goo blog サービス終了のお知らせ 

ベック式!難単語暗記法ブログ

質の高い暗記法、芸術的なゴロ合わせ、感動の記憶法をあなたに!抜群に効果的な実例満載!

本多正信

2016-12-07 | ベック式!日本史用語集



百姓財布なき ほんま?


百姓の余らぬやうになきやうに)(本多(ほんだまさのぶ))

[ポイント]
1.本多正信が「百姓は財の余らぬやうに不足なきやうに」と書いた。

[解説]
1.本多正信(ほんだまさのぶ)(1538~1616)は、江戸時代初期の大名で家康・秀忠の忠臣。正信の著書といわれるのが将軍秀忠に対する意見書『本佐録』。書名も本多佐渡守(さどのかみ)からきている。「百姓は天下の根本(こんぽん)也。是を治めるに法有り。先(ま)づ一人一人の田地の境目を能(よ)く立て、さて一年の入用作食(にゅうようさくじき)をつもらせ、其の余を年貢に収むべし。百姓は財の余らぬ様に不足なき様に、治むること道なり」とある。

2.家康の農民観「百姓共は死なぬ様に、生きぬ様にと合点(がてん)致し、収納申付様(もうしつくよう)」(『昇平夜話』)と混同しないようにしてください。


3.また江戸時代後期の経世家本多利明とも混同しないようにしてください。本多利明はその著『西域物語』で
神尾春央(かんおはるひで)の「胡麻の油と百姓は絞れば絞る程出(いず)るものなり」という言葉を引用している。

〈2012早大・文学部:「
問2 下線a百姓からぎりぎりまで年貢をり立てたについて。本多正信が述べた言葉として正しいものを1つ選べ。

 ア「君下に武士を立て、衆人の直耕せし穀産を貪り」と述べた。

 イ「百姓共は死なぬ様に、生きぬ様にと合点致し、収納申付様(もうしつくよう)に」と述べた。
 ウ「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べた。
 エ「百姓は財の余らぬやうに、不足なきやうに治むること道なり」と述べた。
 オ「五十戸良(さとおさ)が声は寝屋度(ねやど)まで来(き)立ち呼ばひぬ」と述べた。」

(答:エ ※ア安藤昌益、イ徳川家康、ウ神尾春央、オ山上憶良 )〉

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1841(天保12)年 〈天保の改革(~1843年)〉★

2016-12-06 | 『新日本史頻出年代暗記』

▲水野忠邦

●江戸時代(仁孝天皇 徳川家慶) 
Senior shogunal councilor Mizuno Tadakuni starts Tempo Reforms.
いやよいテンポ 水野(みずの)さん。
1841年    天保の改革 水野忠邦 株仲間の解散

1841年に大御所徳川家斉が死去すると、水野忠邦は大塩平八郎の乱やアヘン戦争など、体制を揺るがす国内外の厳しい問題に対応するため、天保の改革を断行。

株仲間の解散や人返しの法などを相次いで実施した。

さらに、上知令を出し、財政の安定や対外防備の強化をはかろうとしたが諸大名や旗本の反対にあい、忠邦は失脚。改革はわずか2年でおわった。

A crackdown on various forms of popular culture accompanying the Tenpo Reforms effectively silenced some writers and publishers, especially that produced koshokugabon (book of pornography), and served as an admonishment to others, such as an accusation against Sunshui TAMENAGA; as a result, ninjobon lost its vigor and creative force, and gokan (literally, bound-together volumes of illustrated books) appeared in numbers larger, to make up for that decline of ninjobon.

天保の改革によって特に好色画本が禁圧され、為永春水らが罪に問われるなど戯作者・版元に圧力が加えられると、人情本は衰退し、その穴を埋めるように合巻の刊行点数が増大した。

 



散歩は/上智に/(ひっ)返し水飲解散 日光威張家慶神水(しんすい)倹約!/タメ気炎

(将軍家慶日光社参(43)・印旛沼干拓)(天保の薪水給与令・倹約令)(人情本の永春水弾圧・棄捐令)


三方領知替え)(上知令(あげちれい(じようちれい)((43))(人返しの法)(水野忠邦・株仲間解散


[ポイント]
1.水野忠邦による天保の改革では、上知令株仲間解散三方領知替え問題・人返しの法があった。

[解説]
1.1841(天保12)年、大御所徳川家斉の死後、12代将軍徳川家慶のもとで老中水野忠邦(1794~1851)を中心に幕府権力の強化をめざして天保の改革をおこなわれた。

2.ついで江戸の人別改めを強化し、百姓の出稼ぎを禁じて、江戸に流入した貧民の帰郷を強制する人返しの法を発し、天保の飢饉で荒廃した農村の再建をはかろうとした。この強制で、無宿者や浪人らも江戸を追われ、江戸周辺の農村の治安悪化を引きおこすことになった。


3.また物価騰貴の原因は、十組問屋などの株仲間が上方市場からの商品流通を独占しているためと判断して、株仲間の解散を命じた。幕府は江戸の株仲間外の商人や、江戸周辺の在郷商人らの自由な取引による物価引下げを期待したのである。しかし物価騰貴の実際の原因は、生産地から上方市場への商品の流通量が減少して生じたもので、株仲間の解散はかえって江戸への商品輸送量をとぼしくすることになり、逆効果となった


4.一方、幕府は、相模の海岸防備をになわせていた川越藩の財政を援助する目的から、川越・庄内・長岡3藩の封地をたがいに入れ換えることを命じたが、領民の反対もあって撤回された。川越藩が豊かな庄内藩へ、庄内藩が越後長岡藩へ、越後長岡藩が川越藩へ移るもので、三方領知替(さんぽうりようちが)と呼ばれる。幕府が転封を決定しながらその命令が徹底できなかったことは、幕府に対する藩権力の自立を示す結果となった。


5.さらに水野忠邦は、1843(天保14)年に上知令を出し、江戸大坂周辺のあわせて約50万石の地を直轄地にして、財政の安定や対外防備の強化をはかろうとした。他地域に代替地は用意されたが、譜代大名旗本に反対されて上知令は実施できず、改革の失敗は改めて幕府権力の衰退を示した。

 

〈2016立教大・現心社コミュ福

 19世紀前半には、こうした国内問題に加えて対外問題もあいまって、幕府の弱体化が進んだ。この事態に対処するために老中( ワ )を中心に天保の改革と呼ばれる改革が実施されたが、充分な効果をあげることはできなかった。」

(答:ワ水野忠邦)〉


〈2016関西学院大学・全学部

問7a.享保の改革の上げ米は、大名に1万石につき100石を上納させ、かわりに参勤交代を緩めるもので、寛政の改革で廃止されるまで続けられた。
  b.上知令は江戸・京都周辺を直轄地として財政の安定と対外防衛の強化を図るものであったが、大名や旗本の反対にあい水野忠邦は老中を退いた。」

(答a×1722に開始したが享保の改革中の1730年に廃止、b×京都→大坂)〉


〈2016早大・法:

「問10 下線部「1843年には、c天保の無利子年賦返済令が出ている」のcと関連した、天保の改革の経済改革に関する次の記述のうち、正しいものを1つ選べ。

 あ 新田開発を目指し、商業資本に依拠して実施した印旛沼の干拓事業は、利根川の氾濫で失敗した。

 い 幕府領の年貢増収をはかって、土地・収穫高の再調査を命じる御領所改革を実現した。
 う 農村再建を図るため、江戸に流入した下層民を強制的に帰農させる「人返しの法」を実施した。
 え 江戸・大坂十里四方の知行地を幕府直轄領にする上知令を、大名・旗本の反対に抗して遂行した。
 お 幕政に重要な川越藩松平家強化のため、同家を庄内に、庄内藩酒井家を長岡に、長岡藩牧野家を川越に移した。」

(答:う ※あ・い・え×水野忠邦の失脚で中止、お×庄内藩の農民による激しい反対にあい中止)


〈2016明大・文

史料B
一 [ b ]のもの身上相仕舞(しんじようあいしま)い、[ c ]人別に入(い)り候儀、自今以後決して相成らず。
一 近年御府内へ入り込み、[ d ]等借請居(かりうけお)り候者の内ニハ妻子等もこれ無く、一期(いちご)住み同様のものもこれ有るべし。左様の類(たぐい)ハ早々[ e ]へ呼戻し申すべき事。(「牧民金鑑」)

注)身上相仕舞い…所帯をたたむこと、御府内…江戸、一期…一生涯


問6 空欄b・cに入る語として正しい組み合わせを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1b-宿場 c-江戸
 2b-在方 c-江戸

 3b-江戸 c-在方
 4b-在方 c-宿場


問7 空欄d・eに入る語として正しい組み合わせを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1d-田畑 e-屋敷 
 2d-裏店 e-屋敷

 3d-裏店 e-村方 
 4d-屋敷 e-村方


問8 史料Bに示された政策の説明として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1 この政策は、社会不安の要因である下層町人の人口減少を目的としていた。

 2 この政策は、江戸・大坂周辺の大名・旗本領を幕府の直轄地にすることを目的としていた。
 3 この政策により、町入用(町費)の節約分の7割を積み立て、災害や飢饉に備えさせた。
 4 この政策により、初めて住民の宗旨と戸籍が調査され、それを記録した帳簿が作成された。

(答:1)

問9 史料Bの政策が出された時期の出来事として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1 幕府は67年ぶりに日光社参を実行したが、大出費による財政悪化を招いた。

 2 幕府は庶民の風俗を厳しく取り締まり、歌舞伎の江戸三座を浅草のはずれに移転させた。
 3 北町奉行の遠山金四郎は江戸市中の改革をめぐり、南町奉行の鳥居耀蔵と対立した。
 4 幕府は川越・庄内・長岡の3藩の領地を入れ替える転封を実行し、幕府の力を示した。

(答:4)

問10 史料Bの政策が出された前後の時期のことがらI~Ⅲについて、古い順にならべたものとして正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 Iオランダ国王の開国勧告
 Ⅱモリソン号事件
 Ⅲ天保の薪水給与令


 1Ⅲ-Ⅱ-I  2I-Ⅲ-Ⅱ

 3Ⅱ-Ⅲ-Ⅰ  4Ⅱ-I-Ⅲ」

(答:問6→2、問7→3、問8→1、問9→4×庄内藩の農民の反対などで実施できず、問10→3 ※Bは「人返しの法」について書いている)


〈2016慶大・経済B方式

問3 下線部C天保の改革に関する以下の問に答えなさい。
 次の資料は、天保の改革の一環として幕府が発した法令の一部である(必要に応じて文章の一部を省略し、表現を変更した)。幕府がこの法令を発した意図を〔解答欄B〕の所定の欄の範囲内で説明しなさい。

 

  菱垣廻船積問屋どもより、是迄年々金一万二百両ずつ冥加上金納め致し来たり候所、…以来上納に及ばず候、尤も向後右仲間株札は勿論、此外にも都て問屋仲間ならびに組合などと唱え候義は相成らず候

  [資料出所]『江戸町触集成』                            

 

 〔解答例〕物価騰貴の原因は、株仲間による商品流通独占によるとして、株仲間外の商人や在郷商人らの自由な取引による物価引下げを期待し株仲間の解散を命じた。(70字)〉


[ポイント]

1.天保の改革期に、天保の薪水給与令倹約令棄捐令が出され、人情本為永春水の処罰、将軍家慶の日光社参がおこなわれ、印旛沼干拓が試みられた。

[解説]

1.忠邦は享保・寛政の改革にならい、まず将軍・大奥もふくめた断固たる倹約令を出して、ぜいたく品や華美な衣服を禁じ、庶民の風俗もまたきびしく取り締まった。高価な菓子・料理なども禁じたほか、江戸の211軒あった寄席を15軒に減らし、江戸の歌舞伎(三座)を浅草のはずれに移転させ、役者が町を歩く時には編笠をかぶらせた。また1842年、人情本作家の為永春水らも処罰(手鎖50日)した。

2.印旛沼の堀割工事による干拓にも、再度取組みがなされたが、忠邦が失脚すると、工事は中止された。


3.アヘン戦争の結果を知った幕府は、異国船打払令を緩和し、1842年、天保の薪水給与令を出した。


4.また物価騰貴は、旗本や御家人の生活も圧迫したので、幕府は、1843年に、棄捐令を出し、あわせて札差などに低利の貸出しを命じた。このような生活と風俗へのきびしい統制と不景気とがかさなり、人びとの不満は高まっていった。


5.1843(天保14)年には、将軍家慶67年ぶりに日光社参を実行して幕府権力の起死回生をはかろうとしたが、大出費による財政悪化と、夫役に動員された農民たちの不満をもたらすだけの結果となった。

 

〈2016明大・文

問9 史料Bの政策が出された時期(天保の改革)の出来事として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1 幕府は67年ぶりに日光社参を実行したが、大出費による財政悪化を招いた。

 2 幕府は庶民の風俗を厳しく取り締まり、歌舞伎の江戸三座を浅草のはずれに移転させた。
 3 北町奉行の遠山金四郎は江戸市中の改革をめぐり、南町奉行の鳥居耀蔵と対立した。
 4 幕府は川越・庄内・長岡の3藩の領地を入れ替える転封を実行し、幕府の力を示した。」

(答:4×庄内藩の農民の反対などで実施できず)〉


〈2012関西学院大・済国際総合

問5.下線部e天保の改革で行なわれた施策として、誤っているものを下記より選びなさい。

 ア.倹約令を出し、華美な衣服などを禁じ、風俗の取締を行なった。

 イ.商品流通の独占を回避するために、人返しの法を定めた。
 ウ.諸藩の専売制を禁じた。
 エ.将軍の権威を示すため、日光社参を行なった。」

(答:イ×江戸に流入する貧民などに対する人口抑制策)〉


【ベック式!日本文化史ゴロ合わせ暗記術】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (古代編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (中世編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (近世編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (近・現代編)】

にほんブログ村 受験ブログへ

受験 ブログランキングへ


日本史 ブログランキングへ

世界史 ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富本銭

2016-12-03 | ベック式!日本史用語集


富本銭なら 明日会計。


富本銭奈良県)(飛鳥池遺跡)



[ポイント]

1.飛鳥池遺跡奈良)から多数の富本銭が出土した。

[解説]

1.天武天皇は、律令・国史の編纂にならんで銭貨(富本銭)の鋳造も行った。

2.飛鳥池遺跡の調査により、1999年、多数の富本銭がその鋳型と共に出土した。この地に富本銭の鋳造工房があったことを示している。


3.「今より以後、必ず銅銭を用いよ」(『日本書紀』天武12(683)年条)にあたる銅銭が富本銭である可能性が高く、和同開珎(708年発行)をこえる日本最古の鋳造貨幣とみられる。

〈2013慶大・文:「
(イ)日本最古の貨幣は、長らく708年に発行された( A )とされていたが、それとは別に( B )という古い貨幣が存在したことが、江戸時代の文献に記されていた。1990年代に鋳造工房が発見され『( C )』の記述と相まって、それが( A )よりも古い貨幣である可能性が高まった。しかし、( B )が実際に流通していたか否かについては意見が分かれており、( A )も流通貨幣ではあったが、通用範囲は都周辺など限定的であった。」(答:A和同開珎、B富本銭、C日本書紀)〉

〈2013青山学院・文:「
D.7世紀の中ごろ以降、我が国が律令国家への道を歩み始めると、徐々に地方行政組織が整えられて、中央集権化が進められた。飛鳥地方には大規模な宮が造営されることになり、官僚制の形成も進んでいった。また、h銭貨の鋳造も行われることになった。(後略)」

問9.下線部hに関連して、1999年に「富本銭」を鋳造した工房跡が明日香村で発見されたが、この遺跡名は何というか。下から選んで、その番号をマークしなさい。
 1水落遺跡 2石神遺跡 3飛鳥池遺跡 4島庄遺跡(答:3)〉

〈2009早大・国際教養:「
現在知られている限り日本で鋳造された最古の貨幣は、7世紀後半の(a)富本銭という銅銭である。」

[問]下線部(a)が、鋳造に関わる遺物とともに多数出土したのはどこか。一つ選べ。
 ア長屋王邸宅跡 イ志苔館跡 ウ荒神谷遺跡 エ飛鳥池遺跡 オ唐古遺跡(答:エ)〉

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1811(文化8)年 〈ゴローニン事件〉★

2016-12-03 | 『新日本史頻出年代暗記』

▲ゴローニン

●江戸時代(光格天皇 徳川家斉) 
Golovnin, captain of the Rissian naval vessel Dianna, is captured and imprisoned by the Japanese while surveying the Kuril Islands.
人(ひと)灰色の 牢にいた。
           1811年 箱館   ゴローニン  高田屋嘉兵衛

1804年に通商を求める目的で来日したレザノフは通商を拒否されると、ロシア軍人を雇い、択捉島や樺太を略奪。

1811年、ロシア艦長ゴローニンは千島列島を測量中、捕らえられ、箱館に監禁された。

ロシアは翌年、択捉場所請負人高田屋嘉兵衛を抑留、ゴローニンは送還された嘉兵衛の尽力で釈放(ゴローニン事件)。ゴローニンは拘留中に『日本幽囚記』を書いた。

高田屋嘉兵衛

 

高行楽連れのこへかへ五郎。

(大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう))(ラクスマン)(津太夫(つだゆう)・ザノフ)(ゴローウニン・高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ))

 

[句意]高校大学で楽(らく)して勉強しない人には、疲れる(就職)浪人のカベがある、という句。「疲れる」はゴロのためやや苦しいが、(つだれる)と読んで下さい。ラクスマン→レザノフ→ゴローニンの順が分かればよいと思うので、「れ」だけで「レザノフ」の再現をお願いします。

 

[ポイント]
1.大黒屋光太夫ラクスマンに、津太夫レザノフに送還され、高田屋嘉兵衛ゴローウニンと交換された。

[解説]
1.ラクスマンは、1792年、女帝エカチェリーナ2世の命により伊勢の船員大黒屋光太夫(1751~1828)ら3名の送還と通商要求のため、根室に来航した。老中松平定信は、ラクスマンに対して、長崎入港許可証を交付して退去させた。桂川甫周(かつらがわほしゅう)が大黒屋光太夫から聴取して著した漂流記が『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』。


2.レザノフは、1804年、仙台の船員津太夫(1744~1814)ら漂流民4人を送って、ラクスマンが受けた長崎入港許可証を持参して来航。アレクサンドル1世の国書により通商を要求したが、幕府は拒否。帰路レザノフは、報復と威嚇のため、部下に樺太・千島を攻撃させた。

 なお津太夫らは1793年に石巻から江戸に向かう途中で漂流、翌年ロシア人に助けられ、シベリアから陸路ヨーロッパに出、大西洋から太平洋を通って1804年に帰国。彼らは結果として、日本人初の世界一周を成し遂げたことになる。江戸で取り調べにあった大槻玄沢(おおつきげんたく)により『環海異聞(かんかいいぶん)』が書かれた。

3.ゴローウニンは、1811年、レザノフ事件の報復として国後島で日本側に捕らえられた。ロシアはその報復として淡路商人高田屋嘉兵衛(1769~1827)を捕らえる。翌年嘉兵衛の努力などで両者の交換が実現。ゴローウニンはこの経験を帰国後『日本幽囚記(にほんゆうしゅうき)』に著す。

 

〈2016明大・文

問4 史料Aの政策が出された時期に関連して、18世紀末から19世紀前半の政治・社会についての説明として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
 1 ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、漂流民高田屋嘉兵衛を届けるとともに通商を求めた。
 2 幕府は朱子学を正学とし、湯島聖堂の学問所で朱子学以外の講義や研究を禁じた。
 3 幕府は林子平が『三国通覧図説』で海岸防備を説いたことを幕政批判とみて弾圧した。
 4 幕府は近藤重蔵・最上徳内らに択捉島を調査させ、「大日本恵登呂府」の標柱を立てさせた。」

(答:1×高田屋嘉兵衛→大黒屋光太夫)〉


〈2016早大・政経

【史料】大槻平次上書
 私義、昔年[ 1 ]を編著仕候大槻玄沢と申者次男に御座候所、魯西亜国の義は、……文化年中、3レサノツト〔レザノフ〕え論文御渡し……。(後略)

問1 空欄1に入るものはどれか。


 a『環海異聞』  b『采覧異言』

 c『新訂万国全図』 
 d『航海遠略策』 e『辺要分界図考』 

問3 下線部3レサノツト〔レザノフ〕についての記述として誤っているものはどれか。


 aフィンランド湾から大西洋を渡り、アメリカ大陸南端を通過、ハワイを経由してカムチャッカに至る大航海を経て日本に到達した。

 b長崎に来航し、通商を求めた。
 c津太夫らの日本人漂流民を送還したが、幕府はその受け入れを拒否した。
 d幕府に要求を拒絶された報復として、帰路、樺太や択捉島などの日本人入植地を攻撃した。
 eロシアの宮廷につかえ、また、露領アメリカ会社の総支配人でもあった。」

(答:問1a、問3c×送還はやや時期が長引いたが実現した)〉


〈2013早大・政経

問1 日露和親条約の締結に至るまで、当該地域で生じた出来事で、正しいものはどれか。

 ア)ラクスマンが、アレクサンドル1世の命を受け、津太夫らを伴い根室に来航した。

 イ)日露和親条約で、日本は南樺太を領有し、同地域は松前藩の直轄地となった。
 ウ)19世紀になって、幕府は樺太探索のために最上徳内を送った。
 エ)蝦夷地御用の近藤重蔵が「大日本恵登呂府」の標柱を立て、幕府が同地を直轄とした。
 オ)千島列島を測量中にとらわれたゴローニンの釈放に、大黒屋光太夫が尽力した。」

(答:エ ※ア×エカチェリーナ2世の命、津太夫ではなく大黒屋光太夫、イ×蝦夷地の大部分を幕府に召し上げられ(幕府直轄)、渡島半島南西部だけを領地とするようになった、ウ×探検は1786年、オ×高田屋嘉兵衛が尽力)〉


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1792(天明4)年 〈ラクスマンの来航〉★

2016-12-02 | 『新日本史頻出年代暗記』

●江戸時代(光格天皇 徳川家斉)
KLaxman arrives at Nemuro with Daikokuya Kodayu.

   異な国ロシア から来るね。
  1792年      ロシア      ラクスマン   根室

日本が鎖国政策を採っている間、ヨーロッパは資本主義社会へと進展。

近代化の遅れたロシアもシベリア進出を続けた。1792年、ロシア使節のラクスマンが根室に来航し、大黒屋光太夫《ロシアに漂流した彼は、〈大国や!〉と思っただろうね!》ら漂流民を送り届けるとともに通商を要求。

老中松平定信はこれを拒否したが、外交交渉のための長崎入港許可証を与えた。


〈『海国兵談』〉 江戸時代後期の経世思想家林子平は『海国兵談』を著し、日本周辺の状況と海防への与論の喚起をはかった。しかし、子平は人心を惑わしたとの理由で仙台蟄居を命じられた。それは1792年、ラクスマンが根室に来航する直前のことであった。

 


[ポイント]
1.列強の接近と幕府の対応は、ラックスマンの根室来航→近藤重蔵の千島探検→伊能忠敬の蝦夷地測量→レザノフの長崎来航→フェートン号事件間宮林蔵の樺太探検→ゴロウニン事件異国船打払令シーボルト事件モリソン号事件蛮社の獄と推移。これらすべて家斉(位1787~1837)・大御所時代(1837~1841)の事件です。

 

[解説]
1.ラクスマンの根室来航(1792)。ラクスマン(1766~1806?)はロシア帝国の軍人。女帝エカチェリーナ2世の命により漂流民の大黒屋光太夫(1751~1828)ら3名の送還と通商要求のため、1792年、根室に来航した。松前藩からの連絡で老中松平定信は、箱館廻航を指示。箱館で漂流民を受理したが通商は長崎にて協議するとして、長崎入港許可証(許可証を信牌(しんぱい)という)を交付して退去させた。しかしラクスマンは長崎に向かわず、そのまま帰国(帰国したとは知らない定信は、ラクスマンが長崎への途中、江戸湾に入るのではないかと心配した)。大黒屋光太夫は伊勢国の船頭。1782年伊勢から江戸に向かう途中遭難、アリューシャン列島に漂着。桂川甫周が光太夫から聴取して著した漂流記が『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』。

2.近藤重蔵の千島探検(1798)。近藤重蔵(1771~1829)は幕臣。蝦夷地(北海道)へわたり、最上徳内と千島列島を、択捉島まで探検し、同島に「大日本恵登呂府」の木柱を立てた。

3.伊能忠敬の蝦夷地測量(1800)。伊能忠敬(1745~1818)は、17歳のとき佐原の酒造業・伊能家に婿養子として入り、衰えていた家業を再興。50歳の時隠居し、江戸に出て当時の天文学の第一人者、高橋至時(1764-1804)の門下で学問の道に入る。より正確な暦を作るためには、地球の子午線1度の長さを測る必要があることから、師至時と謀り、地図製作のための測量を幕府に願い出て、1800年、許可を受ける。以後1816年までに全国を測量し、その成果が『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』。

4.レザノフの長崎来航(1804)。レザノフ(1764~1807)は貴族出身で、ロシア・アメリカ会社総支配人。漂流民4人を送って来航、アレクサンドル1世(1777~1825)の国書、及び先年ラクスマンが受けた長崎入港許可の信牌を持参し、通商を要求する。半年も待たせたうえで通商を拒否、レザノフ一行を追い返す形になった。帰路レザノフは、報復と威嚇のため、樺太千島で番所や漁船を攻撃する事件を起こす。以後、北方でロシアとの武力紛争が頻発するようになる。

 

5.フェートン号事件(1808)。フェートン号は英軍艦。仏・ナポレオン支配下のオランダ船を追って長崎港に侵入。幕府は撃退できず、イギリス側は薪水・食糧を奪って退去。長崎奉行松平康英(やすひで)はこの責任をとって割腹。

6.間宮林蔵の樺太探検(1808)。間宮林蔵(1780~1844)は幕臣。幕府の命により樺太とその対岸を探査し、樺太が島であることを確認し間宮海峡を発見した。測量を伊能忠敬に学び、忠敬が蝦夷地を全て測量することができなかったが、残した蝦夷地の部分を間宮が代わりに測量している。その結果、大日本沿海輿地全図の蝦夷地部分は、忠敬の測量図を間宮の測量図で補完したものになっている。

7.ゴロウニン事件(1811、ゴローウニン)。ゴロウニン(1776~1831)はロシア軍人。レザノフ事件の報復として1811年、国後島測量中捕らえられ函館に留置される。1812年、ロシア側は逆に淡路商人高田屋嘉兵衛(1769~1827)を捕える。翌年嘉兵衛の努力などで両者の釈放交換が実現。ゴロウニンはこの経験を帰国後『日本幽囚記』に著す。

8.異国船打払令(無二念(むにねん)打払令)(1825)。日本沿岸に来航する外国船に対し、その来航意図を考慮せず、二念なく撃退することを命じた法令。

9.シーボルト事件(1828)。博物学者でもあるドイツ人医師シーボルト(1796~1866)は日本研究(帰国後『Nippon』を著す)のため、出身を隠してオランダ商館医として来日。長崎郊外に鳴滝塾を開き、高野長英らに西洋医学を教授した。帰国直前、所持品を送った船が難破し、中から禁制品の日本地図(伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図)などが見つかり、それを贈った幕府天文方・高橋景保など多数が処断され、シーボルトも1829年国外追放処分を受けた。なおシーボルトは幕末の1859年に、再来日し幕府の外交顧問となっている。

10.モリソン号事件(1837)。モリソン号は米商船。日本人漂流民7人を送って来航したが、浦賀と薩摩の山川で撃退される。

11.蛮社の獄(1839)。翌年モリソン号事件を知った、渡辺崋山(1793~1841、三河国田原藩家老)・高野長英(1804~50、陸奥国水沢出身の町医者)らが事件と幕府の対外政策を、それぞれ『慎機論』、『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』で批判。このため両者の属する蛮社、すなわち洋学者のグループ(尚歯会)が、厳しい処罰をうけた。すなわち崋山は国元での永蟄居、長英は永牢に処せられた。この時この会の他の学者たちも別件で逮捕されたが、のちに無実とされた。

 

〈2016慶大・経済B方式

問2(1)江戸時代後期の日本とロシアの関係について、ラクスマンの来航から、レザノフの部下による択捉・樺太攻撃までの時期の日露間の交渉の推移を、〔解答欄B〕の所定の欄の範囲内で説明しなさい。」

〔解答例:ラクスマンが大黒屋光太夫ら漂流民送還と通商要求のため根室に来航したが、幕府は拒否し、長崎入港の許可証を与えた。この許可証と国書をもって長崎に来航したレザノフに対しても、拒絶したため日露間の緊張が高まった。(102字)〕〉


〈2016立教大・法済異文:「

問4.この時期の外交上の出来事a~dのうち、もっとも古いものを解答欄のiに、次に古いものをⅱに、以下同じようにⅳまで年代順にマークせよ。

 a.国後島に上陸したロシアの艦長ゴローウニンが日本の警備兵に捕えられた

 b.幕府は、松前藩から松前・蝦夷地すべての支配権を取り上げ、松前奉行の支配とした
 c.募府は、間宮林蔵に樺太とその対岸を探査させた
 d.レザノフが長崎に入港許可証をもって来航し通商を要求した」

(答:ⅰd、ⅱb、ⅲc、ⅳa)〉

 
〈2016早大・政経

[ⅲ]下線部3レサノツト〔レザノフ〕についての記述として誤っているものはどれか。

 aフィンランド湾から大西洋を渡り、アメリカ大陸南端を通過、ハワイを経由してカムチャッカに至る大航海を経て日本に到達した。

 b長崎に来航し、通商を求めた。
 c津太夫らの日本人漂流民を送還したが、幕府はその受け入れを拒否した。
 d幕府に要求を拒絶された報復として、帰路、樺太や択捉島などの日本人入植地を攻撃した。
 eロシアの宮廷につかえ、また、露領アメリカ会社の総支配人でもあった。」

(答:c×送還はやや時期が長引いたが実現した)〉


〈2016関西学院大学・全学部

史料3 イギリスは、日本に対し敵国にては之無く、いはば付合も之無き他人に候故、今彼れ漂流人を憐れみ、仁義を名とし、わざわざ送り来り候者を、何事も取合申さず、直に打払に相成候はば、(中略)国家の御武威を損ぜられ候様にも相成候はんやと、恐多くも考えられ候。(『戊戌夢物語』)
問 史料3の記述は前年の出来事をきっかけにしているが、その出来事を下記より選びなさい。


 ア.フェートン号事件
 イ.ゴローウニン事件

 ウ.アヘン戦争 
 エ.モリソン号事件」


(答:エ)〉


〈2016立教大・現心社コミュ福

問12.これ12対外問題に関する出来事について、もっとも古いものから年代順に並んでいる組み合わせはどれか。

 a.異国船打払令(無二念打払令)発布→ゴローウニン事件発生→フェートン号事件発生→蛮社の獄発生

 b.ゴローウニン事件発生→異国船打払令(無二念打払令)発布→蛮社の獄発生→フェートン号事件発生
 c.蛮社の獄発生→フェートン号事件発生→異国船打払令(無二念打払令)発布→ゴローウニン事件発生
 d.フェートン号事件発生→ゴローウニン事件発生→異国船打払令(無二念打払令)発布→蛮社の獄発生」

(答:d)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする