[ゴロ]小6薬子(くすこ)と/高2の亮(りよう)さんは/けばい・ドクダミ・黒カレーを/食え
(新撰姓氏録(しょうじろく)・薬子(くすこ)の変)(弘仁(こうにん)格式(きゃくしき)・凌雲集・三筆)(検非違使(けびいし)・徳丹城・蔵人(くろうど)・文華秀麗集)(公営田(くえいでん))
[ポイント]
1.嵯峨天皇は、薬子の変を鎮め蔵人所・検非違使を設置、『新撰姓氏録』『弘仁格式』『凌雲集』『文華秀麗集』を編纂、文室綿麻呂を派遣し徳丹城を築き、三筆の一人である。
[解説]
1.嵯峨天皇(786~842、位809~23)は、即位ののち810(弘仁元)年に、平城京に還都しようとする兄の平城太上天皇と対立し、「二所朝廷」とよばれる政治的混乱を生じた。結局、嵯峨天皇側が迅速に兵を出して勝利し、太上天皇はみずから出家し、その寵愛を受けた式家藤原薬子は自殺、薬子の兄藤原仲成は射殺された(薬子の変、平城太上天皇の変ともいう)。
2.この事件の際に、天皇の命令をすみやかに太政官組織に伝えるために、秘書官長としての蔵人頭を設け、藤原冬嗣(北家)らを任命した。その役所が蔵人所(810設置)で、それに属する蔵人はやがて天皇の側近として宮廷で重要な役割を果たすことになった。
3.また嵯峨天皇は、平安京内の警察にあたる検非違使を、816年に設けた。検非違使は、のちには裁判もおこなうようになり、京の統治をになう重要な職となっていった。
4.嵯峨天皇は、氏姓秩序の混乱を収めるため『新撰姓氏録』(814成立)を、法制の整備のため『弘仁格式』(820成立)を編纂した。
5.朝廷は財政難に苦しみ、小野岑守(おののみねもり)の建議により大宰府の財源として、公営田が設けられた(823設置)。
6.嵯峨天皇は、蝦夷征討に文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)を派遣、最後の城柵の徳丹城(とくたんじょう)を築いた。
7.嵯峨天皇は、初の勅撰漢詩文集である『凌雲集』(814成立)を、ついで『文華秀麗集』(818成立)を編纂させ、三筆の一人として数えられる能筆でも知られる。
〈2014明大・情報コミュ(情報コミュ(A))
下線部(カ)桓武天皇から嵯峨天皇の時期の政治動向として、もっとも正しいものを、次の(1)~(4)のうちから1つ選び、マーク解答欄に記入しなさい。
(1) 藤原氏らにより、道鏡が下野薬師寺に追放された(×770年)
(2) 早良親王の怨霊の跳梁を恐れ、長岡京遷都は実行されなった(×長岡京へは建設途上に遷都。しかし建設が放棄され平安京へ遷都された)
(3) 藤原薬子が自害したことで、一時的に藤原北家の勢力は衰えた(×薬子は式家)
(4) 平安京の治安維持を担当する検非違使が設置された(〇)
〈2014近大・法
平安遷都後の9世紀前半には文章経国の思想が高まりに、[ ]の治世である弘仁年間には勅撰漢詩集である『凌雲集』や『文華秀麗集』が編纂された。問3 空欄に入れる天皇名として最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。
1.桓武天皇 2.平城天皇
3.嵯峨天皇 4.仁明天皇
(答:3)〉
〈2013青山学院・文
809年に即位した嵯峨天皇は、翌年に発覚した薬子の変を平定し、蔵人頭や[ d ]などの令外官によって律令の官制に変革を加えた また、自らは漢詩文を多く残し、三筆の一人に数えられるなど、宮廷を中心とする唐風文化の隆盛をもたらした。彼の後を継いで823年に即位した淳和天皇の時代には、『養老令』の注釈書である『令義解』や、勅撰漢詩文集の『[ ウ ]』が編纂されたことでも知られている。」
(答:d検非違使、ウ経国集 ※稽古柔軟。)
〈2012慶大・文
次の史料(ニ)を読んで、設問に答えなさい。
(ニ)太上天皇、大和国添上郡越部村に至りたまふ。即ち、甲兵、前を遮るを聞きたまひて、行きたまふ所を知らず。…乃ちc.宮に旋りて剃髪入道したまふ。藤原朝臣( 4 )自殺す。( 4 )は、贈太政大臣( 5 )の女、中納言藤原朝臣縄主の妻なり。…
問1 史料(4~5)に当てはまる語句を記しなさい。
(答:4薬子、5種継)
問5 史料(ニ)の下線c「宮」の具体的な名称を記しなさい。
(答:c平城京(平城宮))
問6 史料(ニ)の事件の前年に即位したのが嵯峨天皇である。嵯峨天皇の時代を、次の3つの語をすべて用いて90字以内でまとめなさい。
蔵人所 検非違使 弘仁格式」
(解答例)
蔵人所や検非違使の設置や弘仁格式の編纂など、実状に合わせた律令官制・法制再建を図り、また漢詩文集の勅撰を進め、自ら三筆の一人に数えられるなど、唐風文化の隆盛に努めた。(83字)