幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「殉教者」加賀乙彦著 ”信仰に生きる”

2017-02-08 10:42:58 | 本の紹介
キリスト弾圧下、ローマで司祭になり、また日本に戻って隠れキリスタンを励まし続け、密告により捕まり殺害された。ぺテル岐部

サマリヤの女、エルサレムに着いた時の感動。それは教わっていた聖書の世界を見るたびでもあった。
充分な資金がなかったため、路銀を働きながら稼いだ。
例えば、駱駝を操れるようになったことで雇って貰えた。

ラテン語とポルトガル語を日本のキリスト教の学校セミナリオで学んだ。
ローマの泉で倒れこんでいるところをイエスズ会の神父が乞食と思ってお金を恵んで来て、この青年がラテン語で話したので驚いた。奇遇な出会い。
ローマまで歩いた距離38,000km 船旅は14,500km。それは一途にイエス様を信じていること、司祭になって日本人を救いたいとの熱き思いがあったからなのでしょう。

イエスズ会への入門試験
1)新約聖書のイエス・キリストについて、イエスズ会初代総会長イグナチオ・デ・ロヨロの著書についてどれほどの理解でもって黙想しているか
2)ラテン語の能力
3)ポルトガルの能力
4)イエスズ会に入会する熱意
について数人の試験官の問いに答えること。
試験は4日間にわたって行われた。

学べる幸せを感じるとともに、司祭になって日本に戻ってキリスト教を伝えたいとの強い思いが学びの力になったと思われる。

聖フランチェスコの伝記「小さな花」より
「おお、イエス。かのつらく苦しい受難の時、耐え忍ばれた苦痛を、この私も生きているうちに、わが体と魂で味わいつくすように。もうひとつ、神の御子であるあなたを燃えたたす愛、われら罪びとのために、よろこんで、この十字架の受難を忍ぶはかり知れぬ愛を、私にも出来るだけ、心に感じることができますように」

読み終えると、イエス・キリストを深く信じているかぎり、死はなにものでもなく、大きな喜びであると心の底から思い知った。

ローマとリスボンにおける年月を合わせて二年間の修練期間を終え、請願をたてる資格を得た。そしてついにイエスズ会士になった。

マカオには日本からのキリスト教徒の難民が多くなった。そこでシャム王国の首都アユタヤがキリスタンの難民の移住地と目されるようになってきた。

船が海賊に襲撃され多くの人が殺害され、海に飛び込んで陸地まで泳ぎ、大森林の中を歩いた。2週間さ迷った。42歳。人生50歳。まだ神父としての召命に応えていない罪の重さに苦しむ。
そこで、かつてマニラから日本への期間をこころみたことがあるという松田ミゲル神父が尋ねてきた。マニラからマカオへの渡航中、船が座礁し、明の警備隊に捕縛されて獄中に拘禁されてしまった。獄中では大変な辛酸を嘗めた。囚人は裸にされ大小便が垂れ流しの不潔さだった。10か月ほどで釈放された。二人はたちまち意気投合して、帰国の方法を相談した。

中古の船を買って修理して日本に戻ることにした。せっかく作った船が白蟻で水漏れがした。これも神様が私たちに与えてくださった試練と考え乗り越えた。

トカラ列島の中之島手前で沈没、坊津に上陸、長い航海で日焼けして伸び放題の髭の哀れな姿を見た役人はこやつはキリスタンではない、ただの承認じゃとみて、難なく上陸をゆロしてくれた。昼間は宿の奥に隠れ、日暮れになると宿を抜け出して、信者の家を訪問して回った。説教し、ミサを開き、秘跡を授けた。弾圧がさらに激しくなり、九州にいたのではキリシタン信者たちの信仰を守るのが難しくなったと情勢判断して京都に移った。畿内よりも東北がよいと判断して向かった。

仙台藩ではキリシタンを密告すると幕府の報奨金よりけた違いに多かった。
・伴天連(神父)の訴人 黄金10枚(銀子200枚)
・いるまん(修道士)の訴人 黄金5枚(銀子100枚)
・キリシタンの訴人 黄金3枚(銀子50枚)
この布告の立札が立てられたのは、仙台四郡、白石、三迫、水沢
キリシタンの密告で捕まった。52歳。江戸に送られて処刑。

感想
キリスト教禁止下でも隠れキリスタンがいたこと。
そしていのちの危機があっても、信仰を優先したこと。
司祭になって隠れキリスタンの支えになりたいと思った人がいたこと。

信仰とは何か、生きるとは何かを教えてもらったように思いました。
そして”殉教者”がどのような思いであったかも少し知ることができました。
苦痛がそれが神様からの試練だと思える時、それを耐える、乗り越える力が沸き上がってくるのでしょう。


南スーダン日報廃棄 自衛隊宿営地近くで銃撃戦 政府把握も公表せず "都合の悪い情報は公開せず”

2017-02-08 10:42:30 | 社会
カナロコ by 神奈川新聞 2/8(水)
自衛隊宿営地の近くで「激しい銃撃戦」が行われたことなどが記載されている「日報」の一部
【時代の正体取材班=田崎 基】防衛省は7日、廃棄したとしていた南スーダン国連平和維持活動(PKO)派遣部隊が活動を記録した「日報」の一部を公表した。首都ジュバで大規模な戦闘が発生した2016年7月の2日分。連日、自衛隊の宿営地近くで銃撃戦が発生し、200メートルほど離れた地点に砲弾が落下するなど緊迫した状況が報告されている。当時政府はこうした状況を把握していたが、国会審議などで公表しなかった。

 防衛省が公表したのは「南スーダン派遣施設隊 日々報告」(16年7月11、12日)。1日当たり50ページ余りで、南スーダンの治安状況や政府と反政府勢力の和平合意の進捗(しんちょく)状況、ジュバの戦闘状況や情勢と評価、気象や燃料・食料保有量などが記載されている。

 ジュバでは7月8日ごろから戦闘が激しくなり、11日の日報には「宿営地周辺より射撃音を確認」「市内における略奪等も発生」などと記載。政府軍と反政府勢力との武力衝突について「(隊員の)巻き込まれに注意が必要」「宿営地周辺および市街地における射撃による流れ弾に注意が必要」などと、自衛隊が現地の紛争に巻き込まれる恐れを指摘している。

 「予想されるシナリオ」ではジュバでの衝突激化によってPKOが停止する可能性も示唆している。

 一方、政府は深刻化する現地の情報を把握していたにもかかわらず一切公表していなかった。

 日報を巡っては、ジャーナリストの布施祐仁さんが16年9月末に情報公開請求したところ、防衛省は同12月に「廃棄したため不存在」とし非開示決定を下していた。同省統合幕僚監部(東京都新宿区)はこの際、日報を作った南スーダン派遣施設隊と報告先である中央即応集団司令部(座間市)の両組織にしか存否を確認しなかった。

 自民党行政改革推進本部長の河野太郎衆院議員(15区)から再調査を求められ、統合幕僚監部内の端末に「電子データとして残っていたのが見つかった」としている。

 稲田朋美防衛相は7日の閣議後会見で「情報公開請求に対する対応は不十分だった」とミスを認めた。ただ、「廃棄は法令に基づくもの。隠蔽(いんぺい)や紛失ではない」と釈明した。

 統合幕僚監部は16年12月以降、「報告後廃棄」としてきた日報の取り扱いを変更、今後は半年程度保管するとしている。

■ルール作りが急務 情報公開制度に詳しい大川隆司弁護士(かながわ市民オンブズマン代表幹事)の話

 日本は「情報公開後進国」ということを象徴している。作成後の公文書については情報公開制度ができ、ある程度担保されてきた。だが、文書の作成過程については法律が全く不十分だ。重要な情報は文書化し、どこで保管し、どこで市民が見られるか。そうしたことが法律で義務化されていれば今回のような場合、担当者の責任を追及できる。ルール作りが急務だ。

感想
政府に都合の悪い情報は、国民に知らせない。
秘密保護法もその役割を担っています。
公開しないことで、政府は自分たちの好きなことができるようになります。
戦前の”大本営発表”と同じです。
負けていたのに、勝っているかの報道がされていました。
新聞も政府の検閲が入っていました。

日報は報告したら廃棄は、組織的に考えるとあり得ません。
あるいは、二次資料として何かにまとめられているのかもしれません。
現地の活動記録がなくて、いったいどんな記録を残しているのでしょう?