幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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「アンパンマンの遺書」 やなせたかし著

2014-03-19 00:29:19 | ブログ

父が中国で33歳で亡くなり、弟と母と祖母の4人で暮らし、弟は伯父の養子に、その後母は再婚し 伯父に育てられた。東京高等工芸学校(千葉大学)の図案科に入学。数学はまったくできなかったが、暗記した本からそっくり出た。戦争にも駆り出された。

 当時の漫画家、横山泰三、加藤芳郎、萩原賢次が三羽烏、岡部冬彦「アッちゃん」、根本進「クリちゃん」、小島功「仙人」で活躍しており、やなせたかしさんは一人置いてきぼりだった。

NHKより「漫画学校の先生」のテレビ出演。そこで2分だけもらって漫画の描き方を紹介。その頃、手塚治虫が登場し、それまでの漫画界の地図を塗り替えていった。手塚治虫を慕う、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄など手塚の影響を受けて大きく育って行った。

インタビュー記事の依頼もあり、丹下清子さんを訪問した時、「若い人では永六輔がいいわね」と言われそれを記事にした。そうした永六輔さんが労音ミュージカル「見あげてごらん夜の星」をやるので、舞台装置の依頼があった。全く経験がなかったが引き受けた。

宮城まり子さんから、「今度はじめてリサイタルやるから、その構成をしてほしいねん」と言われ、やったことが無かったが引き受けた。

羽仁進さんから映画のシナリオの依頼があり、これもやったことがなかったが引き受けた。

山梨シルクセンター(サンリオ)から、詩集を出しましょうということで、「愛する歌」をこれも初めてだったが出した。これは5集までき、10万部以上は売れた。

週刊朝日が100万円懸賞漫画を募集し、プロであったが、ペンネーム「やなせたかし」で応募したらグランプリに輝いた。いずみ・たくさんより「やなせさんは立派なプロの漫画家なのに応募する勇気がある。ぼくは感動してしまった」と言われた。うだつのあがらない三流漫画家の破れかぶれの行動だったのだが。

文化放送のディレクターから、アナがあきそうなので、何でもいいから大至急1本かいてくださいと依頼があった。それで書いたのが「やさしいライオン」だった。

手塚治虫さんから、今度長編アニメをやるのでその中でキャラクター・デザインをやって欲しいとの依頼があり、引き受けた。アニメがヒットしたお礼として、手塚治虫さんからポケットマネー出しますから、アニメーションの短編を自由に作ってくださいと言われた。そこではじめてアニメーションを手がけることになった。やさしいライオンのアニメーションを作った。

サンリオから雑誌を作らないかと言われ、「詩とメルヘン」を作成した。人気もでて月刊誌になった。その頃に「漫画家の絵本の会」をつくった。 

アンパンマンの絵本が初めて出版されたのは53歳の時だった。

編集者が、こんな絵本はダメだと言われた。ところが、その後、子供たちからの人気が出て来た。

アンパンマンは、やなせたかしさんの人生が生み出した作品だと思いました。

依頼された仕事は初めてでも引き受けてチャレンジする。そういった一つひとつの結果と人の繋がりが、アンパンマンに繋がったのだと思いました。

歌「手のひらを太陽に」、「アンパンマンマーチ」の歌詞は人の心をうちます。

やなせたかしさんの一つひとつの人生体験から生まれたものだと思います。

奥さん(小松記者)とは高知新聞社で「月刊高知」を創刊する部署で出会った。小松記者から「やなせさんの赤ちゃんが産みたい」と言われ、この必殺のひと言でたちまち心は燃えあがり、小松記者を抱きしめて、唇を重ねた。「私、先に状況して、やなせさんを待っているわ」と言って退社してさっさと上京した。やなせさんは半年後に上京した。

やなせたかしさんの魅力と才能をいち早く気付いたのは奥さんだったのでしょう。