幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「闇を裂く道」吉村昭著 "多くの人の熱意と犠牲の上に貫通”

2017-08-16 13:16:48 | 本の紹介
丹奈トンネル工事を取り上げた作品です。総延長7,804m、1934年(昭和9年)開通。
湧水地帯にトンネルを掘る作業で、多量の水などにより、多くの死者(67人)がでました。
それまでは東海道線は御殿場を通る迂回ルートで高い勾配(25%)を列車が昇るために、機関車を追加するなど時間がかかっていました。
11.81km短縮されただけでなく、機関車を連結するなどの作業もなくなった。
国府津⇒御殿場⇒沼津のルートが、国府津⇒小田原⇒熱海⇒三島⇒沼津に変更になった。
三島は当初駅を設ける予定がなかったが、トンネルができても地元民には恩恵がないとのことで、住民の陳情で新しく設置された。
東海道線が全通した明治二十二年の東京、大阪間の平均速度は30.1kmで徐々に速度が増し、昭和九年丹奈トンネルの開通によって69.9kmまで増速した。
そして、昭和五年十月から「燕」の列車は東京、大阪間を八時間二十分で疾走した。
かつ、熱海も東海道線の途中駅になった。7年で完成する予定が16年を要する大工事になった。
断層の落盤など何度も災害に出遭った。
トンネル内の多量の水の一方、それまで豊富な水資源で潤っていた、
水田、ワサビ田を涸らし、飲料水を奪った。穏やかな住民も生活基盤が崩され、悲鳴をあげ、何度も鉄道省に陳情などが続いた。
トンネル工事で排出された水量は芦ノ湖の貯水量の三倍に達していた。

感想
多くの人の熱意と犠牲で丹奈トンネルが貫通し、大幅な時間の短縮ができました。
当然と思って利用していることも、実は多くの人の熱意と犠牲があったのでしょう。
今の平和も、300万人の国民の犠牲の上に得たものかもしれません。
過ちを二度と繰り返さないためにも、戦争反対に一人ひとりが声を上げないと、また戦争になってしまいます。
戦前と同じような法律が成立しています。
・秘密保護法
・集団自衛権
・共謀罪
人は忘れてしまうのでしょうか?







文集は捏造、撮影前に目薬… 「誉れの子」いまの思いは ”国がこんなこともねつ造”

2017-08-16 07:18:58 | 社会
http://digital.asahi.com/articles/ASK864STBK86UTIL00Z.html?rm=426 朝日新聞 木村司、岩崎生之助 2017年8月16日

 日本兵の父親が戦死したことで「誉れの子」と呼ばれた子どもたちがいた。全国各地で選抜され、東京・九段の靖国神社に参拝。「父との対面」は美談に仕立てられ、戦意高揚に利用された。戦後72年。普通に悲しむことを許されなかった遺児たちはいま、何を思うのか。(木村司、岩崎生之助)
     ◇
 丸刈り頭の少年が、口を一文字に結んでいる。ほおには一筋の「涙」が光る。
 写真の少年は、小学5年の八巻春夫君。1938年、父が中国で戦死した。
 父が祀(まつ)られた靖国神社参拝のため41年3月、日本兵の遺児代表として上京。皇后陛下から菓子を受け取った。その瞬間をとらえた写真は、内閣の情報局が発行した国策グラフ誌「写真週報」の表紙を飾り、「誉れの子」の象徴的存在になった。
 それから70年余り。少年は87歳になり、山梨県南アルプス市で暮らしている。
 「お菓子をもらったときはなんとも言われない、感無量で、本当に涙が出ました。でも、撮影前、目薬をさされました
 カメラマンが密着取材し、巻頭特集も仕立てた。
 《おらあ、お父(と)うをおぶって帰ってくる》
 山梨の自宅前で祖父母らに見送られるシーンの写真説明には、こんな言葉が添えられた。しかし、八巻さんに話した記憶はない。
 家を出て甲府駅へと向かう道の途中。峠にさしかかり、後ろの富士山を振り返っている写真。「登校のたびに通るこの峠道」と説明されているが、「このときに初めて行った場所」だった。写真説明は雄弁に続ける。「富士がけふは何(な)んとなく懐(なつか)しい。ふり返(か)へり、ふり返へり眺める富士の晴れ姿に春夫君の心は強く強く引きしまる」
 靖国神社での参拝。直後の写真には《玉砂利を踏んで帰る遺児たちの頰は喜びに紅潮し、足取りは軽い》とあるが、八巻さんはこう振り返る。
 「大鳥居をくぐって水で手を清めたのは覚えている。でも、何を拝んだのか、覚えていません。父に会えた、という気持ちもなかった」
 それでも、八巻さんにとって大切な思い出だという。「私が選ばれたのは、父だけでなく、母も、弟も亡くした、不幸な人間だったからでしょう。私のような子どもを、よくさがしてくれました」
 10代で一家の大黒柱を担わされた八巻さん。「お国のために活躍し、誇りだった」という父を恨む気持ちも、戦後になって芽生えた。靖国神社にはその後、行っていないが、主催者から贈られたアルバムは今も大切に保管している。
     ◇
 靖国神社に参拝した遺児の感想文集が残っている。
 京都の57人分を収めた「社頭の感激」(恩賜(おんし)財団・軍人援護会京都府支部、41年発行)に、名前のある高田誠祐さん(87)は今も京都市で暮らしていた。
 《今日はいよいよなつかしい父に会へる日だと思ふとうれしさで胸が一つぱいです》《この光栄の日を一生忘れず、宏大(こうだい)な皇恩に報ひ奉る為、立派な日本人となり父の志をつぎ、ちかつて忠孝の道を尽さうとかくごいたしてをります》
 記者が文集の写しを差し出すと、ルーペで目をこらし、きっぱり言った。
 「これ、捏造(ねつぞう)でっせ。大人が書いたんやろう」
 参拝したことは鮮明に覚えている。遺児約60人と東京に向かい、寺で寝起きしながら参拝や式典をこなした。毎年夏には出雲大社(島根県)などへの旅行に招待された。
 44年7月、愛知県の工場へ動員され、軍用機の翼を作った。その年も旅行の招待状が届いたが、遺児を手厚く支援する余裕は、戦況の悪化で失われていった。「辛抱してくれ」。引率の教師の言葉が耳に残る。
     ◇
 戦後も、各地の遺児が集団で上京し、靖国神社に参拝していた時期があった。
 田上洋子さん(77)=さいたま市=は中学入学直前の53年春、熊本県から数十人の遺児と列車で東京を目指した。母は黒い羽織で見送ってくれた。「神社にある大きな鏡に自分の姿を映すと、お父さんに守られているという思いがわいてきた」。地元に戻り、学校でそんな発表をした。
 父が召集されたのは1歳のとき。2年半後の44年2月、マーシャル諸島で戦死。遺骨は帰らなかった。
 「『靖国の子』だから、後ろ指さされるようなことをしてはダメ」。戦後、母に何度も言われた。
 だが、英霊や散華(さんげ)といった戦死を美化した言葉には、いつしかむなしさを覚えるようになった。「『名誉の戦死』と思わなければ遺族は救われなかったかもしれない。でも、父の死は、そんなきれいなものではない。むごいものです」
 父を知らない。それが何よりつらかった。自分も2人の子を育て、父が帰りたかったのは、ふるさとや家族のもとだったとわかる。15日正午、南の島にいる父を思って黙禱(もくとう)を捧げた。

■「国家指導者の思想が子どもたちの心に内面化されてしまった」
 遺児たちの靖国神社集団参拝は、日中戦争が激化した39年から43年まで続いた。陸海軍大臣の訓話を聞く式典もあった。
 「感激性強く而(しか)も指導者の指導を無批判に受(うけ)入れる年配を選んだ」。参拝事業を進めた軍人援護会発行の冊子には、陸軍少将のそんな解説がある。新聞や雑誌、ラジオは参拝の模様を「遺児、靖国で父と再会」と美談にして報じた。
 遺児約2千人分の感想文を分析した学習院大学の斉藤利彦教授(教育史)によると、年1回の参拝事業への参加者は計約1万8千人。国民の戦意を高揚させ、総力戦態勢をつくる狙いがあったとみられる。「父親を失った悲しみすら素直に持たせてもらえない。国家指導者の思想が子どもたちの心に内面化されてしまった」
 戦後は、52年の講和条約発効で日本が独立を回復して以降、県や遺族団体などが主催した遺児集団参拝が50年代を中心に行われた。

感想
戦争維持ために、ねつ造までした国威発揚を行っていたようです。
国が出す情報は本当なのか?と疑問を持たないといけない社会は悲しく、怖いように思いました。

戦争反対と思っても、そのことを周りに言えず、言うと憲兵に連行され、拷問を受けたのでしょう。
多くの人が連行され獄死しました。

まだ、今だからこそ、戦争反対と言えるのでしょう。