【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

ジャーナリストと国家権力との緊張関係は戦前からあった。問題は強靱な受け手の成熟にもある。

2015-12-28 15:13:32 | 政治・文化・社会評論
《いつの時代にもまともなことを民衆に知らせようとするジャーナリストは、権力の弾圧を受けた。戦前の桐生悠々、戦後の西山太吉。昨今のテレビ報道番組への政府からの圧力とテレビ側の過度の自主規制も大きな問題である。日刊ゲンダイの記事は、深く掘り下げて、こういう視点があったのだと参考となった。この記事で取り上げられていないNEWS23の岸井成格アンカーに対して、私は古館氏と岸井氏とは異質とうけとめている。岸井氏は毎日新聞社の主筆、いわばトップであった。それを三顧の礼で迎えたTBS経営陣の今後の岸井さん、膳場さんへの対応は、年が明けてこれからの趨勢を見守りたい。事実に即して、コメントしたいと考える。  櫻井智志》

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【日刊ゲンダイ】巻頭特集
古舘伊知郎が惜しまれるテレビ報道番組の惨状
2015年12月26日
「報道ステーション」の古舘伊知郎キャスターが24日、来年3月末で辞めることを発表した。このニュースが注目されたのは、古舘といえば、一応、反権力、反安倍で「戦ってきたキャスター」というイメージがあったからだ。
「放送レポート」編集長の岩崎貞明氏は日刊スポーツで「圧力、逆風がある中で正面に立って体を張ったと思う」とコメントしていたが、そういう部分は確かにあった。とはいえ、こんな声もあるにはある。元NHKの政治記者の川崎泰資氏である。
「前任者の久米宏氏は『与党とマスコミが衝突するのは当たり前だ』と語り、腹が据わっていた。彼に比べると、古舘氏は底の浅さを感じましたね。口先だけでごまかしているイメージで、だから、最後はケンカにならなかったのでしょう」
“ケンカ”とは、こういうことだ。
「今年3月、報ステのコメンテーターだった元経産官僚の古賀茂明氏が『I am not ABE』発言で官邸からバッシングを受けて降板することを暴露しましたが、実はそのころから、古舘氏もセットで辞めさせろ、というムードができていたんです。官邸が政権に批判的な報ステを快く思っていなくて、それが上層部にも伝わっていたからでしょう。古賀氏の前に辛口コメンテーターだった朝日新聞の恵村順一郎論説委員が外され、古賀氏と同時期にこれまた『戦う』女性プロデューサーが異動になった。そのころから外堀が埋まっていて、来春の契約更新時の降板は“既定路線”だったのです。これに対して、古舘氏は『俺が頑張るからな』と直前まで周囲に語っていた。会見では自分の意思でやめるような言い方でしたが、現場にしてみれば、青天の霹靂で、そうは見えない。事実上のケンカ別れ、安倍官邸の顔色ばかりを気にしている上層部にバッサリ切られたということでしょう」(テレビ朝日関係者)
 だったら、古舘も古賀氏のようにケツをまくればいい。暴露でも何でもすりゃいいのに、そうはしなかった。わずかに「12年間のうっぷんがたまっている」とジャブを放った程度だ。
 かくて、安倍官邸の圧力にやたらと敏感な報道機関の自粛によって、また一人、キャスターが葬り去られたわけである。
 古舘のニュースキャスターとしての評価について、前出の川崎泰資氏は「それなりだったと思う」とこう言う。
「政治権力による言論弾圧の風潮が強まっているように感じる昨今ですから、よく頑張っているように見えたし、それなりに頑張っていたとは思います。でも、あれくらいは当たり前で、もっとやってもいい。古舘氏を惜しむ声があるのは、いかに日本のテレビ局のキャスターが牙を抜かれているのかの裏返し。そこに注目すべきですよ」
 いつのまにか、古舘が「最後の砦」のようになってしまった。そこが問題なのである。
かつて、TBSには「JNNニュースコープ」という番組があった。初代メーンキャスターは後に政治家に転身する田英夫氏。しかし、ベトナム戦争報道で切られた。表向きの理由は「北ベトナムをめぐる真実でない報道」だったが、反米的な報道姿勢に政府・与党が怒り、TBSに圧力をかけたからとされている。構図は古賀、古舘騒動ソックリだ。TBSでは今、これまた政権に批判的な「ニュース23」の岸井成格キャスターがやり玉に挙がっている。こちらも3月降板が確実視されている。
「田氏の例があるように政治がTV局に圧力をかけることはよくある。そのたびに誰かが更迭される。でも次にまた戦う人が控えていればいいんです。しかし、今はどのTV局も政権ベッタリでマトモな次がいなくなってしまった。そこがショックだし、由々しきことなのです」とは武蔵大教授の永田浩三氏。NHKで従軍慰安婦の問題を真正面から取り上げた元プロデューサーである。
 ちなみに田氏はクビになったあと、自民党の三木武夫らが「励ます会」を開いた。そこに自民党の良識があったが、今や、安倍の言論封鎖に誰も声を上げず、それどころか若手議員らが「もっと懲らしめろ」「広告を断てばいい」などと騒いだ。さすがに批判されたが、その首謀者がいつのまにか役職停止処分を解かれ復活している。それでも、TVはまったく批判しないのだから、なめられるわけである。なるほど、古舘“程度”でも「惜しまれる人材」になるのだろう。
報道バラエティーが与党のPR役をやっている
 もうひとつ、古舘降板劇の記者会見で気になったのは、古舘が報道番組と娯楽番組を分けて、報道番組は制約が多いことなどを指摘したことだ。
 そうか、今のテレビに報道番組があったのか。全部バラエティーかと思った。こんな皮肉も言いたくなる。見渡せば、報道バラエティー番組ばかりじゃないか。そうした番組ではもちろん、政権批判はしない。しないどころか、進んで政府与党のPR役を買って出る。
 安保法制の審議がたけなわだった今年9月、安倍は国会の特別委員会をサボって大阪へ直行。読売テレビの情報番組「そこまで言って委員会NP」の収録と「情報ライブ ミヤネ屋」の生放送に出演した。「そこまで」の司会は辛坊治郎、ミヤネ屋はもちろん、宮根誠司だ。
 当然、野党は問題視、自民党の鴻池祥肇・参院特別委委員長も「一国の首相としてどうか」と怒ったが、テレビ局はもみ手で安倍を迎え、一方的にしゃべらせた。今のテレビなんて、この程度なのである。TV局側は「あれは報道番組じゃない」などと言い訳するのだろうが、そんなのはTV側の理屈で、見ている方は区別がつかない。早い話、報道番組もバラエティーも一緒に見える。芸能人やお笑い芸人があふれ、ニュースもバラエティーもあったもんじゃないのだが、そこで素朴な疑問である。
 なぜ、テレビの報道番組はここまでフニャフニャになり骨抜きにされたのか。安倍の暴政といったって、放送法を変えられたわけじゃない。昔だって、政治の圧力はあったのだ。
「そもそも、政治的公平を定めた放送法4条はNHKの内規でした。選挙の際の政見放送をするときのルールで、それを放送法をつくるときに参考にしてもってきた。つまり、選挙の時の自主ルールなんですよ。それを権力側が振りかざし、気に入らない番組に圧力をかけたり、幹部を呼び出し事情聴取するなんて、ありえないことなのです。そんなことを許せば、TV局は自分で自分の首を絞めることになる。権力の横暴をチェックできずに暴走させれば、国民の不利益になるからです。はねのけなければウソなのです」(永田浩三氏=前出)
 それができないのは「それぞれの志の問題だろう」と前出の川崎泰資氏は言った。テレビ朝日では古賀騒動の後、福田俊男専務が自民党の情報通信戦略調査会に呼び出されたが、停波をチラつかせて脅した自民党に反発するどころか、「誤解が生じたら困るので、いい機会と捉えて出席した」なんて媚びていた。古舘報ステに対し、現場の政治記者の間には「あの番組のせいで取材がしにくい」なんて声もあったというから、オシマイだ。
 古舘を最後の骨太キャスターと呼ぶならそれで結構。とことん劣化したテレビ局にふさわしい話である。
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ジャーナリストと国家権力との緊張関係は戦前からあった。問題は強靱な受け手の成熟にもある。

2015-12-28 15:13:32 | 政治・文化・社会評論
《いつの時代にもまともなことを民衆に知らせようとするジャーナリストは、権力の弾圧を受けた。戦前の桐生悠々、戦後の西山太吉。昨今のテレビ報道番組への政府からの圧力とテレビ側の過度の自主規制も大きな問題である。日刊ゲンダイの記事は、深く掘り下げて、こういう視点があったのだと参考となった。この記事で取り上げられていないNEWS23の岸井成格アンカーに対して、私は古館氏と岸井氏とは異質とうけとめている。岸井氏は毎日新聞社の主筆、いわばトップであった。それを三顧の礼で迎えたTBS経営陣の今後の岸井さん、膳場さんへの対応は、年が明けてこれからの趨勢を見守りたい。事実に即して、コメントしたいと考える。  櫻井智志》

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【日刊ゲンダイ】巻頭特集
古舘伊知郎が惜しまれるテレビ報道番組の惨状
2015年12月26日
「報道ステーション」の古舘伊知郎キャスターが24日、来年3月末で辞めることを発表した。このニュースが注目されたのは、古舘といえば、一応、反権力、反安倍で「戦ってきたキャスター」というイメージがあったからだ。
「放送レポート」編集長の岩崎貞明氏は日刊スポーツで「圧力、逆風がある中で正面に立って体を張ったと思う」とコメントしていたが、そういう部分は確かにあった。とはいえ、こんな声もあるにはある。元NHKの政治記者の川崎泰資氏である。
「前任者の久米宏氏は『与党とマスコミが衝突するのは当たり前だ』と語り、腹が据わっていた。彼に比べると、古舘氏は底の浅さを感じましたね。口先だけでごまかしているイメージで、だから、最後はケンカにならなかったのでしょう」
“ケンカ”とは、こういうことだ。
「今年3月、報ステのコメンテーターだった元経産官僚の古賀茂明氏が『I am not ABE』発言で官邸からバッシングを受けて降板することを暴露しましたが、実はそのころから、古舘氏もセットで辞めさせろ、というムードができていたんです。官邸が政権に批判的な報ステを快く思っていなくて、それが上層部にも伝わっていたからでしょう。古賀氏の前に辛口コメンテーターだった朝日新聞の恵村順一郎論説委員が外され、古賀氏と同時期にこれまた『戦う』女性プロデューサーが異動になった。そのころから外堀が埋まっていて、来春の契約更新時の降板は“既定路線”だったのです。これに対して、古舘氏は『俺が頑張るからな』と直前まで周囲に語っていた。会見では自分の意思でやめるような言い方でしたが、現場にしてみれば、青天の霹靂で、そうは見えない。事実上のケンカ別れ、安倍官邸の顔色ばかりを気にしている上層部にバッサリ切られたということでしょう」(テレビ朝日関係者)
 だったら、古舘も古賀氏のようにケツをまくればいい。暴露でも何でもすりゃいいのに、そうはしなかった。わずかに「12年間のうっぷんがたまっている」とジャブを放った程度だ。
 かくて、安倍官邸の圧力にやたらと敏感な報道機関の自粛によって、また一人、キャスターが葬り去られたわけである。
 古舘のニュースキャスターとしての評価について、前出の川崎泰資氏は「それなりだったと思う」とこう言う。
「政治権力による言論弾圧の風潮が強まっているように感じる昨今ですから、よく頑張っているように見えたし、それなりに頑張っていたとは思います。でも、あれくらいは当たり前で、もっとやってもいい。古舘氏を惜しむ声があるのは、いかに日本のテレビ局のキャスターが牙を抜かれているのかの裏返し。そこに注目すべきですよ」
 いつのまにか、古舘が「最後の砦」のようになってしまった。そこが問題なのである。
かつて、TBSには「JNNニュースコープ」という番組があった。初代メーンキャスターは後に政治家に転身する田英夫氏。しかし、ベトナム戦争報道で切られた。表向きの理由は「北ベトナムをめぐる真実でない報道」だったが、反米的な報道姿勢に政府・与党が怒り、TBSに圧力をかけたからとされている。構図は古賀、古舘騒動ソックリだ。TBSでは今、これまた政権に批判的な「ニュース23」の岸井成格キャスターがやり玉に挙がっている。こちらも3月降板が確実視されている。
「田氏の例があるように政治がTV局に圧力をかけることはよくある。そのたびに誰かが更迭される。でも次にまた戦う人が控えていればいいんです。しかし、今はどのTV局も政権ベッタリでマトモな次がいなくなってしまった。そこがショックだし、由々しきことなのです」とは武蔵大教授の永田浩三氏。NHKで従軍慰安婦の問題を真正面から取り上げた元プロデューサーである。
 ちなみに田氏はクビになったあと、自民党の三木武夫らが「励ます会」を開いた。そこに自民党の良識があったが、今や、安倍の言論封鎖に誰も声を上げず、それどころか若手議員らが「もっと懲らしめろ」「広告を断てばいい」などと騒いだ。さすがに批判されたが、その首謀者がいつのまにか役職停止処分を解かれ復活している。それでも、TVはまったく批判しないのだから、なめられるわけである。なるほど、古舘“程度”でも「惜しまれる人材」になるのだろう。
報道バラエティーが与党のPR役をやっている
 もうひとつ、古舘降板劇の記者会見で気になったのは、古舘が報道番組と娯楽番組を分けて、報道番組は制約が多いことなどを指摘したことだ。
 そうか、今のテレビに報道番組があったのか。全部バラエティーかと思った。こんな皮肉も言いたくなる。見渡せば、報道バラエティー番組ばかりじゃないか。そうした番組ではもちろん、政権批判はしない。しないどころか、進んで政府与党のPR役を買って出る。
 安保法制の審議がたけなわだった今年9月、安倍は国会の特別委員会をサボって大阪へ直行。読売テレビの情報番組「そこまで言って委員会NP」の収録と「情報ライブ ミヤネ屋」の生放送に出演した。「そこまで」の司会は辛坊治郎、ミヤネ屋はもちろん、宮根誠司だ。
 当然、野党は問題視、自民党の鴻池祥肇・参院特別委委員長も「一国の首相としてどうか」と怒ったが、テレビ局はもみ手で安倍を迎え、一方的にしゃべらせた。今のテレビなんて、この程度なのである。TV局側は「あれは報道番組じゃない」などと言い訳するのだろうが、そんなのはTV側の理屈で、見ている方は区別がつかない。早い話、報道番組もバラエティーも一緒に見える。芸能人やお笑い芸人があふれ、ニュースもバラエティーもあったもんじゃないのだが、そこで素朴な疑問である。
 なぜ、テレビの報道番組はここまでフニャフニャになり骨抜きにされたのか。安倍の暴政といったって、放送法を変えられたわけじゃない。昔だって、政治の圧力はあったのだ。
「そもそも、政治的公平を定めた放送法4条はNHKの内規でした。選挙の際の政見放送をするときのルールで、それを放送法をつくるときに参考にしてもってきた。つまり、選挙の時の自主ルールなんですよ。それを権力側が振りかざし、気に入らない番組に圧力をかけたり、幹部を呼び出し事情聴取するなんて、ありえないことなのです。そんなことを許せば、TV局は自分で自分の首を絞めることになる。権力の横暴をチェックできずに暴走させれば、国民の不利益になるからです。はねのけなければウソなのです」(永田浩三氏=前出)
 それができないのは「それぞれの志の問題だろう」と前出の川崎泰資氏は言った。テレビ朝日では古賀騒動の後、福田俊男専務が自民党の情報通信戦略調査会に呼び出されたが、停波をチラつかせて脅した自民党に反発するどころか、「誤解が生じたら困るので、いい機会と捉えて出席した」なんて媚びていた。古舘報ステに対し、現場の政治記者の間には「あの番組のせいで取材がしにくい」なんて声もあったというから、オシマイだ。
 古舘を最後の骨太キャスターと呼ぶならそれで結構。とことん劣化したテレビ局にふさわしい話である。
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大学教育における「教養」としての哲学や社会科学の意外な重要性

2015-12-28 09:18:25 | 政治・文化・社会評論
大学教育における社会科学と哲学などの一般教育の重要性
                    櫻井 智志

 文科省だったかその周辺からだったか、大学での人文科学・社会科学をなくし、理科系を充実させるべきと見解を出した。これはこの後に転載した孫崎享氏も述べていらっしゃるが、明白な重要問題をはらむ。
 大学での一、二年の一般教養を高校の学習と重複しているという見方もある。西洋教育史の碩学元東京教育大学教育学部長梅根悟氏や前中央大学教授中野光氏は、なぜ一般教育が必要なのかを「教養」概念の重要性として研究書に書いておられる。
 細分化された科学の細切れの知識でなく、個別科学を全体として総合的な知として位置づけられたものが、「哲学」であり「社会科学」である。もしも社会科学や哲学をカリキュラムからはずすことの弊害は、実施されたなら大きな禍根を残すことになるだろう。
 化血研に働く研究者たちは、インフルエンザワクチンの不正な製造や猛毒ポツリヌス菌の運搬などそれらを行うことに、どれだけ社会的影響や被害者への問題を自らが生きることとむすびつけて考えていただろうか。
 国立感染研は、実験に扱う細菌やウイルスがもしも外部の住宅密集地に漏れたならば、その甚大な被害について構想する見識をもっていただろうか。自然科学者が人間知としての哲学や社会科学についての「自ら考え判断する」思考や認識をもっていないとしたら、その弊害は重大な瑕疵を帯びる。
 以下の孫崎享氏の評論は、私がいま書いたこととまた別の視野から執筆している。アメリカの高等教育でのアプローチをぜひご覧いただければ幸いである。




【孫崎享のつぶやき】
大学教育で一般教育縮小は間違い。ハーバード大学医学大学院教授の「大学での一般教養教育は何故必要か」(抜粋)
2015-12-28 07:251


A:事実関係:ワシントン・ポスト紙掲載「ハーバード医学大学院教授が何故一般教養、哲学が必要かを説く(A Harvard Medical School professor makes the case for the liberal arts and philosophy)」

https://www.washingtonpost.com/news/grade-point/wp/2015/12/24/a-harvard-medical-school-professor-makes-the-case-for-the-liberal-arts-and-philosophy/

筆者はDavid Silbersweig、ハーバード大学医学大学院教授

・共和党大統領選討論会及びその後の声明で、ルビオ候補は哲学や米国高等教育の重要性を低く評価した(注:「溶接工の方が哲学者より金を儲けるとして職業訓練所の必要を強調した)。その時私はダートマス大学2年生の時、小さい頃からの知りあいの歯医者に行った時のことを思い出す。

 その時歯医者は「何を専攻しているか」と聞き、私が「哲学専攻」というと、「哲学でどうしようとしているのか」と聞いた。私はその時、「考える事」と答えた。

・歯医者には哲学は実用的でないように見えたが、哲学はその後私が行った全てに対しての方法論を与えてくれた。

・もし、カントの一段落を、その考え方や配列されている節を留意しながら読み切るなら、貴方は全てを考え抜くことが出来る。もし貴方が、議論に役立させる形で、仮説や上位の原則やを受け止め、抄録(abstract)と抜粋(extract)が出来るなら、無数の分野での問題点を見つけ、立ち向かわせることが出来る。

 哲学はいかに継続して自分に与え続ける贈り物であったか。

歯医者には非実用的とみられたかもしれないが、哲学はその後私が携わったすべてに方法論を知らせ、与えてくれた。

・哲学は私の哲学から医学の道で数えられない方法で私を助けてくれたし、この点はルビオや私の歯医者などが多くの誤解を持っていることを示している。

(その後、東洋哲学、脳の研究に言及)

・学位取得後英国で訓練する機会を得た。多くの異なる国の人々と働き、考えた。そしてそこで、一般教養教育を持たない者は如何に優秀でも狭い視野しか持っていないことを発見した。彼らの教育は職業的であった。(新しい分野の切り開きには異なる分野の人々の協力の有益さに言及)



B:問題点

・現在経済製品は恐ろしい勢いで新しいものに変わっている。

・旧来的な職業訓練的教育で身につけた技術は古くなる。
 旧来的なものを以下に効率よく作るかでは競争に生き残れない。
・新しい情勢変化に適合していくことが、何時の時代よりも望まれる。

・新技術は、各種分野の複合体として出てくる。

・各種分野を統括して見渡せる能力がなければ経済競争に勝てない。

・一般教育はまさにその力を養う。

・日本の大学における専門重視の教育は多分時代の求めるもとと、逆方向に進んでいるとみられる。