徳政相論(論争)
やれ困ります 緒嗣説く。
(805年)(菅野真道(すがののまみち))(藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ))(徳政相論)
[ポイント]
1.徳政相論(論争・争論)(805)とは、二大政策(軍事と造作)をめぐり、継続を主張する菅野真道と、反対の藤原緒嗣の論争。
[解説]
1.徳政相論は、東北地方での蝦夷討伐軍事と平安京造営などの造作という桓武天皇時代の二大政策をめぐる論争。二大政策の継続を主張する菅野真道に対し、藤原緒嗣(藤原百川の子、式家)は「天下の民が苦しむ元凶は軍事と造作」と主張。桓武天皇は緒嗣の議を採用、ついに二大事業を打ち切ることにした。桓武天皇は翌年亡くなるのである。
〈2015慶大・法
次の本文を読み、空欄[1516]~[1718]に入る最も適切な語句を語群より選べ。また、本文中に1か所ある下線部に関連した設問1~3について、それぞれの指示に従って番号を選べ。本文および設問の文中にある空欄[X]、[Y]および[Z]は、問題作成上あえて伏せ字にしたものである。引用した史料の原文は、適宜改めてある。
旧来の寺院勢力を排除し、新たな皇統に相応しい宮都を求めて、[X]は即位後、平城京から、水陸交通の便が良い長岡京への遷都を断行した。ところが、造長岡宮使に任じられ造営事業の陣頭指揮に当たっていた[Y]が射殺されるという事件が起きた。[Y]は[X]の皇位継承に尽力した[0102]の出身であり、「天皇、甚だこれを委任して、中外の事皆決を取る」と評されるほどの寵臣であった。すぐさま数十人が犯人として捕らえられ、処罰された。万葉歌人として名高い[0304]も、すでに死去していたが、この事件を首謀したものとして官籍から除名された。また、[0506]が事件への関与を疑われ、皇太子の地位を廃されて乙訓寺に幽閉された。[0506]は自ら飲食を断って無実を訴えるも、淡路へ配流される船中で没したと伝えられている。
この事件そのものが長岡京の造営に影響を与えたかどうかは定かでないが、しばらくしてのちに、皇太夫人であった[X]の生母[0708]や2人の妻が相次いで死亡するなどの不幸が続き、畿内に天然痘が流行するなどの災厄に襲われた。これを[0506]の怨霊の崇りによるものと考えた[X]は、折しも水害に見舞われた長岡京の造営を諦めざるを得なかった。『[Z]』延暦18年2月乙未条によれば、[0910]が[X]に「潜かに奏して」遊猟を□実に葛野の地を視察させたという。そして[X]は再び都を遷すことを決断した。平安京への遷都である。
ところで、長岡京造営中に[Y]が暗殺され、[0506]が廃太子となった事件は、国史編纂においても取扱いに苦慮した出来事だったようである。
(弘仁元年9月)丁未、・…… [1112]に載する所の……好からぬ事を、皆悉に破り却て賜いてき。而して更に人言に依りて、破り却てし事を本の如く記し成しぬ。此も亦礼无(な)き事なり。今前の如く改め正せる……。(『[Z]』)
省略した前後の記述も参照すると、ここでは、[X]が[0506]の怨霊を畏れて『[1112]』から先の事件に関する記事を削除させたこと、[X]の没後、[Y]の娘[1314]らが人の証言を得てその記事を元のとおりに復活させたこと、それに対して後代の天皇が無礼と評し、改めて削除させていたことが読み取れる。権力者の意向によって国史の内容が変転する様を見せているのである。
在任中、[X]は、律令制の緩みを正すために、官僚機構の再編成や社会的実情に見合った制度の合理化、民衆の負担軽減に資する政策を行った。しかし、蝦夷征討と平安京造営を二大事業として推し進めたために、結果として国家財政は窮乏し、民衆は疲弊した。政治のあり方を見直すために、[X]は信任が厚い[1516]と[1718]を呼んで議論させた。このときの様子は次の史料に見ることができる。この史料では、空欄[ア]に当たる人物が[1516]であり、空欄[イ]に当たる人物が[1718]である。
(延暦24年12月)壬寅、……時に[ア]議して云う。方今天下の苦む所は、軍事と造作となり。此の両事を停むれば百姓安んぜむ。[イ]異議を確執し、聴くことを肯んぜず。帝、[ア]の議を善しとす。即ち停廃に従う。有識之を聞きて、感歎せざる莫し。(『[Z]』)
これにより征夷と造都はいったん打ち切られることとなるが、律令国家の支配力拡大に腐心した[X]の治績は、「文華を好まずして、遠く威徳を照す。宸極に登りてより、心を政治に励し、内には興作を事とし、外には夷秋を攘つ。当年の費と雖も、後世頼とす」(『[Z]』大同元年4月庚子条)と評された。
(答:0102 式家、0304 大伴家持、0506 早良親王、0910 和気清麻呂、
設問1 次の文章を読み、空欄[1920][2122]に入る最も適切な語句を語群より選べ。
延暦7年12月、[X]は「坂東の安危、此の一挙に在り」と訓じて征東大将軍[1920]を送り出した。しかし、蝦夷の返り討ちに遭い、政府軍は大敗を喫したのである。この敗戦を受けて[X]は周到に準備を整え、延暦13年、同20年に大規模な派兵を敢行し、いずれも政府軍が勝利を収めた。[X]の征夷事業はこののち、延暦24年にいったん打ち切られることとなるが、弘仁2年には征夷将軍[2122]が率いた遠征によって残る蝦夷も制圧された。およそ38年の長きに及んだ戦いがようやく終息に向かったのであった。
設問2 次の[01]~[05]の文章のうち、令外官の職務や組織に関する説明として正しいものを選び、その番号を解答欄[2324]にマークしなさい。
[01]中納言は、天皇に近侍して奏上・宣下に当たるものとして、大納言の定員が削減されたことにともなって設置された。大納言に準じる地位を与えられ、朝政に参議し、大納言と同様に大臣の職務を代行することもあった。
(×大納言とちがい、大臣不在の際、職務を代行できなかった)
[02]按察使(あぜち)は、地方行政の監察機関としての役割を担うものとして設置された。当初は畿内を除いた全国の国守が兼帯し、複数の隣国を互いに巡察した。国司の不正を摘発し、優良な国司を中央に報告することなどを主な任務とした。
(×全国の国守ではなく、数カ国のうちから1人の国守が任命される)
[03]勘解由使は、国司が交替する際の事務引継ぎを監督するために設置された。前任の国司について正税稲など官物の欠損や職務怠慢の有無を厳しく監査し、不正がなかった場合にはそのことを証する解由状を交付した。
(×職務は前任国司が持ち帰った解由状の審査にとどまる)
[04]検非違使は、犯罪や風俗の取締りなど警察権を行使し、京中の治安維持に当たるものとして設置された。この官職には専任の者が就いたが、弾正台・刑郎省・京職などを経験した者が除目を経て任じられたことで、しだいにそれらの職務を吸収し、訴訟・裁判の事務をも取り扱うようになった。
(×衛門府の役人が任命された)
[05]蔵人頭は、天皇の秘書としての役割を相うものとして設置された。天皇の宣旨によって任命され、蔵人所の実質的な長として本官を持つ者2名が兼帯し、太政宮との間に入って詔勅の伝達や奏上の取次ぎを行った。
(〇)
設問3 次の[01]~[05]の文章のうち、[X]が行った政策に関する説明として誤っているものを選び、その番号を選べ。
[01] 令で定められた定員外に置かれていた国司を廃止した。(〇)
[02] 畿内を除いて徴兵による軍団制を廃止し、郡司の子弟を健児として採用した。
(×畿内はじめ全国で軍団制を廃止。ただし陸奥・出羽など辺境は軍団制を残した)
[03] 公出挙の利息を改め、10束につき利息を3束収めるようにした。(〇)
[04] 正丁に課される雑癌の期間を年30日とした。
(〇)
[05] 班田収授を励行させるため、班田の期間を一紀―班に改めた。
(〇)
(答:1516藤原緒嗣、1718菅野真道、1920紀古佐美、2122 文室綿麻呂、
2324-05、2425-02 ※原問には選択肢が66語あり、なおX桓武天皇、Y藤原種継、Z日本後紀)〉
〈2014日本女子大・人間社会:「
問1 下線部1軍事と造作のため、国家財政は窮乏し、農民の疲弊が進んだ。下線部1にあてはまる組み合わせとして最も適当なものを、下記のa~eの中から一つ選べ。
a 薬子の変と平城京造営
b 藤原広嗣の乱と国分寺建立
c 隼人征肘と遣唐使船の建造
d 伊治呰麻呂の乱と大仏造立
e 蝦夷征討と平安京造営
(答:e)〉
〈2013早大・文化構想
805年には、勅によって、藤原緒嗣と菅野真道との間で天下の徳政をめぐる相論がおこなわれ、その結果、b軍事と造作が中止された。」
問2 下線bに関する説明として正しいものはどれか。1つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。
ア 軍事とは対隼人戦争のことである。
イ 造作とは長岡京造営のことである。
ウ 軍事とは対新羅戦争のことである。
エ 造作とは平安京造営のことである。
オ 軍事と造作とは、架空の課題として設定されたものである。
(答:エ)