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「過去を忘れるのが早すぎないでしょうか」 なかにし礼さんインタビュー

2017-08-15 18:03:18 | 社会
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201708/CK2017081502000115.html 東京新聞2017年8月15日

 戦後72年の終戦記念日の特集は、作家で作詩家のなかにし礼さん(78)のインタビューです。創作の原点であり、生と死そして国家と個人を考える端緒となった戦争の闇を語り、その闇の深さから生まれた憲法を「最高の芸術作品」と呼びました。
 (聞き手=編集局次長・瀬口晴義)

◆幼少期に引き揚げ
 -せい絶な引き揚げ体験がおありですね。
 僕の人生の幕開けは爆弾の音でした。昭和二十年八月で、当時は六歳。交響曲「運命」の第一楽章のようにジャジャジャジャーン!と目が覚めました。
 満州へ両親が北海道の小樽から渡ったのは昭和八年です。酒造りで成功し、私は十三年に生まれました。揺籃(ようらん)の穏やかな時が流れていたのに、にわかにソ連軍が侵攻してきました。
 八月十一日の午前十時ごろです。わが家の庭にいると、ソ連軍の爆撃機がものすごいごう音で飛んできました。目の前で、腹がぱかっと開いて爆弾がぽろりぽろりと落ち始めて。道一本隔てた陸軍の兵器庫を大爆撃したわけです。僕は吹き飛ばされ、家は爆風でガタガタになりました。
 父は長春に出張中で留守でした。母は「一日も早く逃げるべきだ」と即断します。関東軍に掛け合い、軍人とその家族を避難させる列車に自身と私、七歳上の姉を潜り込ませました。
 夜陰に紛れて牡丹江駅を出発した列車には千何百人も乗っていました。国を守るべき軍人がいち早く国民を捨てて逃げるのです。翌朝、列車が横道河子(おうどうかし)駅の辺りで機銃掃射を受けます。僕たち家族も一般居留民を出し抜いて軍用列車に乗った後ろめたさは感じていましたが、われ先に逃げたのはふんぞり返っていた少佐らしき軍人でした。
 機銃掃射の時、母は「おまえは小さいんだから座席の下に隠れなさい」と僕を座席の下に押し込み、外へ飛び降りて逃げた。僕は、親から見捨てられた気分になりました。生まれて初めての残酷な体験です。列車に戻ってきた母は「これからは自分の意思で逃げて、自分の意思で生きなさい」と。母の名言で、僕ががんになった後、生きる力につながりました。
 -なかにしさんは、がん治療の方法を自らの考えで選択されました。その原点ですね。ハルビンまでの逃避行では、ご著書に印象的なシーンがあります。
 はい。珠河(しゅか)(現・尚志)の駅の手前で、列車が大きな川にさしかかると、鉄橋は今にも壊れそうです。全員下車して川を渡り、貨車だけを通しました。ぬれた体で向こう岸に着き、列車に乗ろうとすると、長野県からの開拓民たちが押し寄せてきました。病人だけでも乗せてくれと、無蓋(むがい)列車の箱枠にしがみついてきます。
 将校は「離れないと、指を切り落とすぞ」と軍刀をかざし、私たちに「その手を振り払え」と叫びます。僕は最後尾の貨車だったので、彼らの手の指一本一本をもぎとるようにはがしていきました。
 その指を離せば彼らはそこで餓死するか、歩いて疲れ死ぬか、中国人の暴動で死ぬかです。指をはがしたのは僕たちの意思というより、兵隊の意思でです。逆らえば、僕たちも殺される。見殺しという言葉がありますが、見殺しに加担したことが僕の幼年期の第一の罪の意識です。はがされる人の指の感触も、顔も覚えています。
 満州で敗戦を迎えた私たちは三度にわたり、国家から見捨てられたわけです。一度目は、関東軍によって棄民されます。二度目は、「居留民はできるかぎり現地に定着せしめる」という外務省からの訓電です。そして三度目は、引き揚げ政策のGHQ(連合国軍総司令部)への丸投げでした。

 -引き揚げ船に乗ったのは翌年ですね。
 そこでも大人たちの姿に幻滅しました。満州でソ連兵の女狩りに協力した避難民へのリンチ劇…。夜には大人の男女がもぞもぞと重なり合い、うめき声をあげる。
 少年心にも、生きていてもしょうがないと。夜の暗い甲板から姉と一緒に死のうとした時、船員さんに止められます。『リンゴの唄』を聞かされ、「君たち、死んではいけない。今、日本では皆この歌を聞きながら、焼け跡から立ち上がろうとしているんだ」と。
 僕は、なぜ平気でこんな明るい歌が歌えるんだろう、と思いました。僕らは玄界灘の真っ暗な海の上をさまよい、まだ戦争は終わっていない。なのに日本人はもう新しい出発をしている。悲しくて。僕にはとても残酷な歌でした。
 中国残留孤児が日本人の生活を見たらどう思うでしょうか。自分たちの戦争はまだ終わっていない。国にも帰れない。やっと訪れたら、自分たちのことなんて忘れて、裕福に生活している。ものすごい悲しい状況でしょう。日本人の得意技ですが、過去を忘れるのが早すぎないでしょうか。私たちはいまだにそうした『リンゴの唄』を歌い続けているわけですよ。
 今年の七月の終わりごろ、生まれ育った旧満州を訪れました。帰国の拠点だった葫蘆(ころ)島には当時の駅舎や鉄道のレールが保存されていました。当時がよみがえり、たまらない気持ちになりました。

◆憲法は最高の芸術
 -日本国憲法を「芸術作品だ」と表現されていますね。
 地獄の底でも落ちる深さが深いほど、跳躍する高さは高くなるでしょう。あの戦争でアジア全体で二千万人以上が亡くなった。大変な犠牲を払い、ついに手に入れた最高の憲法ですよ。
 米国の押しつけだとか言いますね。けれど、これは戦後日本の再出発の宣言書なんです。世界に向けた宣言書。各国が認めて、反対しませんでした。世界が希望する国の形を与えてくれたとも、われわれが選んだとも言えます。大きな歴史のうねりの中で生まれた。本当に奇跡的な、最高の芸術作品だと思います。
 その憲法のもとでとにかく戦争しないで七十数年やってきました。一体これの何が不都合なのでしょうか。国民は誰ひとり戦争が起きて幸福にはならないのに、なぜ政治家のまねをして改憲に賛成しなきゃならないのか。政治家とつるんで金もうけでもたくらんでいるのでしょうか。
 「美しい日本」「取り戻す」。そうした抽象的な言葉で何に回帰したいのでしょうか。日本の理想はまだ実現されていません。この憲法の名の下にこれから実現するべきなのです。なのにその努力を怠り、反省すべきを反省せず、戦前の軍国主義を勘違いして、そこに「美」を求めるのはとんでもない反動です。
 昭和二十年までの軍国主義によってどれだけの人を悲しませ、苦しませ、犠牲にしたか。そして愚かな戦争によってどれだけの若者たちが無駄死にし、犬死にし、飢え死にしたでしょうか。そして、中国人や韓国人に対してどれだけの過ちをしたか。そうしたことを本当はもっと国民に知らせるべきなんです。
 それなのに若者はそれを知らないし、今、それを言おうとすると大変です。小泉政権のころから「日本は悪くなかった」という国民意識の改革のようなものが始まり、そうした洗脳が十年近くかけて実を結んできたわけです。国民意識の変化は怖いですよ。
 自民党は改憲を言うとき、「対案を出してくれ」と求めます。それには各党が「反対なんだから対案なんて出す必要はない」と言えばおしまいなんです。もともと改正の必要がないわけだから。そうすれば国民の目も覚めますよ。
 自民党の改憲草案は、発想が国家ありき。憲法は国民ありき、個人ありきなのに、逆転の発想がしたくてしょうがないようです。棄民思想をずっと日本はやってきたわけですが、少しも進歩していません。

◆個人が抹殺される
 -現代の「棄民」についてどうお考えですか。
 福島の原発事故が起きて、当時は民主党政権でしたが、あのときの情報を開示しない状況から思い付いたのは「棄民」でした。今も事故によって故郷を追われ、避難民生活を余儀なくされている。
 戦前、国策で満州へどんどん人を入植させました。戦争でやばくなったら、さあ帰ってらっしゃいというのが普通の国家です。今は除染されたから帰れ、帰らないと補助金はあげられないなんて棄民を絵に描いたようなものです。
 国という一つの組織となると、人格を失うというか。まさに戦争とは非常事態宣言です。個人がいかに抹殺されても国家の正義だというものが論理の上では成り立つわけですから。それでは個人がたまったものではない。犠牲になるのはすべて個人です。そう経験した人たちがだんだん減り、戦争を知らない人たちが戦争を云々(うんぬん)しているのは危険だなと思いますね。

感想
終戦直後、中国北東部や朝鮮半島にいた日本人は軍部の上層部から、「そのまま滞在するように」との指示で滞在していたら、ソ連や中国軍の支配下に置かれました。軍部の上層部は真っ先に日本に逃げていました。

五木寛之氏も日本に帰る時に家族が悲惨な目に遭っています。
軍人は自分たちのいのちを優先で国民を守ってくれませんでした。
そのため国は信用できないとの信念を身をもって体験されたそうです。

軍人も上の人間だけが、一兵卒を放り出して逃げています。
沖縄でも多くの県民の犠牲を出しました。
義父もシベリアで数年抑留されました。

国を守るためと言って、戦争を決断し、決断した人は安全な場所に留まり、300万人に及ぶ兵隊と国民が犠牲になり、戦争を決断した人のほとんどが責任を取らず、自分のいのちを守ることを優先したのが第二次世界大戦だったのではないでしょうか?
過去に目を閉じずに、過去を見つめないと、今を見ることができなくなり、再び同じ過ちを繰り返します。
安倍首相「戦争の惨禍を決して繰り返さない。この誓いを貫き、歴史と謙虚に向き合い、世界の平和と繁栄に貢献する」
と述べられています。そのためには過去に目を閉じないことではないでしょうか?

その中で、下記のような軍人もいましたウィキペデイアより
根本 博(ねもと ひろし、1891年6月6日 - 1966年5月24日)は、日本の陸軍軍人及び中華民国の陸軍軍人。最終階級は共に陸軍中将。栄典は勲一等・功三級。陸士23期。陸大34期。
終戦時に内モンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に駐屯していた駐蒙軍司令官として、終戦後もなお侵攻を止めないソビエト軍の攻撃から、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在していた在留邦人4万人を救った。

駐蒙軍司令官として
1944年11月、駐蒙軍司令官に就任。翌1945年8月のソビエト軍の満州侵攻は、8月15日の日本降伏後も止まらず、同地域の日本人住民4万人の命が危機に晒されていた。ソビエト軍への抗戦は罪に問われる可能性もあったが、生長の家を信仰していた根本は『生命の実相』よりそのような形式にとらわれる必要はないと考え、罪を問われた際は一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決め、根本は「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と、日本軍守備隊に対して命令を下した。途中幾度と停戦交渉を試みるが攻撃を止まないソビエト軍に対し、何度も突撃攻撃を繰り返しソビエト軍の攻撃を食い止めながらすさまじい白兵戦を繰り広げた。更に八路軍(人民解放軍の前身)からの攻撃にも必死に耐え、居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた[2]。また、根本は中国国民党軍の傅作義と連絡をとっていた。
8月19日から始まったソビエト軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、日本軍の必死の反撃にソビエト軍が戦意を喪失した為、日本軍は8月21日以降撤退を開始、最後の部隊が27日に万里の長城へ帰着した。出迎えた駐蒙軍参謀長松永留雄少将は「落涙止まらず、慰謝の念をも述ぶるに能わず」と記している。一方、20日に内蒙古を脱出した4万人の日本人は、三日三晩掛けて天津へ脱出した。その後も引揚船に乗るまで日本軍や政府関係者は彼らの食料や衣服の提供に尽力した。
引揚の際、駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に苦心していたとされる。8月17日頃から、軍の倉庫にあった米や乾パンを先に、沿線の各駅にトラックで大量に輸送していた。
一方の満州では関東軍が8月10日、居留民の緊急輸送を計画したが、居留民会が短時間での出発は大混乱を招く為に不可能と反対し、11日になってもほとんど誰も新京駅に現れず、結局、軍人家族のみを第一列車に乗せざるを得なかった。これが居留民の悲劇を呼んだと言われる。


ここで死ぬんだ…爆弾破片が顔に命中、米軍治療で一命 沖縄戦経験の女性「誰もこんな目に遭わせたくない」 ”語り続ける熱意と使命感”

2017-08-15 11:50:00 | 社会
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170815-00010001-saitama-l11 埼玉新聞 8/15(火)
 「戦争のせいでこんな顔になったんだ」。沖縄県民の4人に1人が犠牲になったといわれる太平洋戦争末期の沖縄戦。13歳だった新垣(にいがき)文子(ふみこ)さん(84)=埼玉県越谷市=は、顔に爆弾の破片が当たり大きな傷を負った。「もう誰もこんな目に遭わせたくない」と、2年前から自身の過酷な体験を語り始めた。

 沖縄県首里市(現那覇市)で7人きょうだいの長女として育った。父が時計店を営み、経済的にも恵まれていたが、「幸せな家庭は戦争によって奪われた」。長男は学徒動員され、次男は疎開。残った家族7人は、ガマと呼ばれる洞窟や防空壕(ごう)に隠れながら南へと逃げた。父は4歳の弟を、母は2歳の弟を背負い、新垣さんは6歳と8歳のきょうだいの手を引いた。

 沖縄戦終結間近の1945年6月13日。米軍による爆撃が襲う中、壕に入れず近くの民家で身を潜めていた。危険を感じた父親に手を引かれ、その場から逃げようとした瞬間、爆弾の破片が新垣さんの顔に当たり、気を失った。

 目が覚めると頭が鉛のように重かった。顔は腫れ、顔の中心に「ざくろのような」穴が開いていた。父に担がれて野戦病院へ行ったが、医師からは「助からない」と言われた。薬すらもらえない。意識がもうろうとし、これ以上逃げることはできなかった。一家は壕に戻り、残されていたわずかな食料で2日間を過ごした。「私はここで死ぬんだ」。新垣さんは覚悟した。

 2日後、家族は米兵に見つかり捕虜となった。米軍による治療のおかげで容態は落ち着いた。「もう少し遅かったら駄目だったと思う」。約3カ月にわたる沖縄戦で、出兵した15歳の長男は戦死したが、残る家族は生き抜いた。

 戦後、顔に大きなばんそうこうを貼って、高校に通った。男子生徒にからかわれることもあった。卒業写真は撮影を拒んだ。「私は元々こんな顔じゃない。戦争のせいでこんな顔になったんだ」。戦争への強い怒りは、次第に「打ち勝ってやろう」という生きる力に変わっていった。

 19歳の時、後に「おばあちゃん」と慕うようになる米国人女性と出会う。顔の傷を見た女性は手術の援助をしてくれた。10回以上の形成手術により、傷は目立たなくなった。「きっと加害者としての気持ちで助けてくれたのだと思う。けがはしたけど、恵まれていた」

 顔の傷を理由に諦めていた結婚だったが、東京で再会した高校の同級生と30歳で結ばれ、2人の子宝に恵まれた。一方、不安もあった。「私の顔のせいで子どもたちが学校でいじめられていないか」。そんな気掛かりから、子どもたちに戦争について全てを伝えることはできなかった。

 語り始めたきっかけは2010年、沖縄戦をテーマに朗読を行う女優の谷英美さん(52)=川越市=との出会いだった。谷さんは新垣さんの体験を基にした作品「顔」を朗読していた。新垣さんはそれを聞くうちに、「私も伝えたい」と思い始めた。

 「こんな傷がなければと考えてしまうことがある」。それでも、新垣さんは講演の依頼を引き受ける。「自分の体験を話すのは魂の叫び。もう誰にもこんなつらい目に遭わせたくない」

感想
戦争体験を話すことで、戦争の悲惨さの一部を知ることができます。
戦争を始める人は、安全なところで、自分が傷つくこともありません。
しかし、その人が始めた戦争で多くの兵士がそして一般人が犠牲となりました。

戦争体験を話す人が高齢になり、だんだんと少なくなっています。
戦争はどんなことがあっても起こしてはいけない。
そのための努力をしなければなりません。
戦争ができる国にするための努力は戦争になる確率を高めるだけだと思うのですが。

「国民にとって実に不幸」 河野洋平氏が安倍外交を批判 ”発言する勇気”

2017-08-15 11:38:48 | 社会
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170815-00019909-kana-l14 神奈川新聞 8/15(火)

こうの・ようへい 1937年、平塚市生まれ。67年の衆院選に自民党から出馬し初当選。その後、14期連続当選。内閣官房長官や外相、自民党総裁などを歴任。アジア・軍縮を重視した議員外交に尽力、戦争責任問題にも積極的に取り組んだ。2003年から09年まで憲政史上最長となる衆院議長を務め、同年に引退した。
【時代の正体取材班=石橋学、牧野昌智】自民党総裁や官房長官、外相、衆院議長を歴任した河野洋平氏(80)が戦後72年の終戦記念日を前に神奈川新聞社のインタビューに応じ、安倍晋三政権の政権運営や外交政策を批判した。かつての自民党ハト派の重鎮は「政治とは戦争をしないことだが、その逆をやっている」と断じ、対米追従一辺倒の姿勢に警鐘を鳴らした。

【インタビュー全文】「政治とは戦争しないこと」

 河野氏は官房長官だった1993年、慰安婦問題で旧日本軍の関与と強制性を認めた「河野談話」を出すなど、2009年に政界を引退するまでアジア重視、保守穏健派の代表格として知られた。

 インタビューは7月下旬に行われたが、その後の内閣改造で外相に就任した長男、太郎氏(54)への忠告といえるものになっている。護憲、軍縮、核廃絶に取り組んできた立場から「戦争で問題は解決しない。外交や政府開発援助(ODA)など経済的手段で解決するしかない」と持論を語り、「中国や韓国との関係改善を望む気持ちは国民の中にあると思う。わが国を攻める国があるのなら、そうした国と仲良くして攻められないようにすればよい」とアジア外交の重要性を説いた。

 集団的自衛権の行使容認に転じ、憲法9条の改正を提唱するなど対米追従を強める安倍政権の安全保障政策に対し「米国の軍事的要求を断ってきた9条というかんぬきを自ら緩めている。米国は相当好戦的な国だ。トランプ大統領も平和主義者に見えない。どこへ連れて行かれるのか」と危機感を募らせた。

 緊迫する北朝鮮問題にも言及し、核・ミサイル開発と拉致問題の解決のためには中国に働き掛けを求めるべきだと唱え、「米国に同調し制裁しているだけは危機は減らない。拉致問題解決のためにも外交を中心に据えるべきで、今すぐは無理だが、国交の樹立は解決の足掛かりになる」とも語った。

 さらに沖縄・辺野古の新基地建設問題についても触れ、「新たに基地が造られれば沖縄に100年先も米軍基地が存在することになる。独立国とはいえない」と批判。安倍政権を「国民に寄り添わず自分のやりたいことをする政権という印象だ。4年も5年も国民の希望や期待とかけ離れた政治が行われ、国民にとって実に不幸なことだ」と酷評した。

感想
昔の自民党は、同じ自民党内でも様々な意見を言える党だったように思います。
ところが、今は安倍首相が行うことには、何も言わずに(言えずに?)、おかしいこと(森友学園、加計学園問題)も沈黙です。
官僚も安倍首相を支える側に回り、それを身体を張って実践した人は出生というご褒美が貰え、それができずに足を引っ張った人は左遷になるようです。

1985年 ドイツのヴァイツゼッカー元大統領がの演説の中に、
「過去に対して目を閉じる人は、現在をを前にしても盲目なのです」
がありました。
日本は過去の都合の悪いことは国民に知らせないことに努めているように思えてなりません。

インパール作戦で数万人が亡くなったとも言われています。
ほとんどが餓死と病気でした。
この無謀な作戦の責任者は何の罪も問われていません。
ノモハン事件では数千人の戦死者が出ましたが同じように責任者は罪に問われていません。
731細菌舞台は捕虜をモルモット代わりにして病原菌の影響を調べました。
捕虜に関する国際法違反です。
しかし、そのデータを米国に提供する代わりに、責任者は罪に問われていません。
国民が過去のことをしっかり知る必要がありますが、国は決して教育ではそれを教えていません。
ドイツではヒトラー時代に行ったことを教育で若い世代に伝えています。

同じ過ちを繰り返してしまうのではないでしょうか?
福沢諭吉の「学問の進め」に”愚民の上に苛酷な政府がある。良民の上には良い政府がある”の言葉があります。
まさに政府は、国民に知らせないことで国民を愚民に導こうとしているようにも思えます。
すなわち、自分たちのやりたいように政治を行いたいのでしょう。
正直な麻生副総理が、「憲法はある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」と発言しています。つい本音が出たのでしょう。
欧米でこのような発言をすると政治生命が断たれるほどの発言でしたが、日本国民はそのように思わない人が多いのかもしれません。

政権を批判するのは勇気が要ることです。
本当は政権側が、批判できる社会を創り、批判に耳を傾ける度量が求められるのですが・・・。





「会社はいつ道を踏み外すのか 経済事件10の深層」田中周紀著 ”経営者の踏み外しは影響大”

2017-08-15 01:30:00 | 社会
1)東芝「不正経理」問題
2)山一証券「飛ばし」事件
3)オリンパス巨額「粉飾決裁」事件
4)NHK記者「インサイダー取引」問題
5)第一勧業と大手証券4社「総会屋利益供与」事件
6)石橋産業「手形詐欺」事件
7)早稲田大学・マネーゲーム愛好会の「相場操縦」事件
8)ニューハーフ美容家「脱税」事件

9)クレディ・スイス証券元部長「脱税(無罪)」事件
海外で付与された株式報酬は、別途確定申告する必要があったが、会社も十分説明していなかったために、結果として脱税になった。脱税を意図しない行為なので修正申告すればよいが、東京地検特捜部は脱税を意図して行ったとしてその証拠探しを行った。
東京地検特捜部は、容疑者を有罪しようといったん決めると、もう後戻りはしない。
結局、裁判で無罪判決になった。裁判官の言葉「今回のことで時間が過ぎ、大切なものをなくしてきたと思います。それを取り戻すのは難しいと思いますが、・・・、一回しかない人生を、しっかり歩んでほしいと思います」
検察側は判決を不服として控訴したが、東京高裁はそれを棄却した。
誤った判断で無実の一個人を追い詰めた国家権力が、最後に吐いた棄て台詞「八田隆に対する所得税法違反事件、明確な上告理由が見当たらないので、上告はしないこととした」
八田は14年5月、検察庁と国税庁を相手取り、東京地裁に5億円の損害賠償請求を起こした。勝訴の暁には、刑事訴訟対策の基金をせ追律するという。

10)ライブドア「粉飾決算」&村上ファンド「インサイダー取引」事件
税金を使った露骨なイジメ。堀江は懲役2年6カ月の実刑。
わずか50億円余りの粉飾で実刑とは驚くばかりだ。

感想
会社が倒産あるいは大きな影響を受けるのは、トップの違反の判断と問題を先送りし、保身を優先した時のようです。
東芝は原子力の米国会社を6,000億円で無理して購入(2,000億円くらいの価値しかなかった)した結果、悪くなった業績を隠して先送りした結果でした。

山一証券も先送りせずに、他の証券会社と同じように膿を出していれば、倒産まで行かなかったのでしょう。
大和証券も、海外に飛ばしをして先送りを選択しようとしましたが、力のある会長の判断で膿を出しました。

オリンパスは外人社長だったので、膿を出しました。その社長は解任されましたが、結果的にはそれが会社を救ったようです。

法に反することをしない、問題が発見したら、経営者は自分の首が飛んででも先送りしないことなのでしょう。

摘発する側の検察庁は、思い込んだら、間違いに気づいてもそれを修正しないようです。
法的な判断より、自分たちのメンツを優先する体質があるようです。
裁判で検察庁が敗訴して、原告に多大な迷惑をかけ、その人の大切な時間を奪っておきながら、それに対する謝罪もありません。
税金で運営されているのに、もう少し、間違いは間違いと認める寛大さと勇気を持って欲しいと思いました。
結局、検察庁のトップが自分の保身を考えているのでしょう。
それは東芝や山一證券のケースと同じように思いました。
一方は、裁判で責任が問われているのに、検察庁の責任者は責任が取らされていません。

最近報道された、中学生の万引き操作で、警察側の恐喝的な取り調べが問題になりましたが、恐喝的な取り調べをした人の名前は出されていませんし、”注意”だけで終わっています。
自分達には甘すぎないでしょうか?
だから、繰り返してしまうように思います。
全て録音すべきだと思います。
ただ、それにしても、録音に気付かない警察官の甘さがまだ救いです。