを現時点での近代製糸業に関する研究水準に照らして全て検討するとなると大変な手間と時間がかかってしまいます。
そこまではとてもできそうもないので、製糸工女の長時間労働の実態については松村敏氏(神奈川大学経済学部教授)の「大正中期、諏訪製糸業における女工生活史の一断面─合資岡谷製糸会社の一、二の資料から─」(神奈川大学経済学会『商経論叢』35巻2号、1999)を少し紹介し、中村氏が「非人道的」と悲憤慷慨する諏訪製糸同盟の「権利工女」登録制度と「等級賃金制」については東條由紀彦氏(明治大学経営学部教授)の『製糸同盟の女工登録制度』(東大出版会、1990)を参考に少し論じる程度にしようかなと思っています。
また、諏訪の製糸業者と対照的に、郡是株式会社(グンゼ)の雇用関係は過度に理想化・賞賛されることが多かったのですが、その実態について詳しく検討された榎一江氏(法政大学大原社会問題研究所教授)の『近代製糸業の雇用と経営』(吉川弘文館、2008)も興味深い研究なので、余裕があれば少し紹介したいと思っています。
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「関係者の謝罪公告をとり解決をしている」(by 山本茂実)

2018-11-04 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月 4日(日)11時10分2秒

今まで『新版 あゝ野麦峠』(朝日新聞社、1972)を参照していたのですが、同書の「新版を出すにあたって」(p1以下)に、

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 近代日本のある裏面史を描いたこの本が出版されたのは、<明治百年>といわれた昭和四十三年のことでした。あれからちょうど四年、その間にこの本は、三十五刷もされて紙型が磨滅してしまい、この度新版を出すことになりました。【中略】
 新版を出すにあたっては、その後の取材で入手した新資料の追加、事実の誤りの訂正、文章の整理、そして全国の読者から寄せられたおびただしい数の手紙による助言と資料提供などによって、旧版を全面的に書き改めました。
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とあったので、念のためと思って初版の『あゝ野麦峠』(朝日新聞社、1968)を入手し、比較してみたところ、

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文明開化と野麦峠
日清・日露戦争と野麦峠
古川の大火と野麦峠
諏訪湖の哀歌
弁天沖の哀歌
天竜川の哀歌
工女の残した唯一の記録
雪の野麦峠越え
工女の故郷飛騨
女工惨敗せり
興亡・岡谷製糸
野麦峠のお地蔵様
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の大きな章立て(番号はなし)には全く変更はないですね。
そして、各章は、例えば、

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諏訪湖の哀歌
 農家のイロリ端の約定証
 諏訪湖の夜明け
 熱湯と蒸気と騒音の中で
 工女虐待の乱暴検番検事局送り
 工女は泣くのが仕事だった
 水車にひっかかっていた工女
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といった具合に4から8程度の節(これも番号はなし)に分れているのですが、それも、「諏訪湖の哀歌」の「農家のイロリ端の約定証」が新版で「いろり端の約定証」となっているなど細かい違いがあるものの、実質的な変更はありません。
ということで、全体の構成は全く変化がない代わりに、本文はチョコチョコと細かく追加・削除・変更がなされていますが、読者の印象に影響を与えるような重要な変更は皆無ですね。
ただ、「私の取材メモから─「あとがき」にかえて─」に、

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 なお二年前、雑誌に発表した私の小文が盗作と書かれたことがありましたが、これについては関係者の謝罪公告をとり解決をしていることは、すでにご存じのことと思いますが、念のためここに付言します。
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という一文があり(p398)、新版で削除されているとはいえ、この点は看過できません。
客観的な事実としては、「公告」の有無はともかくとして、山本が「関係者の謝罪」を取ったのは産経新聞だけです。
朝日新聞は長野地方版でのパクリ記事すら謝罪しないのですから、「二年前、雑誌に発表した私の小文」に関する新聞記事を謝罪しないのは(朝日基準からすれば)当然です。
そして、山本は「盗作」の被害者である蒲幾美氏の名前は出していませんが、この一文を見て蒲氏を「関係者」と誤解し、蒲氏からも「謝罪公告をとり解決をしている」と誤解する人がいても不思議ではありません。
というか、「関係者」を産経新聞と限定していないのだから、蒲氏を含むものと解するのが自然ですね。
蒲幾美氏は「野麦峠」を収めた『飛騨ろまん』(角川文芸出版、1984)でも別に山本の「盗作」に言及している訳ではありませんが、「野麦峠」に触れたエッセイ「絵馬市」や「あとがき」を読めば、山本との間で何等の和解もなされていないのは明らかです。
そもそも蒲氏が山本の盗作を疑うのは、蒲氏が命名した創作上の人物の名前である「つや」を山本が勝手に使った一事だけからも当然のことであって、謝罪すべきは山本の方ですが、山本は『あゝ野麦峠』が大ベストセラーになったのをいいことに、だんまりを決め込んでいるとしか思えません。
「関係者の謝罪公告をとり解決をしている」云々は、山本の人間性を考える上で非常に重要な記述ですね。
山本は自己の経歴を、

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大正6年(1917)長野県松本市生れ。松本青年学校教師、松本連合青年団長となり神田塾を主宰。昭和23年上京、早稲田大学文学部哲学科に学ぶ。人生雑誌「葦」、「小説葦」、「総合雑誌「潮」などを創刊。各編集長をつとめる。現在は作家として執筆生活。
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とし、新版でも「早稲田大学文学部哲学科に学ぶ」を維持していますが、こう書かれたら普通の読者は早稲田大学文学部哲学科を卒業したものと思うはずです。
わずか一年ほどとはいえ、大学が正式に認めた「聴講生」であり、もぐり学生ではなかったのだ、だから「早稲田大学文学部哲学科に学ぶ」はウソではないと山本は言うのでしょうが、非常に紛らわしい表現をしながら「誤解するのは読者の勝手」と放置するのは、デビュー作『哲學随想録 生きぬく悩み』以来の山本の常套手段ですね。
そしてこれは『あゝ野麦峠』全体についても当てはまるものと私は考えています。

山本茂実『哲學随想録 生きぬく悩み』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bbdf2e2a199b2d9662648e40db2fb66b
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