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奈良時代の藤原氏対他氏の覇権争い

2017-03-15 | 『新世界史頻出年代暗記』


[ゴロ]不憫長屋に四人んの子立場もなか王と/4子(よんし)rたちの/仲ど~思(もオも)う


(藤原不比等(ふひと)・長屋王(ながやおう))(藤原四子(よんし(しし))・諸兄(たちばなのもろえ))(藤原麻呂(なかまろ)・鏡(どうきょう)・藤原川(ももかわ))


[ポイント]

1.奈良時代の覇権は、藤原不比等長屋王藤原四子橘諸兄藤原仲麻呂道鏡藤原百川の順で推移した。

[解説]

1.藤原不比等(659~720)は、鎌足(かまたり)の子。大宝律令の制定および平城遷都に努力。養老律令を完成。娘が聖武天皇を生み、藤原氏が外戚となる端緒をつくる。

2.なお不比等の後妻で、光明子の母である県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)は、後宮(こうきゅう)の女官として大きな力を発揮し、賜姓して橘三千代となり橘氏の祖となる。


3.長屋王(684~729)は、天武天皇の孫で、藤原不比等の死後、最高位の左大臣となり権勢を振い皇親政治をおこなう。


4.藤原四子(~737)は、不比等の4子。729年、長屋王を、謀反の意思ありとして武智麻呂らが邸を囲み、一族と共に自殺させ(長屋王の変)、光明子を立后させて覇権をにぎる。しかし、藤原四子は737年に疫病(天然痘か?)で相ついで亡くなった。


5.橘諸兄(684~757)は、皇族出身で光明皇后の異父兄。この権力の空白に諸兄は、738年に右大臣になり僧玄昉(げんぼう)(?~746)・吉備真備(693?~775)らを登用して政権をにぎった。


6.権勢をふるう玄昉吉備真備の2人に反感を抱く者も多く、ついに藤原広嗣宇合(うまかい)の子、式家)は740年に、2人の排斥を求めて大宰府で反乱(藤原広嗣の乱)を起こしたが、敗れた。


7.これをしりぞけた諸兄は、743年には左大臣となる。晩年は藤原仲麻呂に権勢がうつる流れのなかで失意のうちに死去。


8.藤原仲麻呂(706~764)は、武智麻呂の第2子、南家出身。光明皇太后の信任により、藤原氏再台頭をはたす。光明皇后の後見機関の皇后宮職を唐風に改称した紫微中台の長官に就任して、政治の実権を握る。


9.仲麻呂は、757年橘氏の反撃(諸兄の長子橘奈良麻呂の変)を未然に封じ、独裁政権を確立。758年淳仁天皇を擁立し、天皇から恵美押勝の名を賜(たまわ)るなど一時全盛をほこった。


10.しかし光明皇太后が没すると孝謙上皇とは道鏡の処遇をめぐって不和となり、764年道鏡を除こうとして反乱を企てたが、事前に発覚して(情報漏(も)れで発覚)、押勝は捕らえられ斬首された(恵美押勝の乱)。


11.なお光明皇后は皇后宮職に貧窮者・孤児の救済機関「悲田院」「施薬院」を設置。


12.僧道鏡(?~772)は、河内国志紀郡弓削出身の僧。孝謙上皇の病気を秘法で治し寵愛を得て政界に進出。


13.道鏡は、孝謙上皇が重詐した称徳天皇の下で権勢をふるう。上皇は彼を太政大臣禅師とし、さらに769年には法王(地位や内容は不明)とし、


14.さらに天皇は、道鏡を皇位につけようとしたが、和気清麻呂らに阻止された(宇佐八幡宮神託事件)。


15.この事件で、清麻呂は大隅に配流。このとき清麻呂の姉で孤児院をつくった和気広虫も連坐し備後に流されている。


16.道鏡は、770年同天皇の病死で失脚、下野薬師寺に左遷され、その地で死去。


17.藤原百川(732~779)は、式家宇合の子(甥が種継)。称徳天皇の死後、藤原永手北家房前の子)と協力して道鏡排斥の中心となる。


18.百川は、吉備真備らの反対を抑えて、壬申の乱以来の天智天皇の皇統でしかも62歳の光仁天皇桓武天皇の父)を擁立し、平安初期の式家台頭の基礎を築く。

 〈2015同志社・法グローバルコミュ

 次の文章を読み、下線部・空欄に対応する下記の【設問a】~【設問i】および【設問ア】~【設問ケ】に答えよ。

 聖武天皇は、大宝元年(701)に文武天皇の子として藤原宮に生まれた。母はa藤原宮子である。慶雲4年(707)に文武天皇が亡くなると、祖母の元明天皇、伯母の元正天皇に続いて、神亀元年(724)に即位。即位後間もない天平元年(729)2月にb長屋王の変がおこる。これは養老5年(721)にc従二位右大臣となり、政権を担当し、その後正二位左大臣に進んだ長屋王を除くために藤原氏が画策した策謀であり、変後の8月には光明子の立后が実現したほか、藤原氏が大きく勢力をのばすこととなった。しかし、天平9年(737)に流行した天然痘によってア藤原四子があいついで病死し、藤原氏の勢力は一時後退した。


 かわって政権を握ったのが皇族出身の橘諸兄であり、唐から帰国した吉備真備や玄肪が聖武天皇に信任されて活躍した。一方、d橘諸兄政権と対立し、藤原氏内部でも孤立したとも言われるイ藤原広嗣は、ウ九州で玄と吉備真備らの排除を求めて大規模な反乱をおこしたが、鎖圧された。乱勃発の知らせをうけ東国への行幸に出発した天皇は、天平12年(740)12月にe新都を造営して遷都し、その後、複数の宮や都を転々とした。天皇は天平17年(745)に平城京へ戻るが、その頃から、ことに光明皇后の信任を得て、f大仏の造営を推進し、次第に橘諸兄政権の勢力を凌ぐ勢いになっていったのが藤原仲麻呂である。


 彼は孝謙天皇が即位した天平勝宝元年(749)に大納言となり、中衛大将を兼ね、さらに( g )を設置してその長官に就任し勢力を広げた。またエ大仏の開眼供養の日には、仲麻呂の田村第に孝謙天皇を迎えるなど天皇との連携も密であった。一方、このような藤原仲麻呂の台頭に対し、天平宝宇元年(757)にh橘諸兄の子が仲麻呂を倒そうとするが、逆に滅ぼされた。仲麻呂は淳仁天皇を擁立して即位させると恵美押勝の名を賜り、破格の経済的特権を得るとともに権力を独占した。しかし、恵美押勝は後ろ盾であった光明皇太后が死去すると孤立を深め、孝謙太上天皇が道鏡を寵愛して淳仁天皇と対立すると、オ危機感ををつのらせて挙兵したが、太上天皇側に先制され滅ぼされた。淳仁天皇は廃されてカ流され、孝謙太上天皇が重祚して称徳天皇となった。


 道鏡は称徳天皇の支持を得て太政大臣禅師、さらに法王とかって権力を握り、政治を行なった。神護景雲3年(769)には、称徳天皇が神託によってキ道鏡に皇位をゆずろうとする事件がおこったが、この動きは( i )らの行勤で挫折した。称徳天皇が亡くなると、ク後ろ盾を失った道鏡は退けられた。つぎの皇位には、ケ藤原百川らが図って光仁天皇が迎えられた。

 【設問a】藤原宮子の父の名を解答欄に漢字で記せ。
(答:藤原不比等)

【設問b】長屋王の父は天武天皇の皇子の高市皇子であるが、長屋王妃の吉備内親王の父も天武天皇の皇子で、大津皇子と皇位継承問題でライバル関係にあった人物である。この吉備内親王の父の名を漢字で記せ。

(答:草壁皇子※〈土〉)

【設問c】長屋王の政権下の養老7年(723)に発布された、水田の開墾を奨励する法令の名称を解答欄に漢字で記せ。

(答:三世一身の法)

【設問ア】藤原四子のそれぞれが興した4つの家のうち、嵯峨天皇の信任を得て、以降、とくに隆盛した家の祖は次のうち誰か。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.武智麻呂 2.房前 3.宇合 4.麻呂
(答:2)

【設問d】橘諸兄は光明皇后の異父兄であるが、母の名を漢字で解答欄に記せ。

(答:県犬養三千代(橘三千代))

【設問イ】藤原広嗣の出身は、藤原四子のそれぞれが興した4つの家のうちのどれか。その番号を解答欄に記入せよ。、

 1.南家 2.北 3.式家 4.京家
(答:3)

【設問ウ】(九州で)藤原広嗣が反乱をおこした時の官職は次のうちどれか。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.大宰帥 2.筑前守 3.大宰少弐 4.薩摩守
(答:3)

【設問f】聖武天皇が大仏造立の詔を出した時の宮の名称を漢字で解答欄に記せ。

(答:紫香楽宮(信楽宮))

【設問g】空欄( g )には、光明皇后の皇后宮職が749年に昇格した官司の名称が入る。その名称を漢字4文字で解答欄に記せ。

(答:紫微中台)

【設問エ】大仏の開眼供養の西暦年は次のうちどれか。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.750年 2.752年 3.754年 4.756年
(答:2)

【設問h】この事件をおこした橘諸兄の子の名を漢字で解答欄に記せ。

(答:橘奈良麻呂)

【設問オ】この事件がおこった西暦年は次のうちどれか。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.760年 2.762年 3.764年 4.766年
(答:3)

【設問カ】淳仁天皇が流された地は、次のうちどの国にあったか。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.隠岐 2.土佐 3.佐渡 4.淡路
(答:4)

【設問キ】この道鏡の即位を告げた神社は、次のうちどの国にあったか。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.筑前 2.筑後 3.豊前 4.日向
(答:3)

【設問i】空欄( i )は、道鏡の即位の神託を確認するために派遣され、偽託であることを復奏して大隅に配流されるが、道鏡の失脚後は復帰し、平安遷都の進言などで活躍した人物である。その人物名を漢字で解答欄に記せ。

(答:和気清麻呂)

【設問ク】道鏡が追放された寺は、次のうちどの国にあったか。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.武蔵 2.下野 3.上野 4.常陸
(答:2)

【設問ケ】藤原百川と共に光仁天皇の即位に尽力した人物は次のうちどれか。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.藤原緒嗣 2.藤原仲成 3.藤原永手 4.藤原冬嗣
(答:3)〉

〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ

5.下線部藤原不比等に関する次の出来事a~dを年代順に並べたとき、3番目に古いのはどれか。
 a.息子たち4人が長屋王を滅ぼした(長屋王の変729年)
 b.娘の光明子が聖武天皇の皇后となった(長屋王の変の直後)
 c.娘の光明子を文武天皇の皇太子に嫁がせた(716年)
 d.娘の宮子を文武天皇に嫁がせた(697年)
(答:d→c→a→b)

6.下線部聖武天皇の治世下で起きた政変はどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。

 a.応天門の火事をめぐり、大納言伴善男が政敵の失脚を画すが失敗に終わった
(866年清和天皇代)
 b.遷都をめぐり太上天皇が天皇と対立し、乱を企てた藤原仲成が射殺された
(810年嵯峨天皇代)
 c.橘奈良麻呂が、台頭してきた藤原仲麻呂を除こうとするが、逆に滅ぼされた
(757年孝謙天皇代)
 d.藤原広嗣が吉備真備らの排除を求めて乱を起こすが、鎮圧された
(〇740年聖武天皇代)

7.下線部奈良の都への望郷の思いから、大宰府の地にて、「あをによし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」と詠んだのは誰か。次のa~dからlつ選べ。

 a.小野老  b.小野篁
 c.小野道風 d.小野好古
(答:a※「あによし奈良都は咲く花薫ふがごとく今盛りなり」

 〈2014同志社大・文

【設問ウ】755~763年に唐で乱がおこり混乱が広がると、新羅攻撃を計画した人物がいた、光明皇大后の信を得て、新設された紫徴中台の長官に任じられた、その人物を次のうちから1つ選べ。
 1.藤原清河
 2.藤原広嗣
 3.藤原仲麻呂
 4.藤原百川
(答:3)〉

 〈2014早大・教育

問5 下線部d8世紀ににわかに台頭してきた宇佐の八幡神は皇位にかかわる託宣を下し、この神託の判断をめぐって大きな混乱が巻き起こったについての説明で正しいものはどれか。
 ア 孝謙天皇の重祚をうながす神託が下された。
(×孝謙天皇の重祚ではなく、道鏡の皇位就任に関する神託問題)
 イ 神託を確かめるために藤原百川が宇佐へ派遣された。
(×派遣されたのは和気清麻呂である)
 ウ 神託後、日本史上初の法王が誕生した
(×道鏡が法王になったのは766年、宇佐八幡宮の神託が下ったのは769年)
 エ 石清水から宇佐へ勧請された八幡神が猛威をふるった
(×平安時代初期、宇佐八幡宮から石清水八幡宮に勧請(神仏の分霊を請じ迎えること)された)
 オ 神託によって皇位につくことをうながされた人物は、下野薬師寺に追放された(〇)」〉

 〈2013早大・文

古代において、藤原氏の果たした役割には大なるものがある。そこで藤原氏について考えてみることにする。
 藤原氏の基をつくったのは中臣鎌足である。鎌足は中大兄皇子に協力し、乙巳の変を成功させた。その後、改新の詔が出されたとされる。
 鎌足の子供が[ A ]である。[ A ]は、大宝律令の編纂に尽力し、平城京への遷都にも協力した。藤原宮子は[ B ]天皇と婚姻関係を結び、首皇子(後の聖武天皇)を生むことになる。こうして藤原氏の権力基盤は確立していった。
(答:A不比等、B文武)

 〈2012明大・商

天皇と皇族を中心とした政治形態である[ 2 ]の体制が崩れて、藤原氏の台頭に伴う権力争いが激しくなり、朝廷もそれを統制する力を失っていた。このような政治や社会の混乱の中で、徒に遷都が繰り返され、ときの聖武天皇は仏教の力による平穏を期待するばかりであった。この遷都のうち、京都府相楽郡に置かれたものを
c【1紫香楽京 2難波京 3甲賀京 4福原京 5恭仁京】という。藤原氏は、鎌足以来皇族を中心とする[ 2 ]に関連してきたが、不比等は皇室との結びつきを強め、その四子も対立していた長屋王を追い落とし、臣下として初めて妹の光明子を天皇の皇后とすることに成功した。しかし、天然痘の流行で四子が相次いで病死すると勢力は一時衰え、政権は皇族出身の[ 3 ](684~757)や唐に留学経験のある玄昉、吉備真備らの主導するところとなった。玄昉と吉備真備は、[ 3 ]に重用されて活躍したが、d【1藤原百川 2藤原武智麻呂 3藤原緒嗣 4藤原冬嗣 5藤原広嗣

は、彼らを除くことを名目に、740年、乱を起したが、敗死した。やがて、藤原仲麻呂が政権の座についた。彼は、[ 4 ]天皇(733~765)から恵美押勝の名を賜り、権力を独占するようになり、太政大臣にまでのぼった。ところが、後ろ盾であった光明皇太后が死去すると孤立を深め、孝謙太上天皇の寵愛を受けた道鏡が台頭すると、道鏡を取り除こうとして乱を起し敗死した。このころ、僧侶のなかには、道鏡のように政治的野心をたくましくする者も現れた。のちに[ 4 ]天皇は、廃され、淡路に流された。孝謙太上天皇は、再び即位して称徳天皇となり、そのもとで道鏡による仏教政治が展開された。
 道鏡は、称徳天皇のもとで、765年、太政大臣禅師に任じられ、さらに翌年は法王の地位に就いた。769年には、道鏡が、皇位を求める事件が起ったが、この動きは、和気清麻呂の行動で挫折した。[ 5 ]が道鏡の即位を促すお告げを下したが、その神意を聞く使いとなった和気清麻呂は、最初のお告げとは反対の報告をして道鏡の皇位をうかがう意図をくじいたのであった。清麻呂の行動の背景には、道鏡に反対する貴族たちが存在したとみられる。道鏡は、770年に称徳天皇が死去すると、ただちに
e【1元興寺 2会津慧日寺 3西大寺 4下野薬師寺 5筑紫観世音寺】に追放され、そこで死去した。その後、道鏡時代の仏教政治で混乱した律令政治と国家財政の再建が追求されることになった。
(答:2皇親政治、3橘諸兄、4淳仁、5宇佐八幡宮、c5、d5、e4)〉

 〈2012立大・経済法異文化コミ

聖武天皇と(7)光明子との間には、皇子が生まれたものの早世してしまったため、娘である阿倍内親王が、聖武天皇から譲位されて天皇となった。孝謙天皇である。孝謙天皇は、父聖武天皇の事業を受け継ぎ、大仏開眼供養の儀式を盛大にとり行うなどした。他方、この時期には、光明皇太后の信を得た藤原仲麻呂が紫微中台の長官として権力を握っていた。これに対抗する〈 え 〉は、藤原仲麻呂を倒そうと図ったが、757年、計画が発覚し失脚してしまった。光明皇太后が病に伏せると、その看病のため、孝謙天皇は淳仁天皇に譲位した。淳仁天皇のもとで、藤原仲麻呂は、( ト )の名を得て、太政大臣としてさらに権力をふるった。ところが、光明皇太后の死後、このような状況に変化が生じる。孝謙太上天皇は、僧道鏡を重用して、淳仁天皇と対立するようになったのである。これに危機感を感じた( ト )は、764年挙兵するも、制圧された。この後、淳仁天皇も天皇の地位を追われて淡路に配流され、孝謙太上天皇が重祚し、称徳天皇となった。称徳天皇のもとで重用された道鏡は、太政大臣禅師、( チ )の位につき、さらには、宇佐八幡の神託を受けて、称徳天皇が道鏡に皇位を譲ろうとする事態が生じた。結局、宇佐八幡の神意を確認する役を担った( リ )の報告により、道鏡への譲位は行われなかった。称徳天皇の死後、後ろ盾を失った道鏡は失脚したが、天皇と道鏡との関係は『日本霊異記』などにも記され後世に語り継がれた。称徳天皇の後、天武天皇直系の皇統はとだえ、また、その後長い間、女性が天皇になることはなかった。」

 A.文中の空所それぞれにあてはまる適当な語句をしるせ。

(答:え橘奈良麻呂、ト恵美押勝、チ法王、リ和気清麻呂)〉

 B.下線部7光明子に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。

 a.藤原不比等の孫であり、藤原仲麻呂とは従姉弟の関係にあった(×)
 b.仏教を篤く信仰し、鑑真から授戒を受けた(〇)
 c.平城京に、悲田院を設けて孤児・病人を収容し、施薬院を設けて医療にあたらせた(〇)
 d.律令では、皇后は皇族であることが条件とされていたにもかかわらず、藤原氏出身である光明子が聖武天皇の皇后となった(〇)〉

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江戸後期の農政家(大原幽学)

2017-03-13 | 『新世界史頻出年代暗記』



[ゴロ]先祖(せんぞ)はと/大原遊郭(ゆうかく)で/破産し


先祖株組合(せんぞかぶくみあい))(大原幽学(おおはらゆうがく))(1834年)


[ポイント]

1.大原幽学は、1834年から、先祖株組合を作るなどして農村復興の成果を上げた。

[解説]

1.大原幽学(1797~1858)は武士の出身。父は尾張藩の重臣ともいわれる。はじめ武芸を学んだが、放浪の旅に出て性学(儒学の一派,性理学)をおさめ、救世済民に生涯をささげようと決意。牢人生活ののち、1834年(天保5)、房総の長部村(ながべむら)(現千葉県旭市)に土着し今まで学んだものの実践に乗り出した。以来1858年(安政5)まで、長部村の復興に努める。当時の長部村はまったく荒廃し、亡村に等しかった。そこで本百姓の農業経営の安定を目指し名主などの同志を募り、この地に先祖株組合(世界最古の協同組合)という農民の共同組織を作った。出資金の共同運営や農地整理を行うなど、農業生産を合理化することの必要性を説き、次第に成果を上げた。この評判が人を呼び、近隣はもとより遠くは長野地方から3000人もの教えに共鳴して入門を希望するものが急増した。民衆の動きを怪しむ関東取締出役の嫌疑をうけ、香取郡長部村に建てた講堂のことなどが咎められ、成果が壊されていくのをみて自殺した。

〈2013同志社大学・文経済:「

【設問j】下線部jについて、江戸時代に活躍した農学者および農政者のうち、17世紀の人物を次のうちから1つ選び、その番号を記入せよ。

 1.大蔵永常  2.宮崎安貞
 3.二宮尊徳  4.大原幽学」


(答:2)〉


〈2004大学入試センター試験追試

問3 下線部b(田沼時代の)民衆の暮らしに関連して、江戸時代後期の民衆の暮らしについて述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1 農村では、田畑を手放し、小作人となる農民が増加した。

 2 都市を中心に貸本屋が現れ、文化の普及に寄与した。
 3 工藤平肋は、雪国の生活や風俗を『北越雪譜』に描写した。
 4 大原幽学は、農村の復興を指導した。」

(答:3×『北越雪譜』は鈴木牧之)〉

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古代の東北経営(柵・城7年代順)

2017-03-12 | 『新世界史頻出年代暗記』


いは出たがり秋田医師。

足柵(ぬたりのき)・舟柵(いわふねのき)・羽柵・多賀城・秋田城・沢城(いさわじょう)・波城(しわじょう))


[句意]今度の手術の縫合(ほうごう)を担当するのは、出たがり目立ちたがりの秋田県出身の医師だ、という句。


[ポイント]

1.古代の城柵は渟足柵磐舟柵出羽柵多賀城秋田城胆沢城志波城の順で設置された。

[解説]

1.渟足柵(647)と磐舟柵(648)は乙巳(いっし)の変(645)の直後、蝦夷(えみし)に対する日本海方面の最前線基地として、設置された。

2.出羽柵(708)は最上川流域に設けた柵で、ついで越後国と陸奥国の奥に出羽国を設置。


3.多賀城(724)には、大野(おおのの)東人(あずまのひと)によって設置されたと伝えられる。陸奥国国府鎮守府(蝦夷征討のため陸奥国に設置した役所)が置かれ、律令国家による東北経営の政庁および蝦夷経営の根拠地とされた。


4.1978年、多賀城祉から、陸奥国の計帳を記した、通称漆紙文書(うるしがみもんじょ)が発見された。古代国家の陸奥国に対する律令的支配体制を考えるうえで貴重な発見。


5.秋田城(733)の開城により日本海側の開拓が進展した。


6.胆沢城(802)は坂上田村麻呂が築き鎮守府を移転。以後多賀城は国府のみとなる。


7.胆沢城(802)は坂上田村麻呂が築き、多賀城から鎮守府を移転。


8.坂上田村麻呂は胆沢城のさらに北方に前衛として志波城(803)をつくった。


9.城柵(じょうさく)はおもに蝦夷に備えて設置された古代東北の城の総称。柵は棚板を横木で固定し周囲を囲んだ施設。それよりも整備され大規模化したものが城。


〈2013早大・法

8世紀の後半、日本列島を襲う地震はいったん終息期に入ったが、9世紀半ば、d清和天皇の時代になると、平安京は群発地震に見舞われるようになった。863年、飢饉や疫病も蔓延し、朝廷は[ C ]において御霊会を開催し、この時呼び集められた怨霊をなだめようと、楽人による歌舞演劇が行われ、僧侶による読経がなされた。しかし、864年には富士山が噴火し、山頂が火炎に包まれ、強い地震があり、溶岩が流れ出し、大規模な降灰があって、周辺の地形も大きく変化した。さらに、e869年には東北地方が地震と津波に襲われて、[ D ]などに大きな被害が発生した。」

問7.空欄Cには、雨乞や宴にも使用される平安京の庭園の名が入る。漢字3字で記述解答欄紙に記入しなさい。


問8.下線部e869年には東北地方が地震と津波に襲われて、について。この地震は六国史に詳細に記載されている。藤原時平・菅原道真らが編さんしたその書名は次のうちどれか。1つ選べ。


 あ『日本文徳天皇実録』
 い『日本三代実録』
 う『続日本後紀』

 え『続日本紀』
 お『日本後紀』

問9 空欄Dには、奈良時代に陸奥の国府と鎮守府が置かれていた城柵の名が入る。漢字3字で記述解答欄紙に記入しなさい。

(答:問7神泉苑、問8い、問9多賀城)


〈2012立教大・全学部

これ(秋田城)と同じように日本海沿いに設けられた城柵はどれか。
 a胆沢城 b徳丹城
 c渟足柵 d桃生城)」
(答:c)〉


〈2012明大・商学部:「

2011年3月11日、東北地方から関東地方の太平洋岸をM9、0の巨大な地震と津波が襲い、多くの尊い人命が失われた(東日本大震災)。この地震は、869年に同じく東北地方の太平洋岸で起きた
D【1延暦 2弘仁 3承和 4貞観 5元慶】地震とよばれる大地震と同規模であったと考えられており、『日本三代実録』には、そのときの様子が「城郭・倉庫・門・櫓・塀などが数知れず倒壊した。海は雷のような轟音を立てて湧き上がり城下に押し寄せ、みな海底になった」(意訳)と書かれている。この文中の「城」は
E【1胆沢城 2志波城 3桃生城 4伊治城 5多賀城】をさすと考えられているが、だとすれば、このときの津波の規模も今回の東日本大震災とほぼ同規模のものであったことになる。」
(答:D4、E5)〉

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関孝和『発微算法』

2017-03-12 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

●江戸時代(逢宝2年)

 1674〈関孝和、『発微算法』を刊行〉

“Hatsubi Sampo” is written by Seki Takakazu.

疲労無し、関 ハッピーさ。

1674年 関孝和        『発微算法』

 

幼少時から吉田光由塵劫記を独学し、点竄術と呼ぶ縦書きの筆算式代数学を始めた関孝和は1674年に刊行した『発微算法』で筆算による代数計算の基礎を確立し、日本独自の数学である和算を大成した。


[ポイント]

1.関孝和は、1674年、数学書『発微算法』を発表した。

[解説]

1.関孝和(1640~1708)は、甲府藩士、勘定吟味役として会計や検地の仕事に携わる。藩主徳川綱豊が第5代将軍家宣となると、孝和も幕府直属の旗本になった。少年の頃、吉田光由の『塵劫記』を自習して数学に目覚め、中国の数学書を研究し、そこから自己の研究を深めていった。西洋数学とはまったく関係ないところで、代数式とその計算法、方程式の判別式、行列式の発見、円周率計算等々、同時代の西洋数学に匹敵する高度な研究をおこなった。ニュートンやライプニッツにも引けを取らなかったと言われ、世界的レベルの天才的数学者だった。最初の研究発表は、1674(延宝2)年の『発微算法』。その後も孝和およびその弟子によって次々と研究が発表されて和算を発展させた。

〈2013中大・法

問8 下線部7自然科学の分野でも多くの成果がみられたに関連する説明文(原問:正しいものにはイ、誤っているものにはロをマークしなさい)の正誤を判断せよ。

 a 安井算哲は平安時代から用いられていた暦に代わる貞享暦をつくった。

 b 貝原益軒が灰吹法を発明し、これにより銀の産出量の増加傾向に拍車がかかった。
 c 関孝和は代数学のほか円周率などの研究を進めた。」

(答:問8a〇、b×貝原益軒→神谷寿禎、c〇)〉


〈2012立大・文学部

 下線部1元禄文化に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.尾形光琳は京都の町衆の画風を学び、『洛中洛外図巻』を描いた

 b.熊沢蕃山は孔子・孟子の古典に直接たちかえろうとする古学派を創始した
 c.契沖は『万葉集』を研究し、『万葉代匠記』を著した
 d.関孝和は和算を発達させ、『塵劫記』を著した

(答:c〇、※a×光琳作に『洛中洛外図』は知られていない、b×蕃山は中江藤樹門下の陽明学者、古学派は山鹿素行、伊藤仁斎・東涯父子ら、d×吉田光由の著作)〉

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1697年〈稲生若水、『庶物類纂』の編纂を開始〉★

2017-03-10 | 『新世界史頻出年代暗記』

●江戸時代(元禄10年)

 

 

Jakusui INOU was asked Tsunanori MAEDA to be allowed to 

compile 'a study of various materials' and was commissioned 

to do so, receiving the order to edit the 'Shobutsuruisan'

(book on the study of herbalism) which would complement the 'Compendium of Materia Medica,' considered the bible of

herbalism at the time.

 

広くないのじゃ 庶物類。

      1697年 『庶物類纂』        稲生若水     

 

江戸中期の本草学者稲生若水は医学・本草学を学ぶかたわ

ら、伊藤仁斎に儒学も学んだ。1693年、加賀藩主前田綱紀に仕え、その後援により当時における本草学のバイブルであった李自珍の「本草綱目」を補う博物書である「庶物類纂」の編纂の下命を得て1697年から『庶物類纂』の編集に従事したが、業半ばで没した。

 

 参考 『庶物類纂』は若水の死後、これを惜しんだ将軍吉宗の命で、若水の門人たちが完成した。蘭学興隆の基礎をなした野呂元丈は若水の弟子のひとり。若水野呂を〈〉の字でつなげよう。

 

 

 


[ポイント]

1.稲生若水は、1715年、『庶物類纂』をまとめた。

[解説]

1.稲生若水(1655~1715)は、淀藩(京都市)医の子として生まれる。本草学(薬草学)の大成者。加賀藩主前田綱紀の求めに応じ中国の古典数百冊に記載されていた庶物(動植物、農作物、金石など)を抜き書きし、再編集した『庶物類纂』を362巻を著し、1715(正徳5:家継代・海舶互市新例発布の年)年に死去した。この後を子の稲生新助や弟子が書き継いで638巻を加え、計1000巻にわたる大著の完成をみた。

〈2016立教大・済コミュ福観光〉

問11.これに関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.新井白石は『読史余論』を著して、武家政治の歴史的正統性を主張した

 b.稲生若水は『庶物類纂』を著して、『日本書紀』の合理的な解釈を試みた
 c.林羅山・林鵞峰父子が、編年体の史書『本朝通鑑』を編集した
 d.水戸藩主徳川光圀が、紀伝体の史書『大日本史』の編纂に着手した」

(答:b×『庶物類纂』は本草学(動植物)の書)〉


〈2016明大・国際日本:「

 本草学者の[ F ]は、吉宗の命でオランダ薬物を研究し『阿蘭陀本草和解』を著した。本草学者の[ G ]が生前に前田綱紀の保護の下に編集していた本草学の大著である『庶物類纂』を、[ G ]の弟子に命じて増補させたのもまた、吉宗である。さらに吉宗に招かれて江戸に下った長崎出身の学者である西川如見は、長崎で見聞した朝鮮・中国・台湾・南洋・インド・西洋におよぶ海外事情などを記述した『[ H ]』を著していた人物である。イ新井白石がシドッチの尋間による知識や中国地理書を参考にして世界の地理・風俗を記した『采覧異言』もまた、吉宗に献上された。

問7.空欄Fに入る人物の氏名を漢字で書きなさい。


問8.空欄Gに入る人物の氏名を漢字で書きなさい。


問9.空欄Hに入る、1695年に刊行された西川如見の著書を漢字で害きなさい。


問10.下線部イの人物が侍講として仕えた人物を下記の1~4の中から選びなさい。


 1.徳川綱吉 2.徳川家宜

 3.徳川家重 4.徳川家綱」

(答:7野呂元丈、8稲生若水、9華夷通商考、10→2)〉


〈2013同志社大学・文経済:「

【設問k】下線部k本草学について、江戸時代中期の本草学者で、博物学的大著である『庶物類纂』の前編362巻までを著し、また野呂元丈を弟子としたことでも知られる人物名を漢字で記せ。」

(答:稲生若水)〉


〈2013早大・文化構想:「

問7 下線e歴史・古典の研究や自然科学への関心も高まり多くの著作が出されたに関連して述べた文のうち正しいものはどれか。1つ選べ。

 ア 徳川光圀は、歴史書『本朝通鑑』の編纂を開始した。

 イ 賀茂真淵は、門人の荷田春満に『古事記』研究を指導した。
 ウ 戸田茂睡は従来の歌学を批判し、用語の自由を説いた。
 エ 吉田光由は『発微算法』を著し、和算の普及に功があった。
 オ 稲生若水は本草学を研究し、『大和本草』を著した。」

(答:ウ ※ア×本朝通鑑→大日本史、イ×荷田春満は賀茂真淵に、エ×発微算法(関孝和著)→塵劫記)〉

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歴代天皇(延喜天暦期:)

2017-03-09 | 『新世界史頻出年代暗記』

宇田椅子村が                             
光孝(こうこう)・宇多(うだ))(醍醐(だいご))(朱(すざく)・村上(むらかみ))


[ポイント]

1.歴代天皇は、光孝宇多醍醐朱雀村上とつづく。

[解説]
1.光孝天皇は、藤原良房のあとを継いだ太政大臣藤原基経に支持されて即位し、884(元慶8)年に基経をはじめて関白とした。

2.宇多天皇が即位した際、基経は、同天皇が即位にあたって出した勅書に抗議して、888(仁和4)年、これを撤回させ(阿衡の紛議)、関白の政治的地位を確立した。しかし藤原氏を外戚としない宇多天皇は、基経が死ぬと摂政・関白をおかず、学者菅原道真を重く用い藤原氏に対抗させた。

3.つづく醍醐天皇の時、藤原氏は策謀を用いて道真を政界から追放した。

4.この後の10世紀の前半は、醍醐天皇につづいて村上天皇親政をおこない、これはのちに「延喜・天暦の治」とたたえられた。しかし親政の合間にも、藤原忠平が摂政・関白をつとめ、太政官の上に立って実権をにぎった。

〈2014立大・現代心理(心理)・コミュ福祉(コミュ政策・観光(交流文化)・経営(経営・国際経営)

5.これに関する出来事a~dのうち、もっとも古いものを解答欄の1に、次に古いものを並に、以下同じように4まで年代順にマークせよ。」

 a.宇多天皇は摂政・関白を置かず、菅原道真を登用した

 b.光孝天皇は藤原基経を実質的に関白とした
 c.藤原忠平が朱雀天皇の摂政・関白となった

 d.藤原頼通が約50年にわたって摂政・関白をつとめた

(答:bacd)〉

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貝原益軒『大和本草』

2017-03-08 | 『新世界史頻出年代暗記』



 

 

●江戸時代(宝永5年)

 1708〈貝原益軒、『大和本草』を編集〉★★

Kaibara Ekiken writes “Yamato Honzo”, in which he classified 1,300 kinds of medical herb from China nd Japan.

人なお山と 貝危険。

     1708年  『大和本草』  貝原益軒  元禄文化

 

筑前黒田藩士で本草学者、儒学者でもあった貝原益軒は、1708年に本草の歴史や1362種の動・鉱・植物を独自に分類して解説した『大和本草』を著し、日本の本草学の基礎を築いた。独自の哲学をもち教育・経済・歴史の分野にも業績が多く、日本初の本格的教育書といわれ、教育法や道徳教育(女三従の教えなどが著名)などについて述べた『和俗童子訓(わぞくどうじくん)』(1710(宝永7:家宣代)年刊)『慎思録』『和俗童子訓』『養生訓』も著す。

 

 

 

 

●江戸時代(宝永5年)

 1708〈貝原益軒、『大和本草』を編集〉★★

Kaibara Ekiken writes “Yamato Honzo”, in which he classified 1,300 kinds of medical herb from China nd Japan.

人なお山と 貝危険。

     1708年  『大和本草』  貝原益軒  元禄文化

 

筑前黒田藩士で本草学者、儒学者でもあった貝原益軒は、1708年に本草の歴史や1362種の動・鉱・植物を独自に分類して解説した『大和本草』を著し、日本の本草学の基礎を築いた。独自の哲学をもち教育・経済・歴史の分野にも業績が多く、日本初の本格的教育書といわれ、教育法や道徳教育(女三従の教えなどが著名)などについて述べた『和俗童子訓(わぞくどうじくん)』(1710(宝永7:家宣代)年刊)『慎思録』『和俗童子訓』『養生訓』も著す。

 

 


貝原益軒(かいばらえきけん))(1708年刊・和俗童子訓(わぞくどうじくん))(大和本草(やまとほんぞう)

[ポイント]
1.貝原益軒は、『大和本草』(1708年)、『和俗童子訓』を著した。

[解説]

1.貝原益軒(1630~1714)は、福岡藩の儒者・本草学者。実証的かつ平易に庶民への啓蒙に努めた。本草学は本来、薬のもとになる薬草を研究する学問。本草学の大著『大和本草』(25巻)は1708(宝永5:綱吉代)年刊。1362種の動植物・鉱物の名称、起源、形状、効用などを体系的に分類説明しており、博物学ともいうべき書物。

2.その他、日本初の本格的教育書といわれ、教育法や道徳教育(女三従の教えなどが著名)などについて述べた『和俗童子訓(わぞくどうじくん)』(1710(宝永7:家宣代)年刊)も著す。


〈2016立教大・文

 江戸時代には『大和本草』の著者として知られる儒学者( 口 )が著した『和俗童子訓』をもとにして書かれたと推測される女訓書などで、舅姑や夫に従順な女性像が推奨されていた。しかし、さくの人生はそのような女性像とは必ずしも一致していない。」

(答:貝原益軒)〉


〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ

 彼女の演説内容は、貝原益軒の著作をもとに執筆された女性の心得を説く書物として、江戸時代に広く用いられた『( チ )』を批判し、女性の学問の必要性や結婚における自主性を訴えるものであった。」

(答:女大学)

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本多利明(開国思想の先駆)

2017-03-05 | 『新世界史頻出年代暗記』



[ゴロ]ホンダ年明に/世紀の/経費策


本多利明(ほんだとしあき))(西域(せいいき)物語)(秘策) 


[句意]ホンダは年明けに世紀の経費策を打ち出す、という句。「年明け」は『本佐録』の著者本多正信との区別のため必要です。この「世紀」は「世紀の大事件」の用法です。「ホンダ」は自動車のホンダ社などをイメージして下さい。


[ポイント]

1.本多利明の主要著作は『西域物語』『経世秘策』。

[解説]

1.本多利明(ほんだとしあき)(1743~1820)は18世紀末の経世家。『西域物語』(1798)で、世界情勢からみて海国日本にあっては開国交易が急務であると説く。とくに蝦夷地を開発し、カムチャツカ進出を提唱している。西域とは西洋の意で、開発の手本を中国から西洋に転換せよと主張。同書で「出生の子を間引(まびく)ことは扨置(さておき)、餓死人も出来(しゅったい)する筈也。斯の如(ごと)き道理明白なる物を、神尾(かんお)氏(神尾春央(かんおはるひで))が曰く、『胡麻の油と百姓は絞れば絞る程出(いず)るものなり』といへり」と引用批判している。
 また『経世秘策』(寛政10年(1798年)ごろ成立)で四大急務三慮策をあげ西洋諸国との交易、国内開発、金銀採掘など富国策および海防の必要を説き、開国思想の先駆となる。

〈2016慶大・商AB方式

 学問の分野では、都市や地方の生活をふまえて、封建制度の維持や改革を提唱する[ 23 ]とよばれる思想家の活動が活発化した。[ 24 ]は、商売をいやしめる武士の偏見を批判して、藩財政の再建は商品経済の発展によってもたらされるべきであると主張した。[ 25 ]は『経世秘策』を著し、西洋諸国との交易や蝦夷地開発による富国策を説いた。」

(答:23→経世家、24→海保青陵、25→本多利明 ※原問には65選択肢あり)〉


〈2016立教大・済コミュ福観光〉

問10.これ儒学は広く研究されるようになったに関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.古学派の山鹿素行は、『聖教要録』を著して朱子学を批判した

 b.本多利明は『経済要録』を著して、経世論にもとづく富国策を説いた
 c.山崎闇斎は『論語古義』を著して、朱子学と神道を結びつけた垂加神道を唱えた
 d.陽明学を学んだ熊沢蕃山は、『中朝事実』を著して幕政を批判した」

(答:a b×佐藤信淵著、c×伊藤仁斎著、d×山鹿素行著)〉

〈2014立大・現心コミュ福観光営

 こうした矛盾を内包したまま、次第に8列強の接近への対応が政治課題として浮上すると、経世論の主張は重商主義的な色合いを強めていった。たとえば、[ い ]は『経世秘策』を著し外国貿易による富国策の必要性を、また9佐藤信淵は産業の国営化と貿易による振興策の必要性をそれぞれ説いた。

問8.ロシアによる接近に関する出来事a~dのうち、もっとも古いものを年代順に示せ。


 a.ゴローニン事件 b.プチャーチン来航

 c.ラクスマン来航 d.レザノフ来航」

問9.この人物佐藤信淵の著作でないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.宇内混同秘策 b.経済要録
 c.西域物語   d.農政本論」


(答:い本多利明、問8cdab、問9c)〉

〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン:「
 下線部a~cのなかから正しくないものをそれぞれ一つ選べ。なお、下線部a~cがすべて正しい場合には、dを選べ。

問5 日本沿岸の防備の必要性については、aロシアの使節が来航するようになる以前から、すでに林子平が『海国兵談』において説いていた。そうした対外警戒論の一方で、b本多利明は『西城物語』『経世秘策』を著して貿易振興の必要を説き、c佐藤信淵も『経済録』において貿易の拡大を主張した。」


(答:a〇、b〇、c×『経済録』は太宰春台)〉

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治部省の職掌

2017-03-04 | 『新世界史頻出年代暗記』


治部省)(事・楽・外交事務)

[ポイント]
1.治部省仏事雅楽外交を掌る。

[解説]
1.治部省外交をふくむ国家的事業を担当。外交行事にも演奏される雅楽や、寺院僧尼に関することも扱う。

2.藤原仲麻呂政権のとき、758年、礼部省と改称されたが、764年にもとに復された。

〈2015立命館・全学部

(c)下線部③僧尼は官人に準じる身分として朝廷の管理・統制下におかれたに関連して、律令制下で、僧尼の名籍を管理する玄蕃寮は、外交や葬送などをつかさどる省の配下におかれた。この省を何というか。
(答:治部省)」〉

〈2014法大・文(哲学・日本史・史)人間環境(人間環境)経営(経営)「

下線部オの「諸司」のなかで、仏事や外交事務を担当したものを下記の語群から一つ選べ。」
 1式部省 2兵部省 3民部省
 4治部省 5刑部省
(答:4〉

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□近世399.海保青陵 

2017-03-04 | 『新世界史頻出年代暗記』



[ゴロ]慶子たんを/ハイっと/解放せよ


稽古談(けいこだん))(1813年)(海保青陵(かいほせいりょう))

[ポイント]
1.海保青陵は、主著『稽古談』を1813年に成立させた。

[解説]
1.学問・思想の分野では、18世紀末から表面化した幕藩体制の動揺という現実を直視し、どのように克服すべきかという点から、政治や社会を批判的にみて、古い体制を改革し、そこから脱する方法を具体的に模索する動きが現われた。都市や村々の実情に接する人びとの中から、封建制の維持や改良を説く経世家の活動が活発になった。

2.海保青陵(1755~1817)は、丹後国宮津藩の武士の家の出。商売をいやしめる武士を偏見として批判。『稽古談』(1813(文化10)年成立)で、藩財政の再建は商品経済の発展をもたらす殖産興業によるべきであるという重商主義の経済論を主張した。

〈2016慶大・商AB方式〉

 学問の分野では、都市や地方の生活をふまえて、封建制度の維持や改革を提唱する[ 23 ]とよばれる思想家の活動が活発化した。[ 24 ]は、商売をいやしめる武士の偏見を批判して、藩財政の再建は商品経済の発展によってもたらされるべきであると主張した。[ 25 ]は『経世秘策』を著し、西洋諸国との交易や蝦夷地開発による富国策を説いた。」

(答:23経世家 24海保青陵、25本多利明、※原問には選択肢65語あり)〉


〈2014立大・現心コミュ福観光営:「

 3荻生徂徠は、古文辞学派の儒学者でもあった。徂徠は『( イ )』を著し武士の土着論を展開し、また徂徠門下の〈 あ 〉は『経済録』や『経済録拾遺』を著し4武士の商業活動の必要性を説くなど、その積極的な政治経済への発言がその後の経世論発達の礎となった。

問3.下線部3の荻生徂徠が江戸に開いた私塾はどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.蘐園塾 b.古義堂
 c.洗心洞 d.藤樹書院」


問4.これを同じく説いた『稽古談』の著者は誰か。次のa~dから1つ選べ。


 a.海保青陵 b.工藤平助
 e.佐久間象山 d.林子平」


(答:イ政談、あ太宰春台、問3a、問4a)〉


〈2012中央大・経済:「

問7 江戸時代後期の学問や思想について述べた次の文章の下線部1~8には、誤りが3つある。その3つの番号を解答欄に記入し、それぞれ対応する正しい語句を、漢字で書きなさい。

 元禄時代にはじまった古典の実証的研究は、18世紀に『古事記』や『日本書紀』などの研究へと進み、日本古米の道を説く1国学に発達した。このなかでたとえば『古事記伝』を著した2平田篤胤は復古神道を主張し、儒教や仏教を強く排斥した。


 幕府は儒学による武士の教育を奨励したが、儒学のなかにある尊王思想は、天皇を王者として尊ぶという思想で、3水戸学などで主張された。しかし、18世紀半ばに竹内式部が京都で公家たちに尊王論を説いて追放刑となるなど(4明和事件)、幕府の弾圧も厳しかった。


 さらに、封建壮会を批判し、それを改めようとする意見も表れてきた。たとえば八戸の医師5安藤昌益は『白然真営道』を著して万人が耕作して生活する世を理想とし、武士が農民から収奪する社会や身分社会を否定した。また、19世紀には封建制の維新または改良を説く現実的な経世思想が活発になった。6.太宰春台は『稽古談』を著し、藩財政の再建は商工業にたよるべきとの説を展開し、7本多利明は『経世秘策』などで西洋請国との交易による富国策を説き、8佐藤信淵は『経済要録』で産業の国営化、貿易による振興策などを主張した。」


(答:2本居宣長、4宝暦事件、6海保青陵)〉

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式部省の覚え方

2017-03-02 | 『新世界史頻出年代暗記』

式部は/文科国大

式部省)(文官の人事・学および学の管理)

[ポイント]
1.式部省文官の人事と(文官養成の)国学および大学の管理

[解説]
1.国家の儀式文官の人事考課(勤務評定を行い太政官に上申する)、礼式、選叙(叙位と任官)、行賞をおこなう。役人養成機関である大学寮を統括する。八省の内でも中務省に次ぐ。よって長官である式部卿は重職。

2.「卿(かみ)一人。掌(つかさど)らむこと。内外の文官の名帳・考課・選叙・礼儀……朝集・学校……」(『令義解』職員令)とある。

〈2009年上智大・法外国語など

問 下線部2の大宝律令で定められた二官八省について、その説明として誤っているものを次から1つ選びなさい。
 1.神祇官・太政官、中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省からなる。
(〇)
 2.中務省は詔・勅の作成などを担い、式部省は文官の人事などを職掌とする。(〇)
 3.治部省は外交や僧尼の身分などを管轄し、民部省は戸籍・税制・田畑を掌る。
(〇)
 4.兵部省は武官の人事などを担い、刑部省は役人の監察を職掌とする。
(×刑部省は刑罰・裁判を扱う。役人の観察は弾正台)

 5.大蔵省は財務・物価の管理などを担い、宮内省は宮内の事務などを職掌とする。
(〇)〉

〈2005センター試験追試

平城京には東西に官営の市が設けられ、地方から運ばれてくる米・鰹(かつお)・ワカメ・鮑(あわび)・塩などの産物や、官人の禄として支給される布や糸などが交換された。そこでの交易は、価格の公定、度量衡の管理など、【 ア 】の監督の下に置かれた。当時の食事は、下級官人の場合、玄米の主食に野菜・海草の一菜か二菜が普通であった。
 中世には、米をはじめとする農産物が増加し、食材も増えた。吉田兼好が著した『【 イ 】』には、北条時頼がみそを肴(さかな)に酒を飲んだという話もある。また、紀伊国隅田(すだ)荘で1512年に行われた地方武士の饗宴(きょうえん)の献立によれば、「塩引・鮑塩・焼物・湯漬・干鯛(ひだい)・蒲鉾(かまぼこ)」などが供されていたことがわかる。」 
問1 空欄【ア~イ】に入る語句の組合せとして正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
 1 ア 市 司 イ 方丈記
 2 ア 市 司 イ 徒然草
 3 ア 式部省 イ 方丈記
 4 ア 式部省 イ 徒然草」
(答2)〉

 

 

 

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2017-03-02 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

□古代60.中務省の職掌(省名から職掌が分からない左弁官4省)◇B
[ゴロ]証書作成なんか疲(つか)!
詔書作成)(中務省)

[句意](卒業)証書の作成でなんか疲れた、という句。書道の先生は、毎年どこの学校でも卒業証書に卒業生の名前を何百人と書かされてぼやいている。

[ポイント]
1.中務省詔書作成をおこなう。

[解説]
1.中務省は、天皇の側にあって政策の是非を献言する、八省の筆頭で最も重要とされた役所である。

2.「卿(かみ)一人。掌(つかさど)らむこと。侍従・献替(ごんだい)し、礼儀(らいぎ)を賛(たす)け相(みちび)き、詔勅の文案(もんあん)を審署(しんじよ)し、事を受けて覆奏(ふくそう)せむこと。……」(『令義解』職員令)とある。

〈2013立命館・文法済営などA方式

下線部(4)の太政官の下には八省があり、に関連して、八省のうち、臣下の上表の受納や詔勅の起草を担った省を何というか。もっとも適当なものを下から下から一つ記号で答えよ。
(あ治部省 い式部省 う大蔵省 え中務省)」
(答:え)〉

〈2009立命館大・A方式

戸籍に記録される住民の名前・性別・年齢・身分や、他の住民との関係、各戸に割り当てられる[ B ]田の総額などの情報は、50戸を一つのまとまりとした行政単位「里」ごとに一巻にまとめられ、国衙と中央の民部省・[ C ]に保管された。」(答:B口分田、C中務省)〉

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『源氏物語湖月抄』(北村季吟)

2017-03-01 | 『新世界史頻出年代暗記』


いろんな幹が 焦げましょう。

湖月抄1673年(北村季吟)(歌学方)                          


[ポイント]

1.北村季吟は、『湖月抄』を著し、1689年歌学方に任命された。

[解説]
1.北村季吟(1624~1705)は、近江国の医師の家の生まれ。『源氏物語』や『枕草子』を研究して、作者本来の意図を知ろうとした。季吟の古典研究は古代精神の探究に進み、のちに発展する国学の先駆者となる。


2.季吟の『源氏物語湖月抄(こげつしょう)』は1673(寛文13:家綱代)年成立、単に『湖月抄』ともいう。源氏物語の古注(季吟以前の注釈)を集成したもの。同じく『枕草子』の注釈書で『枕草子春曙抄(しゅんしょしょう)』もある。


3.北村季吟湖春の父子は、1689年(元禄2:綱吉代)年、和歌に関する学問をつかさどる幕府・歌学方に任命された。歌学方は、その後北村家が世襲した。


〈2016早大・文

問5 下線c寛文の時代に実施された政策として正しいものを1つ選べ。

 ア 朝鮮より回答兼刷還使が派遣されるようになった。

 イ 金銀貨幣を改鋳し、品質を落として差益を幕府の収入とした。
 ウ 島原・天草一揆を鎮圧し、キリスト教の信仰を弾圧した。
 エ 殉死を禁じ、跡を継いだ新しい主君に引き続き奉公させた。
 オ 幕府は歌学方を設置し、北村季吟を登用した。

(答:エ※寛文(1663~1680)は家綱代)、アの回答(使)兼刷還使は慶長12(1607)、イの最初に品位を落としたのは元禄小判(1695)、ウの島原天草一揆は寛永14(1637)、オの歌学方は元禄2(1876))〉


〈2013早大・文

  1680年代には幕府に天文方が設置された。これは、渋川春海が平安以来の[ B ]の誤りを修正した貞享暦を作ったことに端を発していた。また和歌の研究や詠歌を担当する歌学方も設けられ、『源氏物語湖月抄』の著者、[ C ]が初代歌学方に任じられた。

問6 空欄Bに該当する暦を、漢字3字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。


問7 空欄Cに該当する人名を、漠字4字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。」


(答:B宣明暦、C北村季吟)〉


〈2013中大・法〉

 綱吉は、たとえば北村季吟を[ 8 ]方とするなど、儒学以外の学問にも関心を示した。また、仏教にも深く帰依した。」

(答:歌学)〉

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『経済録』(太宰春台)

2017-03-01 | 『新世界史頻出年代暗記』



[ゴロ]ダサい先輩!/経済ロック

太宰春台)(専売制)(経済録

[句意]先輩、ダサいですよ、先輩たちバンドの経済ネタ・ロック(ンロール)は、という句。経済ネタのロックなんてひきますよ、あるいは経済ネタの中味をもっと工夫して下さいよ、という意味です。また江戸時代で「経済」が入る書名で著名なものに佐藤信淵『経済要録』(1827刊)(近世356よろよろ経済佐藤農政)もある。これとの混同に注意してください。


[ポイント]
1.太宰春台は、『経済録』を著し専売制を唱えた。

[解説]
1.太宰春台(1680~1747)は、信濃国飯田の生まれで、荻生徂徠の高弟。春台は経世論を発展させ、1729(享保14:吉宗代)年成立の『経済』および後の『経済録拾遺(しゅうい)』で商業藩営論を主張、武士も商業を行い、専売制度によって利益をあげるべきだと主張した。

〈2014立大・現心コミュ福観光営

 3荻生徂徠は、古文辞学派の儒学者でもあった。徂徠は『( イ )』を著し武士の土着論を展開し、また徂徠門下の〈 あ 〉は『経済録』や『経済録拾遺』を著し4武士の商業活動の必要性を説くなど、その積極的な政治経済への発言がその後の経世論発達の礎となった。」

問3.下線部3の荻生徂徠が江戸に開いた私塾はどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.蘐園塾 b.古義堂
 c.洗心洞 d.藤樹書院」


問4.これを同じく説いた『稽古談』の著者は誰か。次のa~dから1つ選べ。


 a.海保青陵 b.工藤平助
 e.佐久間象山 d.林子平」


(答:イ政談、あ太宰春台、問3a、問4a)〉


〈2013法大・法国際文化キャリア

 下線部a~cのなかから正しくないものをそれぞれ一つ選べ。なお、下線部a~cがすべて正しい場合には、dを選べ。

問5 日本沿岸の防備の必要性については、aロシアの使節が来航するようになる以前から、すでに林子平が『海国兵談』において説いていた。そうした対外警戒論の一方で、b本多利明は『西城物語』『経世秘策』を著して貿易振興の必要を説き、c佐藤信淵も『経済録』において貿易の拡大を主張した。


(答:a〇、b〇、c×『経済録』は太宰春台)


〈2012同志社大・神商心理:「

a.武士土着論を展開し、幕藩体制への多くの改善策を述べ、1729年に成立した春台の著書名を記せ。」

(答:経済録)〉

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